【migration】「やぁ、目が覚めたかい? 君も」
———君も?
知らない声がして、まだ霞む眼を左右に動かすと、左隣には知っている顔がある。
「いつまで寝てるつもりだ、セブン?」
「エイト⁈」
なんで、どうして? これは夢なのか? だって、おまえはあの時、目の前で———、と喚いたところで視界がぐるりと回転する。要するに、ベッドから落ちた。
即座に起き上がると、やれやれ、といった含み顔でエイトは笑っている。
「落ち着けよ、ベイビー。そんな調子だと、あいつらに会ったら身が保たないぞ」
「え、誰に…?」
「僕らのことかな」
目が覚めたときに聞こえたのと同じ声がして、びくりとする。勢いよく見遣った先には、くしゃくしゃの髪をブロンドに染めたやわらかな男がにこやかに、ぼさぼさの黒髪でなにやら暗い男が眉間に険しい皺を寄せて佇んでいた。
マルティプルが支配でもしてるのか、この世界は? 自分の預かり知らないところで、また培養槽から引っ張り出されたのか、なんだってこんなに同じで違うんだ、と両手で顔を撫でて溜息を吐く。エイトは笑っている。ふざけんな。
はぁ、と溜息と共にベッドの縁に頭を突っ伏した俺の後頭部に、金髪の方の呟きが届く。
「いやぁ、しかし、これまた不思議な〈同じ顔の男〉がやって来たものだねぇ」
なんと、驚いたことに、俺たちと同じ顔の男がここには何人も居るらしい。
そしてここは地球で、西暦二◯二◯年代で、ゴッサムで、ブルース・ウェインの所有するタワーで、黒髪で暗くて無愛想なそいつはバットマンらしい。訳がわからない。
俺たちと違うのは、出身、名前、性格、歳、時代、アクセントがそれぞれ異なること。それから、エクスペンダブルではないこと。
中には宇宙で暮らしていたという親子も居て、化学シャワーや食事について俄かに花が咲いた。
ふと地球だということを思い出して、ダリウスに殺されるのでは? この世界にあの金貸しはいるのかと狼狽えもした。
その後でナーシャのことを考えた。忘れていた訳じゃない、ただ、わかるだろう? 混乱していたんだ。ナーシャの居ない世界に用はない、さっさとお暇しよう。
でも、ここには、死んだはずのエイトが居る。
俺はどうしたらいいのか、言うべきこと、言いたいことをごちゃ混ぜにしながら口を開けては閉じてを繰り返している。
そんな俺の内情を察するまでもないエイトは「なぁ」と黒髪と金髪の同じ顔に声を掛けた。
「セブンと、ふたりで話したい。いいだろ?」
エイトの提案により、俺たちが目覚めたゲストルームをしばらく借りることになった。いつまで居ることになるかはわからないが、男二人が並んでも余裕のある、清潔な寝床は心地良さと落ち着かなさが同居する。
話がしたいと言い出した当のエイトは呑気に執事(執事!)に用意してもらったサンドイッチを食べて、満足したのかベッドに手脚を投げ出している。
「……おい、話がしたいんじゃなかったのかよ」と大きなベッドの三分の二を陣取るエイトに問いかけると、スッとテーブルの方を指差した。
「おまえも食べた方がいいぞ、サンドイッチ。あんなの、ニヴルヘイムに戻ったらまずありつけない」
「話したいことってそれか⁈」
確かに、豊かなレタスとトマト、厚切りのベーコンにフライドエッグまで挟んだサンドイッチなんていつ振りかも、この先食べられるかもわからないし、腹は減っていて顎の奥が涎でジワリと痛いが。
「落ち着けよ、騒いだって今出来ることは食ってクソしてセックスして寝ることくらいだろ。幸い、ここには俺たちの命を脅かすようなものは無い」
「こんな時にもおまえの頭はセックスのこと考えてるのかよ」
おまえだって今一緒に居るのがナーシャだったら、同じことを考えて一度はセックスしてるだろ? という顔をされる。
その可能性は否めない、というより、大いにあり得る。でもここにはナーシャは居ないんだ。言葉に詰まり空気をパクパクと食んで、盛大に溜息を吐くと、くるくると後頭部で髪を弄ばれる。なんだよ?
「気が紛れるだろ、一度全部置いておけ」
「でも」
「いやなのか?」
「いやじゃないけどっ」
あ、いやじゃないのか。
買い言葉な気もするが口に出した違和感はないな、と他人事のように思う。そんな場合じゃないのに。
「だって…、ずっと会いたかったし、嬉しいけど、あの時死んだのに、半年経って、プリンターもなくなって、次が生まれることなんかもうないのに、今目の前にエイトがいて、こんなの…っ! ……おまえにも、ありがとうって言いたかったんだ、俺じゃ出来ないことをしてくれたから…会いたいって……」
ボロボロッと、あらゆるものが溢れて零れる。そのあらゆるもので、情けない顔面が更に酷いことになっているだろうが、構うもんか。どうせミッキーしか見ていないんだ。
「馬鹿だな、俺はずっと居ただろう? お前の中に。俺に出来ることは、おまえにも出来るんだよ」
ベッドからは降りずに、エイトが身体を伸ばしてテーブルからサンドイッチを覆っていたナフキンを掻っ攫い、顔に溢れた諸々を拭う。サンドイッチ、乾燥してしまうだろうな。
わかってる、おまえは俺だって。でも考えてしまうんだ、何度も「エイトならどうする?」かって。
「俺が居るのも多分「ここ」だけだ。もしニヴルヘイムに戻れるなら、そこに俺は確実に居ない」
「エイト———っ⁈ わっ」
「だから、ほら」
両腕を首に回して、七十キロの全体重をかけられて豊満なマットレスを弾ませる。両脚で腰をしっかりホールドされ、あれよと押し倒すことになった。
エイトは笑ってる。ここに来てからずっと。半年前はあんなに怒っていただろ。なんだよ、優しくするなよ、またすぐ別れなきゃならないんだぞ。飴と鞭の飴の方なのか? おまえ本当にエイトなのか?
あぁ、でもこの頬の傷と、俺と少しだけ違う前歯は。
「おまえを愛せよ、セブン」
「……うん」
「どうしたのミッキー、また夢でも見たの?」
ひと通りことが済んで目を覚ましたら、ナーシャが隣で頬を愛でてくれていた。どうやらこっちでも俺は泣いていたらしい。
もう戻ってきたのか、いや、ナーシャのいない世界に用はないからこれでいいんだけど。
鼻を啜って、ナーシャの手の上から自分の頬を覆った。
「———エイトに会った」
「エイトに? 夢で?」
「夢じゃない…けど、確かに会った」
首を振ってそう言ってはみたが、あれは本当に夢ではなかっただろうか。
ナーシャのことは、心から愛しているし、ぴったりと嵌り合うかけがえのないソウルメイトだ。でも、それでも塞がらなかったものが埋まったこの充足感は、夢ではないと信用するに値すると思う。ちゃんと、本当になれた気がする。
「それで、会って何を話したの?」
「あー、……自分を愛せよって、今しかできないからってセックスした」
少し言うのを躊躇ってから、すでに三人で床を共にしたことがあるのだから(未遂だけど)構わないだろと口にしたら、ナーシャは転がり落ちるかと思うくらい大きな目を見開いた。
「本当にっ⁈ 抱いてもらったの⁈」
「ん⁈ いや、逆? だった」
「あなたがエイトを? やだ、それ最高、見れなかったなんて残念‼︎ なんで私そこに居ないのっ」
ミッキーは全部私のなのに‼︎ と俺の髪をくしゃくしゃに掻き混ぜて、仰向けになって狭いベッドで足をバタつかせる。
かと思ったら、目をキラキラとさせて、生まれたままの姿を上にのし掛かけてきた。
「私に教えて? ミッキー・バーンズが、どんなふうに自分を愛したのか」
唇を押し付ける彼女に応えて、目を閉じる。ナーシャの匂いを深く吸い込むと「ねぇってば」と催促される。
「はは、わかった、わかったよナーシャ」
議員の仕事は何時からだっけ? キスの波間で考える。
伝える時間は足りるだろうか。俺が、どんなふうに俺を愛したのかを。
「……? もうひとりはどうした」
俺たちと同じ顔をした黒髪の方が、借りているゲストルームに顔を出した。
この馬鹿デカいタワーの今の持ち主らしい。俺たちの時代にも名が知られているようなコミックヒーローの世界に厄介になろうとは、流石に考えたことはなかったな。
ことを済ませたままの姿を繕うのが面倒で、申し訳程度にブランケットを引き上げる。腰も尻もじんわり重い。
「セブンならニヴルヘイムに帰った、多分。俺もそろそろ消えるだろうな」
「消える…? エイト…は、帰らないのか」
小首を傾げると、毛束がパラリと落ちる。
「帰るもなにも」
もう死んでるからな、と告げると、黒髪は顔を少し強張らせた。あぁ、そうだ、この男も親を失っているのだっけ。
黒髪の強張った表情はすぐ戻り、そっちのパターンか、なるほど、などと小声で呟いている。そうか、おまえも少しは自分を愛せているんだな。
死んでいるといえば、聞いたところ、俺のように死後ここへやって来た者も複数いるらしい。マルティプルでもないのに、不思議なこともあるものだ。
「未練でもあったのか」と黒髪、いや、ブルース・ウェインに突然問われた内容に眉根を寄せる。そうだな、どちらかというと未練があったのは俺じゃない。セブンの方だ。
確かに、培養槽から出てすぐはもっと生きるつもりだった。ナーシャとだって一度しかセックス出来てない。でも、セブンがミッキー・バーンズの方がいいと思ったんだ。
たった一日だが、自分の生き様に未練も後悔もない。
「まぁ、悪くない命だったさ、……」
言葉にしたところで、急激な眠気に襲われベッドにうつ伏せになる。ブルースが何か言った気がするけど、頭蓋骨の中が茹って思考が溶けて、更にプレス機で押し潰されているような、強制終了の気配は争い難い。
俺も、ここを去る時間というわけだ。
「———……」
耳鳴りか、鳥の囀りのような、暗くて広大な音がする。これは多分、宇宙の音だ。瞼を開けてるのか閉じてるのか、わからない闇に還っていく。もしかしたら俺は、このままダークマターにでもなるのかもしれない。
「さようなら、エイティーン。いつかまた出会おう」
覚えのある声がした。いまの誰だった?
あぁ、もうなにも思いうかばない。
そうだな、いつか、また———