夢と知りせば 今思うと、あれはきっと「虫の知らせ」だったのだろう。
カラン、とプラスチックのコップが転がり、足元に広がったオレンジ色の海を呆気にとられながら眺める。遅れて、隣にいた友人の声が耳に届いた。
「実彩? どげんしたと急に」
「っ、あ……ごめん、ちょっと目眩しただけやけん……服濡れとらん?」
「私はへーき。実彩は?」
「ウチも汚れとらんよ。ティッシュ持ってくる」
先生、ティッシュください。そんなことを言いながら、先ほど一瞬、ぞわりと背中を撫でた不快感を思い出していた。
せっかく最後に塾の友達と会う機会である、合格祝賀会だったのに。いったいどうしてコップを落とすなんて、幼い子どもみたいな失態を晒してしまったのだろう。心配をかけてしまったし、床も汚してしまったし、とんだ災難だった。早く片付けなければ、そう思いティッシュの箱から数枚の紙を適当にむしり取る。
(……もうそろそろ抜けんと、先生待ちよるごたよね)
床を拭きながら、ちらりと時計を見やる。文字盤の上を歩く針は、自分が指定した待ち合わせの時刻まで、ひとつひとつ音を刻んでは残りの時間を減らしていた。約束の十八時まで、あと半刻は切った。そろそろ出なければ、駅前にあるこのビルから、待ち合わせ場所の公園までは間に合わないだろう。
「三日後の土曜日、いつものベンチのところで待っていてほしい」。そう彼に話したのは、他でもない自分だ。卒業式も終わって、四月になって忙しくなってしまう前の、最後の日。どうしても直接会って伝えたいことがあって取り付けた約束だ、なるべく遅れることはしたくない。
時計へ移した視線をそのまま、賑わいに満たされた室内へ滑らせる。宴も酣、盛り上がりを見せる室内はなかなか解散する気配もない。どっと笑い声が上がった方を向けば、普段は滑りっぱなしの、数学の先生の一発ギャグが大当たりした様子だった。
(もうちょっと、様子見んと抜けられんかな……)
この塾も、ずいぶんとお世話になった場所だ。こっそり抜けていくというのはあまりにも親不孝ならぬ塾不孝な気がして、気が引けてしまう。自転車を大急ぎで漕げば、あと十分くらいは居ても大丈夫だろう。
「実彩〜? まだ終わらんと?」
「今終わったとこ!」
勝手に一人で結論づけて頷き、片付けを続ける。最後の一枚のティッシュを捨てたところでかけられた友人の声に、大声で返事をして踵を返す。あと少しだけ、なんてそんなことを考えながら、人の輪に混ざっていった。
ガシャン、と乱暴に、蹴り上げるようにして自転車のスタンドを立てる。焼き切れそうなほど使った肺は、春先のまだ冷たい夜風を吸い込んで、ヒュウと情けない音を鳴らす。まだ整わない息に胸元を抑えながら顔を上げ、せめてもの足掻きとして前髪を手で梳いた。
結局あの後、鎮まることを知らない宴からなかなか抜けられず、気付けば時計の針はとっくの昔に約束の時間を超えていた。慌てて塾を飛び出し、必死になって自転車を漕いで、ようやく待ち合わせ場所である公園に着いたのが今しがたのことだった。
ちらりとベンチを見やると、俯き気味に彼が座っている姿が見える。待たせすぎてしまっただろうか、居眠りでもして、風邪をひいてしまったら申し訳ない。ふう、と大きく深呼吸をして、そっと座っているところへ、なるべく視界へ入るように近づいた。
「……せんせ、ごめんね。抜けるん遅いごとなってしもうてね」
声をかけ、次いで言い訳を。怒られるだろうか、それとも笑って許してくれるだろうか。いつものように名前を呼んで、あの、自分にだけ見せてくれる、日向に微睡む猫のような、柔らかくふにゃりとした顔をしてくれたらいいのに。
期待を込めて声をかけ、しかし。返事をするどころか、ぴくりとも動かない姿に、ざわりと胸が騒ぐ。夜風が吹いて、桜がさざめくように枝を鳴らした。
「せんせ、寝よるん? 寝るんやったら、ちゃんとしたとこで寝んといけんよ? ねえ……」
眠っているのであろう彼を、起こそうと肩に手をかけた瞬間。
ぐらりと、目の前の人の体が傾く。まるで人形のように。閉じた目と、白い肌、生気のない、白い、白い肌が、街灯に照らされる。どさりと音を立てて倒れた体は、やはり指一本、まつげのひとつも動かなかった。
「……え?」
ぐわんと視界が揺れる。吸った息がやけに甘いような、舌の根も喉も唇も痺れていくような厭な感覚。目の前の景色が、寝起きでも水の中でもないはずなのに、ぼやけたように上手くピントが合わない。感覚のなくなった指先が、行き場をなくしたまま頼りなく宙を泳ぐさまが、視界に漂った。
何が起こっているのだろう。先程までうるさいほどざわめいていた桜の木が、今は静かに感じる。起こそうとした身体が倒れた、それはもう、彼が「ただならぬ状態である」ということを明白に表しているということだけは、回らない頭で理解することができた。
「せ、先生! せんせ、起きて!」
咄嗟に身体に手をかけ、揺さぶろうとして気付く。身体が冷たい、脈がない。白い肌に血の気はなく、力の入っていない身体はずるりと自分の手の動きに合わせてゴムのように動いた。
ああ、この感触、覚えがある。祖母のお葬式だ。「ばぁばにさよならしい」と言われ、手を棺に入れた時の、あの、ひやりとした肌なのに肌でないような、まるで別の物に成り果ててしまったような、隔たれた遠いところに行ってしまったような、恐ろしいほどかなしい感覚。死んでいる、なんてそんなこと。理解できないほど子供ではなかった。
「え……ぁ……」
人というのは存外冷たいもので、こんな時、悲しみより先に来るのは動揺だ。涙も出ない、どうしよう、どうしようと狼狽えるばかりの身体は、上手く息が吸えず喘ぐような音だけが口からこぼれる。酸素の回っていない頭で必死に考える。こんな時、どうしたらいいのかなんて知らない。先生なら知っていたろうか、聞こうにも彼は今、物言わぬ死体として自分の目の前に横たわっている。
がくがくと笑っている膝に力を込めて立ち上がる。誰かに助けを求めなければ、自分ひとりでは何もできない。それならば、子供である自分は親を頼るほかないだろう。幸いにも、家とこの公園はさして離れていないのだから、今から急いで家へ戻って話せば、もしかしたら助けられるかもしれない。短絡的な思考は、それだけで足を立ち上がらせて、家に向かって走らせた。
夜の住宅街はいやに静まり返っていた。田舎の夜は静かだとよく創作物では言われるが、実際にはたくさんの生物の息遣いでざわざわとしていることが常だ。それがどうだろう、人っ子一人どころか、犬一匹、虫ひとつ、息さえせずにいるような不気味な様相だった。早鐘を打つ心臓に、それが走っているからなのか、この有様に嫌な予感がしているからなのか、そんなことも考えられないほど思考は麻痺していた。
家に着くと、ついている明かりと小さく聞こえるテレビの音に、小さく息をつく。この不気味な非日常の中で、やっと日常という縋りつける板切れを見つけて、不謹慎にも安堵が胸にせり上がった。リビングでテレビを見ているのはきっと母親だろう。早く伝えて、助けてもらわなければ。靴を蹴散らすように玄関のたたきに放り、リビングのドアを開けた。
「お母さん!」
ガンッ、と勢いよく開けた反動で跳ね返ったドアの音と、自分の声がリビングに響く。返ってくると思っていた声はなく、代わりに迎えたのはどっと笑い声をあげたバラエティ番組を流すテレビの音声だった。
誰もいない。先程からずっと燻っていた違和感が、徐々に形をもって鎌首をもたげる。ずっと気付いていないふりをして、感じていないふりをしていた「それ」が、すぐ後ろで冷たい視線を送っている。
「お……お母さん、どこおると? トイレ?」
そんなわけないだろう、と理性が頭の片隅で嘲るように告げる。ほら、きちんと向き合わないと、わかっているんだろう? そんな声を無視しながら、家中のドアを開けていく。
「お父さん、まだ帰っとらんとね? ねえっ……」
いない、いない、いない……ドアを開ける、ドアを開ける、ドアを開けて、家中の部屋を見て回って。外に飛び出す。靴を履くのも忘れて探す。お隣のおじいちゃん、夕飯を食べていた食卓がそのままだ。昼過ぎ、斜向かいの家でうるさく吠えていた犬は、首輪とリードだけが抜け殻のように落ちている。
息を切らしてあたりの家を探し回って、手当たり次第にドアを開けて。ずっと後ろから裾を掴んでいた現実が、しっかりと肩を掴んでこちらを見据えた。
(……みんな、居らんごとなっとる)
まるで、生き物だけがごっそりと抜き取られたように、跡形もなく消え去っていた。誰もいない。何もいない。走り疲れた自分の、金切り声のように喘鳴する呼吸の音だけが夜の空気をふるわせる。今この場所で生きているものは、自分だけだった。
「……っ、ぁ……」
わけがわからない、理解できない、けれど本能的に「本当に消えてしまった」ということは理解してしまった。絶望なんて一言では形容しがたい、暗闇を飲み干してしまったようなどす黒い何かが、腹を喉をせり上がる。顔を覆い、それが出てこないように口を抑え、うずくまる。
自分が今、息を吸っているのか吐いているのかもわからなかった。そのままにしておくと身体が砕け散りそうな感覚に、自分をかき集めるように抱きしめる。必死に腕を握り、歯を食いしばる中、ふと、とても都合の良い考えが脳裏を過った。
(……先生は消えとらんかった。もしかしたら、まだ生きてるかもしれん)
ばかみたいだ、死んでいることをこの目で、手で、確認したはずなのに。そんな都合の良い甘い夢を見た脳は足に司令を送り、それを受けた足は力なくのろのろと立ち上がる。踵を返して、来た道を帰る。靴を履いていない足の裏に刺さった小石も、鈍った足の感覚では認知することもできなかった。
徐々に見えてくる、幽鬼のようにおそろしく白い、美しい桜。その下の、暗がりにぽつりと残されたベンチと、そこに倒れる人影。力なくそちらへ歩み寄り、膝を折ろうとするもそのまま倒れ込むように傍らへ座り込んだ。
「……せんせ、目ぇ開けて」
青白い頬に手を伸ばして、触れる。冷たい。わかっていたけれど、脈はない。上から覗き込むように、頬を手で挟んだまま額をこすりつけた。
「ねえ、ウチ来たよ。怒らんとって、意地悪せんで、起きてよ……」
返事はなく、代わりとでも言うかのように桜の木が大きくざわめく。わかっていた、知っていた。噛み締めていた唇の力を緩め息をしようとして、しかし口から漏れたのは吐息ではなく嗚咽だった。
「ぅ……ぁ……あああっ……」
ずっと腹の底で燻りとぐろを巻いていた感情が、目から口から溢れ出る。ああきっと、これは罰なのだ。分不相応に自惚れて、甘い夢を見て、その夢での約束すら守れなかった、どうしようもない子供だった自分への。どれだけ後悔してももう遅い。傲慢への罰は、愛したもの全てという形で下されてしまったのだから。
泣いて、酸素もまともに回らず、ぼんやりとした頭が全ての感覚を鈍らせていく。徐々に暗くなっていく視界の端に、冷たい夜風がひゅらりと、薄く白い霧のようなものを運んできたのが、見えた気がした。