かみ合わないじろいち(没)一郎は、毎晩隣で眠る二郎の顔に触れ、キスをする。
いつも、二郎がしてくれるような、優しいキス。
一郎が、二郎を裏切ったあの時から…。
「二郎」
二郎に聞こえないように、微かな声で名前を呼ぶ。
規則正しい寝息を立てる、その胸に、そっと顔を寄せる。
トクトクと、二郎の心臓の音を聞きながら、おずおずと、てのひらに手を伸ばす。
一郎が、二郎を裏切ったあの時から。
二郎が一郎の手を握ることはなくなった。
「そばに……」
いつか、二郎が遠ざかっていくとき。
考えただけで胸が張り裂けそうで、ズキズキと痛む。
どうか。お願いだから。
そう、心の中で唱えたと同時に、なんて身勝手なやつなんだ、と、自己を責め立てる。
一郎はぎゅっ、と両目をつむり、つないだ手を解いた。
もう一度、二郎の寝顔を覗き込む。
「おやすみ」
また、小さな声でつぶやいて、二郎の隣に横になると、その肩に額を寄せて、眠りについた。
***
あの日、二郎は、まるで真っ暗な深い谷底に突き落とされたみたいだった。
この世の仕組みを理解してからずっと、自分の想いが通じてからずっと、一番怖れていたことが現実となった。
二郎は何度も、ありとあらゆるものを恨んだ。
しかし、腐りはしなかった。
オメガとか、アルファとか、番とか。
そんなものより、ずっとずっと濃くて、切れない繋がり。
世界でたった3人だけの、兄弟。
それに敵うものなど無いと、二郎は信じていた。
一郎には選択肢がある。
誰と、生きるのか。
一郎に選ばれなければ、この深い谷底でひとり死ぬのを待つだけだと、二郎は思った。
『どうか、お願いだから、俺を捨てないでくれ』
あの日、一郎は、床に顔を擦り付け、泣きながら言った。
『お前と離れたくないんだよ、二郎』
他の男との子どもを抱えて…自分と一緒にいたい、理由。
そんなもの、考えたくもなかったけれど。
理由なんて、何だって…
夢を見ていた。
そう自覚し、二郎は目を覚ました。
最悪の目覚めだ。
気持ちが悪くて、思わず上半身を起こした。
隣に目を遣ると、いつも通り、そこには一郎が眠っていた。
そうだ、一郎は自分の隣を選んだんだから。
卑屈になることなんて、ない。
理由は、どうであれ。
一郎が選んだのは自分なんだから。
二郎は毎日毎日、そう自分に言い聞かせた。
「おはよう」
二郎は、そっとそう呟いて、寝息を立てる一郎を見つめる。
あの時から、一郎は触れ合うと身体を強張らせるようになった。
身ごもっていた頃は、そういうものなんだろうと気にしないようにしていたが…寂しさは拭えなかった。
あの子が産まれた後も、それは続いた。
キスをして、身体に触れて…そのうちにわかる、自分が拒まれていることが。
身体は震えているし、腕に力は入っているし、しかし言葉では拒まない。
一郎は、間違いなく無理をしていた。
そんな状態の一郎を抱くことなど、二郎には出来なかった。
そういった行為自体が、きっと、一郎のトラウマのようなものなのだろう。
ずきん、と、胸に痛みが走る。
だから、二郎は、一郎に触れたくなるとき、呼吸を置く。
一度、溢れ出る感情を飲み込んで、余裕のあるフリをする。
長く、深く、触れてしまえば、それだけ、もっと求めてしまうから。
二郎は、一郎の寝顔を見つめ、指先でそっと…。
触れたかったけど、出来なかった。
ずっと、このまま。
お互いの温度を忘れていってしまうのだろうか。
***
一日の終わり。
一郎と二郎は一緒に過ごす。
「ねぇ、兄ちゃん」
「ん…?」
いつも通り、PCに向き合ってカタカタと音を立てながら、一郎は答える。
いつもより、少し気怠そうに二郎には聞こえた。
「もう、仕事休みにした?」
「うん、今日まで」
「そっか」
そろそろ、ヒートの時期だ。
二郎は、一郎の匂いだとか、そういうもので体調の変化を感じ取ることが出来ない。
「アルファなら…」
感じ取ってあげられるのだろうか。
一郎は昔から、ヒートの間、自室に誰かが立ち入るの強く拒む。
三郎相手なら理解できたが、どうして自分まで拒まれるのだろう、と二郎はずっと思っていた。
しかし、多分、自分なんかには到底理解できない事情があるんだろうと…Ωとαには…そうなんだろうと…口を出すことが出来なかった。
いつの間にか止んでいたキーボード音に、二郎は気づく。
そして、自分が、一番口走ってはいけない言葉を口にしたことにも気づく。
「二郎」
一郎が、震える声で二郎を呼ぶ。
あぁ、また泣かせてしまったのか、と二郎は思った。
しかし、一郎は、その目を逸らさず、じっと二郎を見つめていた。
「ごめんな」
そう言って一郎はぎこちなく笑った。
そんな一郎を見て、二郎は思う。
泣かれた方が、マシだったと。
「ねぇ、兄ちゃん、なんでさ」
身体で繋がれなくても、心は一緒だと思っていた。
「なんで…」
実は、そんなもの、とっくに離れていて。
だから、あの日。
「離れたくない、なんて、言ったの…?」
ぽろぽろと涙を零しながら、二郎は尋ねる。
一郎は、二郎の涙を久方ぶりに見て、全身が震えた。
なんてことだろう。
あぁ、なんて酷いことを。
二郎は、ずっと笑っていてくれた。
いつも、隣で。
もう、何年も、何年も…。
「……お前を…」
己の愚かさに潰れてしまいそうな喉から、絞り出せたのはたったそれだけ。
愛してる、って、それだけ。
それだけ、素直に言えたらいいのに。
そんなこと、言う資格が自分にあるのかと……。
そして、二人の間に流れる沈黙は、また、二郎の心を殺した。
***
もう、思い出せないくらい久々に、二郎は一人で目覚めた。
朝の自室など、見たことのない景色だった。
首を絞められたような悲痛な声で、苦しそうに顔を歪める一郎を。
まるでこの世の終わりみたいに、身体を震わせる一郎を。
二郎はひとり置き去りにした。
だって、でも。
俺だって、辛かった。
どんどん大きくなるお腹を隣で見ていて、自分は一体誰で、何をしているのか、わからなくなった時もあった。
それでも、明らかに笑うことの減った一郎の、たまに見せる笑顔が見たくて。
それが本当に大事で。
尊くて。
あの子が無事に産まれてきてくれた、その時の、その表情を。
一生護りたいと、二郎は思ったのに。
きっと、酷い仕打ちを受けた、と言っても、誰にも責められやしないだろう。
「信じてたのに、信じてた……」
何年も何年も、見て見ぬふりをしてきた自分の感情が、洪水の様に押し寄せて、涙と嗚咽が止まらない。
そんな状態で家に居られるはずもなく、二郎は堪らず、一人外へと逃げ出した。
***
すぐに追いかければよかったのに。
一郎は、一晩中一人で泣き続けた。
ヒートの前兆なのか、泣きすぎただけなのか、頭は熱くてぼーっとするし、身体は怠くて思うように動いてくれない。