tiny ああ、これは散ってしまうな。今年も碌な花見が出来ないままだった。
ここ数日のあいだ続いた晴天に咲き誇っていた桜も見頃を過ぎ、この土砂降りの前では形無しだ。残業をようやく終えた夜半過ぎ、疲労困憊の身をなんとか励ましながら歩いていた。今朝急いでいた俺に一二三が折り畳み傘を差し出してくれた意味をついさっき知った。天気予報も把握してないなんて俺はなんて駄目な奴なんだ……。ありがとう、一二三。革靴を濡らさないよう、無数の花弁が浮かんだ水溜まりを避け、街灯が光るアスファルトを注意深く見つめながら、家路を急ぐ。
都会の端くれとはいえ、こんな夜中では雨の音以外何も聴こえない、はずだった。どこからか時折、ミュウミュウと鳴く声がする。疲れてるんだろうか……。更に進むと、その声は次第にはっきりとしてくる。小さな公園の散りかけの桜の木の下に、よれよれの段ボール箱が置いてあるのが見えたので恐る恐る覗いてみる。
子猫だ。
春の冷たい雨でしとどになった小さな身体は震えている。恐る恐る撫でてみると、小さくミュウ、と一つ鳴いた。特別動物が好きなわけではないが、こんな小さな命を捨てる人間どうかしてるだろ……とため息が出る。
そういえばこんな大雨の日に、一二三を探しに行ったことがあった。あの時も真夜中で、怯えた一二三は傘もないまま滑り台の下でうずくまっていたっけな。弱々しく鳴く子猫とあの日が重なってしまったらもう、このまま放ってはおけなかった。マンションがペット禁止だったかどうかは覚えていないが、見捨てて帰るわけにもいかない。濡れそぼる子猫を抱き上げ、一旦カバンの隅からハンドタオルを引っ張り出して軽く拭ってやると、安心したように目を閉じた。
子猫を抱きかかえたままでなんとか折り畳み傘を閉じ、軽く水滴を払う。マンション住人と鉢合わせることなく何とか部屋の前まで辿り着くことができてホッとする。鍵を開けると、ドアの向こうから明かりがこぼれた。ドアの鍵を閉めるとパタパタとスリッパの音をさせながら休日スタイルの一二三がやってきた。
「おかえり独歩〜! お、オォ…?」
予期せぬ客人、もとい客猫と目があった一二三は目を丸くしている。
「すまん、びっくりしたよな」
「その子どしたん??」
「公園にいた」
「こんなすげー雨なのに!?」
とりま風邪ひく前に風呂ってきな!と一二三は子猫を引き取ると俺を風呂場に送り出した。
湯船に浸かっている間も子猫のことが気になって落ち着かず、温まるのもそこそこに風呂場を出る。
濡れた髪を適当にガシガシ拭きながらリビングのドアを開けると、一二三はソファでくつろぎながら、バスタオルで包んだ子猫と戯れていた。
「どっぽぉ、ほかえり〜」
一方子猫はというと、ドライヤーで乾かしてやった後のようで、ほわほわの毛並みが気持ち良さそうだった。
「こいつ人懐っこくてめっちゃくちゃ可愛いんだぁ」
な〜♡と子猫の手を持って握手なんかしている。
「急に連れてきたのに面倒見させて悪いな」
「良いって!」
にしし、と笑った矢先、一二三は「あ!」と声をあげた。
「ちょっと独歩こいつ見ててくんね? ミルク用意してくる」
立ち上がるとそのまま冷蔵庫に直行した一二三は牛乳と卵を取り出し、慣れた手つきで小鍋をコンロに置いた。
「どうするつもりなんだ……? 猫用のなんか置いてないのに」
「どぽぽが風呂ってる間にぃ、ウチの後輩のねこ好きくんにリサーチしといたからモーマンタイ」
一二三がさっさと手を動かしている間にも、子猫は部屋の中のいろんなものに興味を示すので、目が離せない。いつの間にか一二三お手製の猫用ミルクは完成したようで、ミルクを注いだコップと小さな容器を持って一二三は戻ってきた。
「調子ど〜お?」
「ずっとモゾモゾしてるぞ」
一二三は小さな容器ーーいつも俺の弁当の醤油入れに使われているそれにミルクを入れて、自分の腕の中に抱え直した子猫にミルクを与え始めた。
「お、飲んだ」
いつから飲み食いしていないかは知らないが、小さな身体とは思えない勢いで子猫はミルクをぐいぐいと飲み干してしまった。
「やっぱ醤油差しじゃ秒で終わっちゃうよなぁ、どうすっかな〜」
「なんか代わりになるもん探すか……」
「独歩はひとまず飯食えよ、腹減ってんだろ」
もともと、会社を出る前に連絡を入れていたので、一二三は帰宅時間に合わせてダイニングテーブルに軽めの晩御飯を用意してくれていた。子猫騒動のおかげで少し冷めてしまったが、言葉に甘えてひとまず空腹を満たす。一二三も家事で疲れているだろうに、俺が自己満足で拾ってきた子猫の世話をほとんどしてもらってしまっていて申し訳ない。俺が急いで咀嚼している間にも、一二三は少しずつコップから吸い上げたミルクを甲斐甲斐しく与えている。
「とりま寝床作ってやんないとなー」
と一二三が呟いたので「俺がやる」と言い置いて、残りのご飯を流し込んだ。自分の部屋の乱雑に置かれた荷物の中から適当な通販の箱を引っ張り出して、なるべく肌触りの良さそうなタオルを敷くとそれっぽくなったので、一二三に見せてみると「良い感じじゃん?と笑ったのでほっとした。こんな真夜中ではどうしようもないけれど、明日にでも動物病院に連れて行った方がいいか……でも明日も仕事あるんだよなあ……と唸っていると、スマホを見つつ簡易寝床を整えていた一二三が笑った。
「明日後輩がさ、いつも行ってる病院連れてってそのまま引き取ってくれるって」
「え!? そんな……悪いだろ、俺のせいで迷惑かけて」
「気にすんなって! この子のこと見捨てないで助けてあげる独歩、すげーかっこいい」
さっきから一二三に助言を与えている猫好きの後輩の家には先住猫も同居人もいて、一匹ぐらい増えても問題ないらしい。猫を飼うのに必要なものを揃えるのはゼロからではなかなかに大変だし、何せ一二三も俺もお互い仕事が忙しく子猫と暮らすのは難しい。
「引き取ってくれるやつ、新人の面倒とかすんごい見る良いやつだし、いつも猫の写真めっちゃ見せてくれんの。安心して」
タオルを巻いた湯たんぽに寄り添いながら、子猫はいつの間にか小さい寝息を立てている。
「独歩ってやっぱ、良いやつだよな」
せっかく寝入った小さい命を起こさないように、一二三は囁いた。何かを懐かしむような目をして笑う。
「もう遅いから寝よ、朝には後輩来てくれるって言ってたし」
「フットワーク軽いな……」
「“子猫”ちゃんのためだから」
ひひ、と笑った一二三の両頬を捕まえて、そのまま唇をほんの少し重ねた。
「こいつのこと心配だから、この箱持ってって一緒に俺の部屋で寝るか」
「俺っちの部屋でもいーよん。独歩の部屋今荒れてっし」
「すまん……」
箱を揺らさないように持ち上げると、一二三の部屋にそろりそろりと向かう。ドアを開けてもらい、床にそーっと置いた。
「ありがとな、一二三」
「よっしゃ! 寝よっか」
電気を消すと、猫が擦り寄るように一二三がすぐそばに寄ってきたので、撫でてやるとすぐ寝息が聞こえてきた。
翌朝、一二三の言葉通りにインターホンを鳴らしてその後輩はやって来た。使い込んだ風合いの猫用のキャリーバッグを携えて。見た目の派手さに反して礼儀正しいその後輩は、子猫に会うなりめちゃ可愛いっすね〜! と小さい猫じゃらしを取り出して構い始めた。病院の受付が始まるのに合わせて迎えに来てくれたらしい。昨日も仕事だったというその後輩は随分タフなようだ。
暫く遊んだ後、慣れてきた子猫を抱きかかえた後輩は、慣れた手つきでキャリーバッグに子猫を収めた。
「じゃ、連れて行きますね」
「よろろ〜! 可愛がってやってな」
こうしてあっけなく騒動は終幕を迎えたし、いつも通りの日常がやってくる。余韻に浸る間もなく出勤の時間だ。一二三がいつもの弁当箱に今日も色とりどりのおかずを詰めて持たせてくれた。昨日の夜通り過ぎたあの公園にふと目をやると、濡れた空の段ボールに桜の花弁が一つ、また一つと落ちるのが見えた。
元気でな、子猫。
end.