栄光の兎は何処まで飛べるのか 無数の生命で満たされている星、地球。青色を基調としたこの惑星に一つの小型の船が、陽光が当たる大地とは真逆の地へ向かっていた。船の操縦者は、モニターに映し出されている地球の図解に視線を向けながら操縦している。液晶が見せる図解により、太陽の光に照らされていない面でも大地がどの位置にあるかは把握済みだ。
船が、一つの目的地へ降り立つ。この地の現在の時刻は夜であり、暗闇に覆われていると同時に満月に照らされている。カバーが外れた直後、操縦者はロープのようなものを持った状態で姿を現した。マービン・ザ・マーシャン、且つて地球破壊を何度も目論んだ火星人だ。
「…………」
彼が足を付けている場所は、現代的且つ真っ白で巨大な建築物の一番高い場所である。彼は建築物の白い面を眺めながら、端の方へ向かって一定の方向へ歩き出す。何も言うことなかったマービンは、端まで到着してからようやく口を開いた。
「まるで雲のようだな」
淡々とした様子で思ったことを発すると、マービンは屈んだ格好になり小さなピンのような物を足元に置いてから三歩程下がった。懐に隠していた銃を取り出し、銃の操作をしてからピンへ銃口を向ける。彼が目を堅く閉じると同時に銃の引き金を引くと、光線のようなものが銃口から放たれピンに直撃した。暗闇の中で突如強く放たれた光を側で直視していたら、危うく視力が機能しなくなっていたことだろう。
「……成功だ」
マービンが目を開くと、小粒だったピンは彼より若干低いくらいの大きさへと変わっていた。先程までの頼りなさとは打って変わり、強固な鋼鉄の柱と進化している。マービンはロープと繋がっているベルトを腰に装着すると、柱にロープを何度か巻き付けてからきつく縛る。
「…………」
端からロープを何度か引っ張り、丈夫な状態であることを確認すると、マービンは真っ白な場所から足を離した。その後、不規則な曲線を描いていたロープが直線を描き出す。建築物の窓を確認してから、宙に浮いている火星人はベルトのボタンを押す。すると、緩やかな速度で彼の体は降下していく。
「ここだ」
上から一層下がった所でマービンがボタンを離すと、降下の動きが止まった。窓の外から何かを発見し、手を添える。鍵がかかっていない状態だった為、何の問題もなく窓は右へスライドされる。
「私への配慮が素晴らしい入り口だな」
マービンは独り言を口にしてから、窓の金属部分に片手で捕まりながら両脚を内側へ引っ掛け、腰をかけた体勢になる。降下ボタンを二秒程押してロープを緩めることで、無事に中へ侵入することが出来た。
「やぁ、センセー……」
侵入という形ながらも来訪者を歓迎する一言が、マービンへ向けられる。歓迎の言葉を差し出してきたのはバッグス・バニー、且つてショービズ界で一躍人気者だった兎だ。しかし、その輝かしい存在は今、光を失いかけている。
「弱体化が激しいな」
「はは……まさか面会者が一人増えるとはね……」
皺が多く活力が感じられない程までに痩せており、声も掠れている。一目で弱々しさが伝わる状態で、ベッドに横たわっているのだ。月光と小型スタンドの光は、良くも悪くも鮮明にその姿を映し出している。そう、マービンが降り立ったこの建築物の正体は、大型の病院だ。
「この星で永い眠りについた者は、何処へ旅立つ?」
病院のこの一室で命の終わりを待っているバッグスを、マービンは憐れむこともなく普段通りの様子で質問する。二千年も生きている上に生命力の高い彼は、死という概念とは程遠い存在なのだ。目の前で平静と佇んでいる火星人を見て、文字通り違う世界の存在であることをバッグスは実感しながら、息を吸ってこう答える。
「……雲海が一面に広がる、空のもっと高い所かもしれないし……煮えたぎるような地の底かもしれない……後は――」
一息ついてから、窓から見える満月に視線を向ける。釣られるように、マービンも満月の方へ顔を向けた。その直後、バッグスは更にもう一つの回答を述べる。
「月まで飛んで行くかもしれない」
空の更に高い所や煮えたぎる地の底ではあまり想像つかなかったマービンだが、月という単語を耳にして少し興味が湧く。死者の新たなる住居が月となって宇宙に出る可能性もあるならば、そう思った彼は更に質問を追加する。
「火星へ旅立った者は?」
「……噂でも聞いたことないね」
老いた兎から、期待していた答えが返ってこなかった。その不満を顔に出すように、マービンは眉を顰める。この状況において、初めてマービンの感情が揺らいだ。
「そうか」
懐から、先程使っていた光線銃を取り出す。少しだけ操作をしてから、横たわっているバッグスへ銃口を向けた。
「に……、……どったのセンセー?」
全ての始まりである口癖を、バッグスは口にする。あの頃のように元気なら今どうしているだろうと、マービンと出会った若かりし頃を思い出した。走馬灯が起きている彼は横たわったまま、銃を向ける火星人を見つめるのみである。
「火星で眠れば、お前は少し長い時を得た後に火星生物へ変わるだろう」
「はは……無茶苦茶だ、センセー」
多少感情は含まれているが、言い方そのものは淡々としたままのマービン。彼が銃口を向けてきた理由を理解したバッグスは、掠れた声で小さく笑った。
「お前は私をこれまで何度も手こずらせ、何度も怒らせてきた」
マービンもまた、バッグスと繰り広げてきた攻防戦を思い出す。地球破壊と始めとしたこれまでの計画を全て阻んできたエイリアン――バッグス・バニーへの憎しみは、もうないと言えば嘘になる。しかし、彼の中で憎しみを上回るものがあった。
「そして、嫌という程知った。私に幾度も頭を抱えさせたお前は、只者ではない」
自身を振り回してきたバッグスへの興味を、彼は抱いているのだ。老いた結果自分に勝つことが出来ないバッグスを無理矢理火星へワープさせ、知識はそのままに火星生物に進化させ奴隷にしようと目論んだ。これは、地球に上陸する前から決めていたことである。
「センセー……その野望を、達成するには……ちょっと遅すぎた……後、最初の質問の……ことなんだけど……」
心なしか、バッグスの声が先程より細くなってきた。その時が迫っていることを、マービンも本人も察する。その状況下であっても、バッグスは体力を振り絞って一回目の質問回答の補足をすることにした。
「あくまでも定着している……想どうの、世界なんだ……だから、かもしれない……としか、答えられなかった……」
本当にあるかもしれないけど、と付け足して補足を伝え終える。空と地の底の想像があまりつかなかったのはそういうことかと、マービンは納得した。終わりが近いバッグスを目の当たりにしていることもあり、諦めたように光線銃を下ろす。
「インスタント火星人を改良した方が早いな」
マービンはそう言ってから、懐に銃を仕舞う。無理矢理肉体改造する恐ろしい火星人を想像していたのか、あっさりと断念したことにバッグスは目が点になった。その時、バッグスの脳裏をとある光景が過る。
「……もし、生まれ変わったタイミングが……もし一緒だったら、同じ学校の……クラスメイトになれるかも、しれない……」
彼が思い浮かべたのは、敵対することもなく仲良くしている己とマービンだった。死者しか行けない世界故、先程の質問の答えと補足は嘘でも本当でもない。しかし、自分の言葉に流されやすくどこか抜けていて憎めないマービンを、バッグスは気に入っているのだ。
「ボーリング大会に、参加して……ピダを作る店で、一緒に仕事して……そんな風に、当たり前のように……顔を合わせたり、してね……」
「先の見えない未来の話だな」
長生きしているマービン本人ですら、いつ己が永眠するか予測出来ない。良好な関係である未来を想像するバッグスの発言を、前述の理由から肯定はしなかった。
「……センセー、申し訳ないけど……面会はここまで、みたいだ……」
想像の話すら出来る時間に、突如終止符が打たれる。バッグスの視線の先にあるスライド式ドアの型ガラス、そこに看護師と思われる姿が映っている。恐らく、バッグスの身内が看取りに来たのだろう。
「センセー……不法侵入で、捕まえる前に……」
彼の言葉通りに、マービンはベルトの操作をして窓から飛び出し、宙にぶら下がった状態になる。満月の逆光を浴びながら上昇ボタンを押そうとしたその時、バッグスが口を開いた。
「会えばほぼ、攻防戦の繰り返し……だったねぇ……でも、楽しかったよ……、……、だ、……」
「……!」
最後の掠れた言葉を聞き取ったマービンは、驚きで目を見開く。しかし、何も知らない別の面会者と看護師によってドアが開かれた為、返す言葉もなかった。幸い、ドアが開くと同時に上昇したので、見つかっていない。
窓より少し高い所で、マービンはぶら下がりながら話を聞いている。開いた窓の内側から、男女複数人とバッグスの会話が聞こえてきた。時間が経つにつれ少しずつ静けさが増し、やがて一瞬だけ沈黙が流れる。
(終わりが始まったか)
ご臨終です――看護師がそう告げた瞬間、複数の慟哭や啜り泣きが発せられる。マービンの予想通り、バッグスは生命体としての活動を終えたのだ。マービンは感傷に浸ることもせず、静かに上昇する。
「…………」
ロープやピンの片付けを済ませ、マービンは船へ乗り込んだ。彼がカバーを閉めて操縦を始めると船は浮かび上がり、空を越えた先への飛行を開始する。離陸から少し経った後、マービンは病院の方向へ振り向く。
『楽しかったよ……、マービン・ダ・マーシャン……』
攻防を繰り返している時は、互いに名前を呼んだことがなかった。それ故に、宿敵とも言えるバッグス・バニーが最期に自分の名前を呼ぶなど、マービンは思ってもいなかったのである。彼が前方に向き直すと、少し大きく見える満月が視界に映った。月まで飛んでいくかもしれない――先程のバッグスの言葉が、脳裏を過る。
「……火星への旅立ちが成功するかは私にも分からないが……」
大気圏を越えて船が宇宙空間へ飛び出すと、マービンは船内で一人呟き始める。独り言の途中で、彼は再び振り向いて地球を見つめ返す。
「……せめて挑戦ぐらいはしてみたらどうだ、バッグス・バニー」
一つの小さな命が生命活動を終えただけで、大地の変動は全く起きていない。それにも拘らず、マービンの目線では地球がどこか寂しそうに見えている。実際に地球には、そのような感情など存在していない。この青い星は、マービンの心の中を反映しているだけであった。