Blue hour身の毛がよだつほどの肌寒い空気に、男は体を震わせながら目を開けた。何だか明るいと思ったらブラインドの隙間から眩しい日差しが差し込んでいて、ブラインドが元の機能を果たしてない状態で窓にぶら下がっているだけだった。ソファにうずくまって寝たせいか体中の関節も悲鳴を上げていた。痺れる膝を揉んでいたルーク・ウィリアムズは顔を上げて時計に目をやった。時針が5と6の間を指していた。2時間も寝たのか。二度寝するにはあまりにも明るかった。光に慣れた目は閉じる気配がなかった。
備品のグレー色ブランケットを畳んで休憩室のソファの上に置いたルークは、ふらふらとトイレの中に入り込み顔を洗った。疲労を洗い流すためにわざと冷たい水にした。しかし綺麗になるどころか頬骨まで降りてきたクマはさらに濃くなるだけだった。なぜ疲労は水溶性ではないのか。鏡を見ていたルークは顎に汚く生えてきた髭が目障りだったのか目を細くした。この状態で髭を剃ると顎まで何グラムか剃ってしまうのではないか。無駄な想像力が後を続く前にさっさとトイレから抜け出した。
ルークはこっている首を回しながらデスクトップの前に座った。スクリーンセーバーの柴犬の写真が消えて、作成中だった報告書と集めた資料の数々がめまいがするぐらいに画面を埋めた。
海外で最近流行り出した新手の麻薬がリカルド共和国にまで流れ込んできた。今月の密入摘発件数が数十件も超えていた。特に港町のエリントンは頻繁な交易で流動人口も多いため、ルークの仲間たちが緊急出動で税関の方を手助けすることもあった。その仲間の業務に加え非公式捜査までしているんだから、体がいくらあっても足りないぐらいだった。ルークも全ての事件に首を突っ込むわけではなかった。しかしながら今回の事件と関連した組織の名簿からシンジケートを発見した時には体が先に反応してしまった。
シンジケートのトップであるタチアナ・バラノフが失脚したことで弱まった組織の大半をチェズレイが吸収している。シンジケートの代表はもはやサティア・ニコルズではなくチェズレイ・ニコルズに変わり、巨大犯罪組織は彼の手足となった。シンジケートの成すことはチェズレイを意思だと言っても過言ではないということだ。
ルークはこの事実をどう受け入れるべきか悩んでいた。彼は世界を征服するという野心を持って、彼のバディと一緒にあらゆる犯罪に手を染めていた。…悪意があるというよりは、チェズレイだけの美学に従っているというべきである。
チェズレイと関わった以上、ルークが手を休めることにはいかなかったので徹底的に捜査していたのだ。最初の2週間ぐらいは警察署と家を行き来していたが、移動時間すら惜しくなったので必要な物だけ持ってきて署での生活を始めた。休憩室の小さなソファに体をうずくまったまま寝たり、一日の食事がドーナツと大量のコーヒーだけの日が増えた。エリントン警察署から出る必要もなくこんな格好を他人に見せる確率が極めて低いのが唯一の安らぎだった。
「こんな格好でも理解してくれる人がいるからな」
たまにアーロンとボイス通話をしたら、ある日「ドギー、また何かやらかしてるのか?何で姿を見せないんだよ?10秒以内に話せ。10、9、8…」と死のカウントダウンをしながらすぐにでも駆けつけてくる勢いだったので事実を話すしかなかった。するとアーロンは「お前はその詐欺師に甘すぎるんだよ」とブツブツ言いながらも快くルークの捜査を手伝ってくれた。おかげで捜査だけで何年もかかるはずだったのが順調に進んでいた。
新手の麻薬の製造と流通に加担したシンジケートの輩と仕切った主犯まで壊滅させるのに半年もかかった。タチアナを早めに失脚させることができた理由は彼女がチェズレイを挑発しようと自ら姿を表したからだ。そんな特殊性がないと世界的な規模の犯罪組織を素早く全滅させることは難しい。特に麻薬が関わっているとなると隠蔽性が高いのでより難しい捜査になりかねない。
犯罪組織の壊滅で全てが終わるわけでもない。その事件のやり方や被害範囲、終結経緯などの全ての過程を文書化する仕事まで完了してからこそ「事件終結」と言えるのだ。仕上げるまでルーク・ウィリアムズが休められない理由だった。休まず仕事を続けたおかげで更なる被害を防ぐことができた。しかし、誰かが得をしたら損する人もいるというもの。活気を失くしたルークは日々やつれる一方だった。
やっと完成した報告書を提出したルークは風に吹かれるために警察署の外へ足を運んだ。あえて思い出そうとしなくても体に染みついたせいか、足が自然とエリントンの港方向に進んでいた。父の葬式を終えて心が落ち着かない時にここに来ていた日以来、習慣になってしまった。エリントン港のある隅っこに座って海を見ていると波打つ心が落ち着いた。ルークはじっと海を眺めながらその場にドカッと座った。
「おーい、ウィリアムズ!署の外で会うのは久しぶりだな。風に吹かれるために来たのか?」
顔を上げたルークの視野に同期のケビン警部補が笑顔で手を振っているのが見えた。彼はルークの答えも待たずに隣に座った。
「うん。やっと最後の報告書を提出したんだ。休憩がてらちょっと出てみたよ」
「おめでとう!急用は終わったことだし、褒賞休暇でゆっくり休んだらどうだ?顔すごいぞ」
ケビンの言う褒賞休暇は何週間もルークを待っていた。これだけ済ませば…の繰り返しで仕事に集中しすぎていたので忘れていたのだ。ルークが首を縦に振るとケビンが自分のことのように色々聞き始めた。
「ウィリアムズ、休みに何するつもりだ?クリスマス以来休んでないだろ。どこに行く?誰と行く?」
「何も決めてないよ。最近不眠気味だからそれを先に何とかしようと思うんだ」
「なんで不眠気味なんだ?」
ケビンの質問を聞いたルークは港に停泊した観光船をしばらく眺めてから口を開けた。
「思い当たるのが多すぎて何が問題かよく分からないな。仕事で今月は家に帰って無いからかもしらない。もちろん、ケビンと皆も帰ってないけどさ。気になることもあるし…」
「捕まえた主犯が知り合いに似ているんだ。とな」
言えずにいた言葉が耳にはっきりと聞こえた。しかも自分の声で。びっくりしたルークがケビンの方に顔を向けた時はもう彼はいなかった。仮面を取った仮面詐欺師、チェズレイ・ニコルズが隣に座っていた。
「気にしていらっしゃるだろうと思っていましたよ。あなたは違うと仰いましたけど、しょうがないですね」
「……チェズレイ」
「彼はシキではありません。いくら同じような年齢や環境だったとは言え、異なる存在です。せめてシキは他人の名前を盾にして卑劣なことをするような人間ではありませんでした。偽名を使うことはあっても他人の後ろに隠れることはなかったです」
チェズレイは考えるだけで不快だというように眉間にしわをよせた。
「私にも私だけのルールがあります。ドラッグにだけは手を出しません。ニコルズ・ファミリーであった時もそうでしたよ」
腕を組んだチェズレイがイライラを隠さずぶつぶつ言った。
巨大犯罪組織シンジケートの名を使って大量の麻薬を流通した犯人は成人になったばかりの男だった。シキと同じぐらいの年齢と環境、しかも能力まで備えた男は麻薬の取引サイトを作り直接ブロッカーを通じて麻薬を購入し流通した。身分を保護するためにシンジケートの名を上げていたけど、偶然なことにそのシンジケートのボスも同じぐらいのハッカーと繋がりがあった。偶然が重なって男のビジネスは限界を知らないかのごとく本人の手に負えないぐらいに巨大になった。
そんな火災のような犯罪を消火したのは他でもなくルークが持っているチェズレイに対する信頼だった。チェズレイはそんなことを絶対しないだろうという強い信頼。数か月ぐらい連絡せずとも、信頼を元にそれぞれの位置で黙々と自分の仕事を果たしたからこそ成し遂げた価値だった。
「僕たちがなかったらシキも似たような感じになったのでは無いかと思う…」
「死で逃避したのは彼ですよ。過去を認め前に進んでいる人と卑劣な輩は比べるに値しません」
チェズレイはルークの無意味な妄想をはっきりと否定した。そんな意味のない妄想にエネルギーを浪費しないでぐださいと、首を横に振ったチェズレイは妄想の沼に陥っているルークを引き出す準備をした。
「ボス、最近まともに睡眠をとってないですね?不眠で認知能力が衰えてる状態です。予想しておりましたよ。だから私がここに来たのです」
チェズレイがルークの手を両手で掴むとルークの視線がその手と腕を沿って上の方に上がってきた。ルークと目が合うと、チェズレイが口を開けた。
「私がボスにご奉仕するチャンスを与えてくれませんか?ボスの休暇中だけでかまいません。私を信じたあなたの選択は間違っていないと証明したいだけですから」
「ご奉仕って…チェズレイがやってないからやってないと言っただけだ。そして休みの申請は最低一週間前だよ。先に連絡してくれれば良かったのに」
「今でも休暇の決裁が下りたら私に時間を許してくれるのですか?」
「当たり前だよ。今日は夕飯だけ一緒にしよう」
チェズレイはタブレットを出して画面を操作すると、「予約しておいたホテルがありますのでそこで休暇を楽しむことにしましょう」と立ち上がった。
「いや、申請は一週間前に…」
「休暇は決裁されましたよ。公式なスケジュールとしては今日は早期退勤、明日から正式的に休暇開始となります」
「え?」
状況を飲み込めてないルークは立ち上がってチェズレイに誘導されるまま歩いた。2人は近くに駐車したリムジンに乗った。ふかふかなシートに座るとチェズレイはタブレットを渡した。画面にはルーク・ウィリアムズの名前で提出された休暇申請書があった。決裁蘭にもちゃんと上司のハンコが押してあったので困惑していたところ、申請日が目に入った。7日前…?
「パスワードは定期的に変えた方がいいですよ。特に『ニンジャジャン0414』のような特定単語と誕生日を組み合わせたパスワードならなおさらです」
「チェズレイ―!」
チェズレイはスッキリした顔で自分の髪をかきあげながら「ボスの許可をお待ちしていました」とひょうひょうと話した。誰より優しい笑顔も一緒だった…その笑顔の中には「この休暇は強制ではなく充実にあなたの意思に従ったまでですよ」という無言の圧が感じられた。ルークは困惑していながらもいきなり始まってしまった休暇を楽しむことにした。もう書類上で決裁も済んだことだし…。何よりチェズレイの無茶苦茶にも悪い気分はしなかった。むしろこの後が楽しみだと言ったらチェズレイはどんな顔をするだろ。かわいらしいと頭を撫でまわすのではないか。という想像をするうちに休暇の幕があがった。
……
シャワーを終えたルークがタオルで体を拭きながら部屋に入ってきた。眼鏡をかけてタブレットを見ていたチェズレイがルークの姿を見て持っていたタブレットをテーブルに置いた。
「はあー… 今日はとても楽しかった!チェズレイはどうだった?」
「ええ、私も楽しかったですよ。ボスの無垢な顔が赤く染まる姿をみると、フフ、フフフ…ボスが一人でイッちゃうとは知らなかったです」
「アハハ…裸足で砂場を歩くのが気持ち良くてつい…」
「リラックスして休むことが休暇の真の意味ですからね」
チェズレイは自然とルークの濡れた髪を乾かした。遠慮するルークを阻止しながら「変わりに今日撮った写真を見ていてください」と彼にタブレットを渡した。タブレットにはチェズレイとルークが一緒に撮った写真も何枚かあったが、多くはルークが写った写真だった。
「うわっ、何この顔。こんな顔で遊びまわってたのか?」
「でも楽しそうですよ」
チェズレイの指がルークの髪を分けながら髪の毛を少し揺らした。手つきによって髪が踊るような光景がずいぶん気に入った。
「はい、乾かしましたよ。不眠治療に参りましょうか」
大人しくチェズレイの手を受け入れていたルークがタブレットを渡しながら口を開けた。
「不眠治療というのは前のように催眠を使うのか?」
「いいえ、今回は催眠を使いません。ボスの脳はすでに酷使された状態なので良くないと思いまして」
とりあえず横になれと言われてベッドの上に仰向けになって倒れたルークが目を閉じた。チェズレイは予め用意していた目隠しを取り出した。柔らかい素材で体温と同じような温度で睡眠に良い状態を作ってくれる。目隠しをされたルークの肩が少し揺らいだ。チェズレイが肩を叩くとルークの息が荒くなり、結局自分から目隠しを外した。
「ごめん、チェズレイ。…目隠しをすると良くない記憶が蘇るから苦手なんだ」
「失礼いたしました。目隠しは外しても大丈夫です」
ルークの額の冷や汗を手で拭ってあげたチェズレイはルークの手を自分の胸の上にあてさせた。顎を震えていたルークは手の先から感じられる規則的な心拍に合わせて呼吸を整えた。
「メトロノームよりこっちの方が良さそうですね。失礼します」
チェズレイの胸にあてたルークの手の甲に温もりが感じられた。ばさつく音と共に手がベッドの方へ近づけられた。チェズレイが隣に横になってるんだ。2人きりのホテルルーム、一つだけのベッドに2人きり…目を閉じているから変な気分になり、心拍がドッドッと早くなるのを感じた。
「ボスが眠る前まで一緒に横になりますよ」
「う、うん」
「無理矢理眠ろうとしなくても大丈夫です。楽にしていてください」
「ありがとう、チェズレイ…」
答えの代わり横でふっ、と笑う声が聞こえた。耳元に「どういたしまして」というチェズレイのきれいな声が聞こえるような聞こえないような。ルークは目を閉じたまま自分の隣にいるチェズレイのことを思っていた。他でもなくチェズレイだと思うと緊張していた筋肉から一気に力が抜けるような気がした。以前にも似たような状況があったから体が自然と反応したということだ。
(緊張は解けたけど、精神は覚めているのか)
チェズレイはルークの顔を眺めながら先程の反応を思い出した。目隠しをさせた時に彼が見せた反応。何も言わずとも理解した。ルーク・ウィリアムズが閉じ込められていた刑務所は建物の位置を分からないようにするために収容者に目隠しをさせたまま連れていく手続きになっていた。閉鎖された空間に閉じ込められて一方的な暴力と拷問を受けたからにはトラウマになって当然のことだ。
自分を破滅させた裏切り者の<ファントム>の養子を、彼と同じやり方で壊そうという野心がチェズレイをここまで導いた。心を引き裂けて壊し、肉体は空っぽな状態で不信の劫火が自分はもちろん周りまで燃え上がらせる過程を見守るつもりだった。今思うとあの時期の自分は傲慢そのもの…
チェズレイはルークの鼻の下に人差し指をあてた。規則的な呼吸が伝わってきた。睡眠に落ちるまで3時間。わざと体を動かして疲労させたのにこの程度か。明日は落ち着いた活動の方がいいだろう。じっくりルーク・ウィリアムズの睡眠記録を頭の中で整理しながらそのままルークの唇に触れた。指先にカサカサな唇が感じられた。明日の日程にエステティックマッサージを追加しておかないと。チェズレイは睡眠に影響を及ばないようにタブレットの明かりを一番暗くしたまま店を予約した。
………
一日の平均睡眠時間が2時間38分。安定した空間で寝る準備をした時に眠りに落ちるまでの時間が3時間21分。一日に飲むコーヒー量はエスプレッソで7ショット。何もしない時には自分も認知していないうちに爪を噛むという不安症状が出て、全体的に落ち込んでいる様子。
睡眠管理をした後は平均睡眠時間4時間3分。眠りに落ちるまでの時間が2時間35分。カフェインは一日1杯まで。新鮮な果物と野菜の摂取量83%増加。短くなった爪は緩い曲線のラウンド型を維持している。テンションはまだ低いが回復しつつある。
「チェズレイ、何を書いてるんだ?」
ルークはチョコいっぱいパフェをスプーンですくいながら頭をかしげた。アマアマ★ルールーのチェーン店がエリントンに入店した記念に訪問していた。チェズレイは筆記していた手をとめて口を開けた。
「育児日記です」
「ハハ、育児…にしては子が大きすぎないか?」
「これくらいが丁度良いです。それに子供は大きくても小さくても手が掛かるものなので。あ、これ、お渡しいたします」
チェズレイは先程もらった物をルークに渡した。ルークは喜んでそれを受け取った。それは最近注目を浴びてる映画<ニンジャジャンTHE MOVIE~踊る三日月島の彼岸花~>の特典。映画のキャラクターのキーホルダーがあると書いているが何のキャラクターかは分からないように包まれていた。
「ボスが欲しがってるものでしょう。あなたの好みに合わせました」
「僕の欲しいのがわかるの?」
「ふふ、それはわかりますよ」
チェズレイは紅茶を飲んだ。宗教も無いのに合掌して何かをぶつぶつ言っていたルークはゆっくり特典を開封した。彼岸花をモチーフにしたようなひらひら衣装を着て扇子を持っているキャラクターだった。最初はニンジャジャンたちの島の宝を盗みに来た輩だと誤解されるけど後半では一緒に力を合わせて島の宝を守るという内容だった。ニンジャジャンたちに優しくしていた村人が実は黒幕だったとか。子供向けの映画だからかありきたりな話だった。
「うわっ、これが出たんだ!ニンジャジャンとツートップで欲しかったやつだ!」
「言ったでしょう。ボスが欲しがってるものが出ると」
「すごいよ、チェズレイ。どうやったら僕の欲しいものをすぐ選べるの?」
「あぁボス…そんな無垢な顔で私を見上げるだなんて、刺激が強いです」
「だから何が……?」
「ふふ、親愛なるボスにだけ特別にお教えしましょう。闇カジノの時と同じです。カードを見るのではなく、カードを配るディーラーを見るんです。カードをどうシャッフルするのか、どう配るのか」
チェズレイは懐から文様別のトランプカードを出した。カードが見えないように裏返してシャッフルしたあとにはルークに一枚ずつ差し出した。
ルークは次から次へと渡されるカードをすぐ確認すると何かに気づいたかのようにカードを裏返さずに言った。
「……あ!わかったよ!今チェズレイがくれるカードはハートの7だな?」
チェズレイは笑顔を浮かべながらカードを裏返した。2つの瞳が一生懸命ハートの個数を数えたあと、感嘆詞が続いた。
「正解です。さすがボスは飲み込みが早いですね」
「そりゃチェズレイは僕の目線に合わせて説明してくれるだろ」
「しかしその短い時間の間に他人の行動パターンを呼んだの?僕はずっと見てないとわからないよ」ルークは呟きながら順番通りにカードを配置した。何かに没頭する時のルークは独り言が多くなる癖があった。チェズレイが「もう一回、いかがでしょうか」とカードをシャッフルしながら聞くとルークは「うん、いいよ。今回はもっと早くあててみせる!」と拳をぐっと握った。
………
「可哀想なボス…詐欺師相手に賭け事をするだなんて。ボスは賭博など絶対にしてはいけませんよ」
パターン読みに自信が付いたルークがいくらでもあてられると自信満々にしているうちに遊びは賭け事へと変わってしまった。結局願い事を聞くチケットを5つも勝ち取った勝者が「そのうちボスの親権まで取ることになりますよ…」とカードを片付けることで状況は終わった。
「あてられると思ったのにぃ…ふあぁ…」
ルークが連続あくびをした。体を動かなくても長らく何かに集中すれば疲労しやすい。チェズレイの計画がぴったりと当てはまった。ルークはもう灯りを消したままチェズレイと一緒に一つのベットに横になることにも慣れた。横になってお互いの目が合っても緊張感無く笑ったりチェズレイの手の上に重ねた手をもさもさした。胸の上から心拍を感じていた行為は腕が痺れるということで手を繋ぎ合うことに変わった。メトロノーム代わりの接触は規則的な拍子が必要ではないときも続いた。
ルークは瞼が重いのか目を閉じようとしていた。すぐにでも眠りに落ちるかのごとく瞬きの速度も落ちていた。暗くてもお互いの息が混ざるような距離だったのでまつ毛の動きまで感じられた。ルークを眺めていたチェズレイがゆっくりと口を開けた。
「ボス、聞きたいことがあります。困るようでしたら答えなくても大丈夫です」
「うん…何…?」
ルークは眠そうな声で囁いた。無防備そのものと言ってもいいくらいの姿。その姿がチェズレイの忍耐力を無くさせた。
「この前私がボスに目隠しをさせた時にすごく苦しんでおられたのを覚えていますか?刑務所でのことがあなたの脳に強く染みついてしまったようです。トラウマは不協和音のように平穏な日常の中でも突然飛び出しては存在を晒し出します。誰かの罠に落ちてあなたが経験する必要のなかった人権蹂躙に近い暴力や拷問に心身が崩壊したあの日を思い出させます」
淡々とした口調とは真逆の内容が鋭くルークを刺していた。暗闇の中から自分に向ける視線が感じられた。チェズレイはわざとルークの方に顔を向けなかった。
「優しい態度をとったのにそれをバカにされたり無視されるような、そんな経験は心を削り取ります。あなたにそのような辛い記憶をさせた人を憎いと思ったことはありませんか?彼を手伝ったことを後悔したことはありませんか?」
チェズレイ・ニコルズは意図をそのまま露出する質問を好まない。その意味を分からないように何重にも包んでから自分の武器を隠してこそ安心することができた。口癖というのは生存と直結するので心を許した相手でも例外ではなかった。 だが、今回はそうしなかった。そうしたくなかった。まず最初の理由として、そんな風にしなくてもルーク・ウィリアムズは素直に話してくるとわかっていたし、2番目の理由としては仮面を被っている者もたまには仮面の狭い穴ではなく自分の瞳で物事を見たい時があるからだ。
「最初は憎かった。弱い者を守るための行動だと思いながらも…自分の体が痛くて苦しいから後悔したんだ。後悔しながらもそう考えているということが恥ずかしかった。あんなに自分のことが恥ずかしかったのに実は偽物だというから怒りを覚えたよ」
ルークは少し呼吸を整えた。
「今思うと老人がチェズレイだとわかっていても同じようにしたと思う」
絡んだ指から少し弱い力が伝わってきた。子供より弱い握力が彼から目をそらしていたチェズレイの顔をルークに向かせた。微かに見えるその瞳には確信があった。
「それにさ、僕はチェズレイより頑丈だろ?だから罪悪感は持たないでくれ」
チェズレイはプフッと笑ってしまった。え?なんで?頑丈だろ?そうだよな?横から返事をせがんでもチェズレイは笑顔で返すだけだった。あなたはそういう人でしたね。全ての状況が私に疑いをかけていても私を信じるという意思だけでここまで来ているのですから。
「ボスが自分の行動に後悔しないなら私も自分の行動に後悔しません。もし過去に戻って同じ状況になってもボスを利用します。ボスが傷つき、苦しむことになっても自分の私欲を満たす方向を選びます」
その言葉とは違ってチェズレイの体温は相変わらず温かかった。
「そうしないと私たちはお互いのことを知ることができなかったのでしょうから。私は相変わらず人間との全ての関係を不信し、あなたは自分が誰なのか知ることができなかったのでしょう。同じ手順でボスと今のような関係になりたいです」
ルークは唇を動かそうと動いたが、いきなりチェズレイに抱きついた。胸にあたる温もりや息が優しいと感じられた。
「僕も同じだよ。チェズレイが隣にいてくれて嬉しいよ」
チェズレイの胸に顔をうずめたルークが囁いた。瞬きする目、息をする鼻、少しの緊張感で震える唇が服越しの肌へ感じられた。チェズレイはルークの顔を手で包んで自分に向けさせた。温かい頬を撫でるとしっとりとした瞳がぐるぐる転がっていた。
「ルーク」
あなたの舌の感触はこんな感じでしたか。私が想像していたのと似ています。思ったより慌ただしく、少し柔らかい感触でミントの味がします。最後は歯磨きした直後だからだと思いますが。舌同士が絡む感覚はあまり好きじゃないですが、ボスだと思うとなぜ興奮してしまうのでしょうか。この感覚を今になって知ったことが悔しいです。もっと早めに知っていたら人間の敏感でもろい部分をなめては触れる喜びをもっと楽しむことができたのに。
頬に触れていた手はいつの間にかパサパサする後ろ髪を撫でていた。ルークの顔が赤く染まる姿を見ると呼吸するのが慣れない様子だった。チェズレイは惜しみつつ唇を離した。ルークの荒い息が静かな部屋を埋めた。唾液で濡れたルークの唇を親指で拭ってあげた。目の前の刺激的な姿にまた唇を重ねたい欲望がざわめいた。
「…もう寝ましょうか?寝る所に煩わしくさせて申し訳ありません」
チェズレイはルークの額に軽く唇をあてた。欲望を抑えるために額に口づけしたのにむしろ気が焦った。恋に落ちたと理性も何も全然存在してないような獣のように振る舞う者たちを思い浮かべた。本能だけの動物になるのはごめんだ。
「煩わしくないよ」
ルークはチェズレイの首の後ろに手を回した。チェズレイが自分にやったように彼を自分の方へ連れてきては唇を重ねた。2人は唇をあてたままお互いの目を見ていた。瞳に写るのは一つしかなかったのに。
「あのさ、チェズレイ……」
………
「おはようございます!」
活気に満ちて挨拶したルークが歩いて行った。忙しい業務が終わり生き生きとした仲間たちがルークを歓迎しながら帰りを喜んだ。いや、ルークのことで喜んだというよりはルークが持っているお土産の紙袋に喜んでいた。ルークが席についたとたん、隣の席のケビン警部補がキャスター付きの椅子に座ったまま音を立てながら近づいて来た。
「お帰り、ウィリアムズ。楽しかったか?休み前は死ぬ直前だったのに今は顔がつるっつるだよ。どれだけすごい休暇だったか教えてくれよ。だけどその前に」
ケビンは両手を広げルークの方に差し出しては何回もウインクしてきた。その姿に笑ってしまったルークは事務用デスクに置いた紙袋からお土産を出してケビンに渡した。
「お、ありがとう。メドヴィクケーキ?ヴィンウェイに行って来たのか?」
「行ったわけではなくて、誰か買ってきてくれたんだ」
「誰が?」
包みを開けながらの何気ない質問に、ルークは話をそらしながら他のお土産を出した。
「あ、まあ… …仕事始める前に他の人にもお土産渡してくるよ」
「え?なんで答えないんだよ。ウィリアムズ、恋人できたのか?まさかこの前のピアノの先生?」
急いで席を立つルークにケビンが「この間のあの先生?あの先生が送った野菜と果物、ヴィンウェイからの宅配便だっただろ!」って叫びながらルークを追いかけていった。
その後はルークが努力したのにもかかわらず、エリントン署には午後になる前にもうルーク・ウィリアムズがヴィンウェイ出身のピアノ先生を務める美人と恋愛を始めたという噂が広がった。ピアノ先生の耳にも届くほど噂が広まったのはその後の話。