俺×ブギーダウンオフィスパロ十九時ぴったりに置かれる缶珈琲。それが僕とあの人のいつもの合図だ。
「よう、今日も残業か?お疲れさん。」
柔らかく耳を打つ穏やかな低音。草臥れた顔の僕の頬を擽る、男性向けにしては甘い香水の香り。ことり、と置かれた珈琲の銘柄はいつも同じ。ダンディな男性がパイプを咥えている。同じ珈琲を飲んでいるところを彼に見付かったのが、一番初めだった。
「ブギーさんもお疲れ様です、ありがとう。」
顔を上げれば、彼はいつもの様に微笑んでいる。整えられた髭、髪、穏やかな栗色の瞳────全てが完璧な彼は今日も、胸元の空いたシャツを着て、僕の傍に立っていた。垂れた社員証が書類の上に落ちている、それすらもセクシーだ、なんて伝えれば彼はどんな顔をするだろう。そんな馬鹿馬鹿しい考えと共に珈琲の缶を受け取れば、女性でも落とすつもりなのかと勘繰りたくなる様な笑顔を彼は零してくれる。
「今日も今日とて残業なんて、坊やはツイてないな。」
「はは、どうにも、頼まれたら断れなくて。ブギーさんも残業でしょう?」
「いや、俺は……"残コーヒーブレイク"だ。」
「なんですか、それ。」
互いの笑った吐息が缶の飲み口に当たって、響く。然し彼の音の方が艶やかに聴こえるのは、気の所為では無い筈だ。
「気付けば残業しちまってる可哀想な坊やを放っておけないのさ。」
「けれど、手伝ってくれるわけじゃ無いんでしょう?」
「それは当然。」
互いに軽口を叩き、珈琲を飲む。──然し、僕は。目を合わせられない。注がれるブラウン。落とした視線はデスクのつまらないグレーを映す。駄目だ、今、ブラウンを映しては。だって、"返答"になってしまう。
「なあ。坊や。」
珈琲を飲み終えた彼の、ぽってりとした──見なくても分かる、それ程に彼の唇は、見詰めてきたのだ。──唇が滑らかに動いて、僕を呼ぶ。視線は上げられないまま、"なんです"なんて答えれば、視界の左端に揺れる、社員証。社員証の紐を見て、彼はゴールドを好むと知ったのは何時だったか──少しだけ懐かしく感じる。
「皆帰っちまいそうだ。当然。残業なんて"イマドキ"じゃないし、誰も坊やに"今日やれ"なんて言っていない。坊やだってそれは分かってるし、──"そう"してる。……ああ、ほら。もう直ぐあの子も帰っちまうな。そうしたら、」
この人は思いの外、ブラックは飲まない。ほんのりと甘い、珈琲の香りが、僕の耳元へ落とされる。ふわりと香る、甘い香水に混ざって、甘い珈琲が、僕を誘う。
「二人きり、だな。」
タイムカードを切る音。珈琲を煽る僕の喉の音。空になった缶を置く音と、僕の視線が"返答"だ。
そうして音が消えて、僕は彼の社員証の紐を掴んで、引き寄せた。