昨夜はお楽しみでしたね じっとりと湿度の高い空気が窓の方から忍び入ってくる。僅かに意識を割いてみれば、外からは微かに水が地面をたたく音がしており、いつの間にか雨が降り出していたのだと気づかされた。夕刻から雲行きは怪しかったが、とうとう限界を迎えたのだろう。とはいえ、現在時刻はとうに日付が変わり、この雨に気づいている者も少ないはずだ。朝までには止むといいのだが、と明日――ではなく、今日は外で公務を行う予定であるはずの妹のためにもちらりと意識の片隅で言葉を零す。
そう、時刻はすでに深夜である。朝の方が近い、と言ってもいい頃合いだったが、神里綾人にとっては今が本番のようなものだった。己の仕事はある程度片付け終えていたが、今日一日各々の業務を熟した部下たちからの報告を受け、それぞれに新たな任を下す必要があった。まずは夕刻に妹から、夜半にかけて終末番やその他部下から。そうして皆が寝静まった頃合い、漸うに始まるのが家司からの報告だった。この時間まで待たせてしまうのは綾人側の都合もあるのだが、彼は彼で明日の妹の支度や朝の仕込み等こまごまとしたことを片付けてから報告に来るらしく、自然とこのような遅い時間になることが多かった。
上がってくる報告に耳を傾け、頷き、改めて指示を出す。時には彼の意見を聞き、必要な確認を行ってこの件は終了と脳内で処理をする。よどみなく行われる二人のやりとりは簡潔で、もしここに第三者がいたとすれば言葉の足りなさや省き方に首をかしげていただろう。彼らの間に伝わればいいと余計なものをそぎ落とした結果、お互いにしか分からない、ある意味では誰にも読み解けない暗号のようなものになってしまったのは果たして幸いだったのだろうか。
「……なるほど、分かりました。今日の報告はこれで終わりですね」
「はい。長々とすみません」
「いいえ、それだけ多くのことをトーマに任せてしまっているのは私です。謝るのなら私が先でしょう」
近頃は祭りのこともあり、大きな案件をいくつもトーマ一人に任せてしまっていた。それらの報告がひと段落つき、お互いに僅かながら緊張が解ける。気を抜いた結果、子どものように眉を下げて申し訳なさそうにする様がおかしくて、悪戯っぽい笑みとともに返せば、呆れ交じりの苦笑と嘆息が帰ってくる。気の置けないやり取りを心地よく思うと同時に、いつも綾人の夜更かしを咎め仕事上どうしようもないことを除けば布団に放り込もうとする家司が、このような時間であってもすべて綾人に報告しなければならないと考えるほどの大きな案件ばかりを任せてしまったと、申し訳なさが募った。
本来であればもう少し他に割り振るべきだったのだが、他の部下たちの誰と比べても、彼の方が正確で、彼の方が手早く終えられて、何より、彼が最も信頼できるのだ。甘えっぱなしではいけないのだが、ついつい彼に多くを背負わせてしまう。家司としての仕事以外にも、顔役としての人脈や周囲からの信頼を踏まえれば、彼ほどの人材はそうそういないのだ。いつだって、トーマは綾人の期待以上の結果を出し続けてくれているのだから。
とはいえ、それもようやく落ち着いてきた。綾人自身も、何とか毎日数時間眠れるほどには大きな問題は起きていない。彼とこうして夜中に方針を話し合うのも最後だろう。あらかたの問題は片付けられたので、最後の締めは綾人が行えばいい。
(……さて、どうしましょうか)
綾人の様子から業務の終わりを察して筆やメモを片付け始める勤勉なる家司に、今日までの繁忙期を乗り越えた褒美でも与えてやりたい、と不意に思いつく。綾人自身も、もう少し落ち着けば休日をとって妹と過ごそうと考えているのだが、彼にとっても何かそういった報酬を与えてやりたい。休日を作るとか、彼のほしいものを取り寄せるとか、大っぴらなことは彼自身も嫌がるだろうから、どうしてもささやかなものになってしまうけれど。綾人からの感謝と労わりを拒絶するようなことはないだろうが、どうにも自分の欲を見せたがらないトーマのことだ、上手く伝えなければからりと笑って躱されてしまうだろう。
ではどう誘い、上手く言質をとるか。彼を逃さず、その望みを吐き出させるか。搦手よりは真っすぐにぶつかったほうがいいだろうが、こちらが少しでも引けばトーマはそれを察して遠慮してしまうだろう。やはり命令として受け取らせるべきだろうか、いや褒美を命令するというのも――などと、穏やかな笑みの裏に思考を巡らせる綾人は、自身もまた大きなイベントやその後始末に追われ、数日まともに眠れていないことをすっかり忘れていた。
とっくに疲れ切った思考回路はいつものように滑らかに働くことなどなく、くるくると空転して、やがて勝手に言葉を口から押し出すのだ。
「トーマ、」
「はい?」
「ご褒美をあげるよ。私にしてほしいことがあれば、何でも言ってほしい」
何も取り繕うことなく、駆け引きも何もなく、するすると言葉が出ていく。そしてそれを認識しても、もう止められなかった。
「きみの、好きなようにして」
ぱち、と翠の双眸がひとつ瞬く。それを見て、あれ、と綾人は己の口元に指をあてた。今、自分は何を言っただろうか。トーマに褒美を上げたくて、それで、彼が遠慮しないように言葉を選ぶはずで。だから、そう、ええと?
「若……」
ぐるぐると再びまともに動かない思考を躍らせていた綾人は、すす、と近づいてきていたトーマに気づくのが遅れてしまった。その数秒が、何もかもを分けてしまった。にじり寄った男の手の指が、すり、と疲れの滲む目元や頬を撫でていくのにようやく視線を持ち上げて、あ、と喉の奥に声が蟠る。
綾人だけを映し出す瞳が、焼け付くほどの強さで、そこに在った。
「今日は、俺にぜんぶさせてください」
「……トーマ?」
「髪も、肌も、爪も――寝支度も、ぜんぶ、俺がやります」
もちろん、トーマも数日まともに休めてはいなかったし、思考回路も真っ当に働いてはいなかった。