春に酔わずして 神里綾人というひとを思い浮かべるとき、トーマの頭の中には、まず静かな水面が描かれる。透明度は高いはずであるのに、底を見通せないほど深い深い水。そこにひとひらの花弁が落ちて、艶やかに花開くのだ。その情景から、ようやく主の姿に結び付く。それくらいには、綾人というひとの纏う水の気配は色濃くかつ静かなものであった(これは火の元素を操る神の目を持つトーマだからそう感じるのかもしれない)し、しかしそれでいて華やかなものだった。春の水、花咲く水面のそれ。彼の立つ場所にはいつもしっとりとした静寂があって、奥深くに沈められた何かが他者を威圧してしまう、らしい。トーマや綾華にとっては、その静けさやたっぷりとした水の気配にはむしろ癒される心地なのだが、他者にはどうにも、そうは思えないようだった。
あるいは、さざ波のひとつもたたない水面らしく、対面するものの姿や思いを映し出しているのかもしれない。綾人と相対した際、恐怖や威圧を感じてしまうのは、そもそもその相手がそういう先入観を持った目で主を見てしまっているのではないだろうか。彼の周囲の人間たちにはいささか礼を欠いてしまう思いかもしれなかったが、それはトーマの本心でもあった。そう思って怒りを抑えなければならないくらい、主を貶め汚そうとする手や、言葉が、この国には余りにも多すぎたので。
目の前で閉ざされた襖に描かれた豪奢な花は一体何という名だったろうか。しんと静まり返った板間に腰を下ろし、けれどもすぐに立ち上がれるようにと耳を澄ませた状態で、トーマは灼けるような熱を孕んだ視線をその絢爛たる襖に向けていた。金糸銀糸を織り交ぜて縫い取られた花々に彩られた襖は重厚で、建物それ自体のつくりと相まってかその向こうの音を一切通さないようだった。
近頃名を聞くようになったこの店で最も奥に在り、同時に他のどの座敷とも離された、いわゆる一見さんお断りの座敷付近にはトーマ以外の気配は一つとして感じられないほど静かだ。主の手の者たちの気配がトーマに感知できないのは当然としても、この店の従業員たちすらも近づいてこないのは、そういう取り決めでも事前にあったのか、あるいは店側としてもきな臭さを感じて距離を置いているのか。前者であればなおさら、この先の座敷で誘い主と二人きりであるはずの主の身が案じられてしまう。
今宵はとある権力者と食事をする、と前日のうちに主からは話はされていた。食事については帰ってきてから軽く食べられるものがあればいい、とも。酒宴になるだろうが、食事を楽しむつもりにはなれない相手であるらしいということはそれだけで分かった。相手の名前が明かされないのも、その食事の目的も、何も知らされてはいなかったが、主にとってはあまり歓迎したくない席であるということだけは確信したので、トーマは綾人の好みそうなものを用意しておくと請け負った。今が旬の食材で胃に負担とならないようなものを作ると告げれば、ふとその口元に微笑が宿るのが嬉しかった。
これまでも数度は似たような言伝をされてきているので、このやりとり自体も慣れたものではある。とくに後ろ暗いところのある人間を相手取る際に、主はこういったやり方を選ぶのだ。決してこの家にきな臭いものを持ち込まないよう、特に彼の大事な妹には知られぬようにして。それに否を唱えられるほど愚かではなかったし、主がそうしたくしてしているわけではないことも理解できていたから、トーマはいつもそれを受け入れてきた。主の指示の範囲で、最も主を癒せるように。この家ではくつろげるようにと心を砕いてきた。ただ――今日のトーマは、何故だろうか、それだけではいけないと不意に思ったのだ。
『若、お願いがあります。――どうか、オレも』
同席までは流石に望めないだろうが、せめて送り迎えだけでも、と。何かを考えるよりもさきに口から言葉が飛び出ていた。きょとん、と瞬きを忘れた藍紫の瞳を見て、ようやく己の行動に気づいたトーマ自身も動揺はした。だが、その上で、その言葉を撤回しようとは思わなかった。野生の勘か、あるいは風の囁きでもあったのか、そうしたほうがいいと本能が訴えていたのだ。その感覚はこれまでもトーマを幾度となく助けてきたものであり、そこに疑う余地はなかったが、あくまでそれはトーマの主観だ。感覚だけの言葉は他人を説得するには余りにも論拠に欠けている。それでも、綾人は家司の言葉を無下に斬り捨てるような主ではない。しばらく考え込むように瞳の色を濃くして、やがて彼はいくらかの条件を出してきた。
場所は口外しないこと、余計なことは聞かないこと、一度帰すわけにもいかないのでその場で待つしかないこと。見聞きしたことは誰にも――たとえ綾華相手であっても口外しないこと。
どれをとってもきな臭さしか感じはしなかったが、それだけのことを守れば主はトーマの行動を許してくれるのだ。どれだけ時間がかかるかは分からないんだよ、と困ったような顔をする主には申し訳ないのだが、トーマは端から帰るつもりなどなかったので待機上等だった。何時間かかろうが主の傍に控えその帰りを待つことは、神里の屋敷での待機に比べれば何の苦でもない。口外厳禁なことなどこれまでだっていくつも扱ってきた。そもそも、この家に仕えると決めたときから、トーマがこの神里家に関する何かしらを外に漏らしたことなど一度としてない。綾人の信頼を裏切ったことも、トーマが覚えている限りではないのだから、と熱心に説得を重ね続けるトーマに、とうとう主は折れた。
『座敷までは難しいかもしれないが、その外でならいいだろう。終末番も近くにはいるから、安心するといい。私が帰るまで、一切余計なことはせずに待っていなさい』
トーマは物好きだね、なんて笑う主はいまいち従者ごころをわかっていないのだ。どんな制約があったとしても、それは、少しでも主の傍に侍り待ち続けることができることの幸福と比べれば、何ら痛痒をもたらさない。少なくともトーマにとっては、ただ屋敷で無為に彼を待つより、何もできなくてもそばに居られる方がずっとよかった。送り迎えだけでもいいのだ。少しでも、彼の支えや助けになれるかもしれない。荒事が起きた時でも、それ以外でも、彼が少しでも早くあの屋敷に帰れるように手を尽くすことができるかもしれないのだ。何事も起きないことが一番だが、それに備えられるという事実だけでも、トーマにとっては大きな一歩だった。
帰るころには深夜を回っているかもしれないが、屋敷を出る前にいくつか手を打って、簡単なものならすぐに食べられるように作り置きをしてきてある。主の食欲さえあればの話だが、甘いもの、塩辛いもの、それ以外にもいくらかのものを出してみて、それから食べられるものを食べて貰えばいいだろうか。トーマの呼吸音だけが響く廊下でそう計画を立てていると、不意に辺りにいくつかの気配が揺らめく。
「!」
突如現れたそれらは、間違いなく主の操る終末番たちのものだ。先ほどまでその欠片さえも探知させなかった見事な隠形には舌を巻かされると同時にやや悔しくもあるが、それどころではないと腰を浮かす。
何かが、起きたのだ。主が終末番を動かすということは、あるいは終末番が自主的に動き出すということは、そういうことだった。
「若……!」
「待て」
目の前の豪奢な襖に手をかけようとしたトーマを、音もなく降り立った影が諫める。この先には空気中に毒が広がっている可能性がある、と手渡された布を手早く口元に巻き付けて、厳しい視線をごく薄い気配のみを纏う影へと向ける。何が起きたのか、トーマはこの先に踏み込んでいいのか。言葉すらない誰何は殺気すらも孕み、その炎の気配に、廊下の室温が僅かに上がったようだった。
とはいえその程度で怯えるようなかわいらしさは終末番も持ち合わせていない。淡々と、恐らくは空気中に溶け出す毒であること、当主に命の別状はないだろうがトーマは毒耐性が低いため踏み込めば後々影響が出る可能性があることを説明する。ぎらぎらと揺らめく焔を瞳に閉じ込め、トーマは口布の下で歯噛みした。
「毒とはいえ、多くを吸い込まなければ大丈夫なんだな?」
主とともにすぐに離脱すればいいだろう、下手人はどうせ終末番が『世話』するのだから。それに肯定が返ってきたと同時、一瞬の躊躇いすらもなくトーマは重い襖をあけ放ち、座敷へと踏み込んでいた。豪勢なつくりの二間、その奥にあるもう一枚の襖も叩き開けて、上座に坐しているはずの主を探す。
「ッ!」
青い影を帯びた白銀の髪が、畳の上に広がっている。無防備に床へと倒れ込んだ――恐らくは何者かによって押し倒されたのだろう恰好の主が、トーマの護るべきひとが、そこに横たわっていた。
胸は静かに上下している。瞳はしっかりと開かれていて、確かな知性に満ち静かに思考を巡らせている――きちんと、こころもからだも、生きている。
その姿を見送ってほんの半刻ほどではあったけれど、ただそれだけの事実をこの目で確認せねばならないほど己が追い詰められていたことを、ここでようやく自覚する。自分の情けなさを恥じる気持ちよりもずっと強い安堵に頽れそうな足に力を込め、ひとつ息を吸った。
「……若!」
「トーマ?」
「お迎えに上がりました。立てますか……?」
ぱちぱちと瞼が上下する動きが、いつものそれよりもやや重たげだ。横たわったままであるのも、恐らくはこの空気に含まれているという毒――布越しにじわりと染み入る甘ったるい香りのせいだろう。主ほどの耐性を付けていても押し倒されるまで反応できなかったのか、あるいは彼が知らぬ毒物であるのか。そんなトーマの焦りを悟り浮かべられた心配をかけまいとする笑顔が変わらぬことにいくらか心は軽くなるが、それはそれとして彼をいち早く屋敷へと連れ帰りたいという気持ちは増すばかりだ。手を差し伸べれば僅かにふらつきながら立ち上がってくれるので、主は当たり前に歩いて帰るつもりであるのだろう。無理はさせたくない、己が負ぶって帰りたいという焦りを再び呑み込んで、彼が望むように、『神里綾人』が少しでも目立たないよう屋敷へ帰ることを提案する。
「屋敷まではオレが伴をしますので。無理はいけません」
「心配しなくても、大丈夫だよ。それに、この衣にも香りが染みついてしまっている。トーマには毒だ」
「若にとっても、それは毒です」
ぴしゃりと言い聞かせれば主は苦笑するだけだった。本当なら今すぐ衣を剥ぎトーマの上着でも羽織らせて、安全な場所まで連れて行きたいんですよ、という圧は伝わっただろうか。心配と焦りに、己自身のことを常に除外して話す主の癖への怒りと悲しみが加わり、どうにも余裕がないのだ。それが彼の彼らしさであり、覚悟であると分かっていても。自分を大事にすることを、必要であればいとも容易く斬り捨てられる強さが、どうしようもなく寂しかった。
何よりも、彼が持ちうる手段のひとつとして己を切り捨てようとする前に、トーマという存在がいつでも手を貸せるよう傍に在るのだと気づけない――彼の中でのトーマの存在は、未だ彼に頼られるほどには大きくないことを思い知らされる。否、例え気づいていても、だからこそ率先して守ろうとするのがこの主のやり方であり、その情の深さこそをトーマは深く愛しているのだけれど。少しでもそれを、彼自身にも向けてほしかった。
(……そうしてほしいのは、ただの、オレのエゴだ)
彼の生き方をトーマが決めることはできない。その決意を踏みにじることにもつながってしまうから、それだけはできない。それでも、どうしたって、トーマにとっては大事なひとだ。その愛し方も強さも何もかもを歪めたくはなかったし、失ってほしくもなかった。例えそのひとかけらであっても、彼自身を損ないたくなかった。何物にも代えがたい、大切な主なのだ。
(それなら――オレが、もっと強く)
彼が悲しい選択肢を選び取る、その前の段階で。トーマが力を尽くすことでそのすべてを解決できるように、トーマ自身が強くならねばならない。そんな非情な選択を、そもそもさせないような状況にすればいい。彼がそこまで追いつめられることなど今ではそう多くはなくなったけれど。そこに至るまでに、トーマが、そして彼の育てた終末番たちが、あらゆる力を尽くして解決へと導けばいいだけのこと。主であるひとが、トーマたちを動かすことで状況が変わるのだと確信できるほどの力をつければいいのだ。ごくごく単純で、そして何よりも難しい答えは今日も変わらず、トーマは己の力不足を嘆きつつ主の腕をとって痩躯を支えた。数歩すすめば主の足取りも安定し、後始末は終末番に任せたからという言葉に頷き二人は家路につくことにした。
家司であるトーマが当主の綾人を迎えに来るという状況は、この街ではありふれたことであるし、出てきた店も酒店として近頃名をあげてきた場所である。傍目にも、飲みすぎた主を支え屋敷へと帰ろうとしている姿にしか見えないだろう。どこかしらから終末番が護衛についていることも予測はついたので、トーマは焦りから早まりそうな足を何とか落ち着けて、意図してゆっくりと歩を進めた。
月の光に影が落ちて、どこからか春を知らせる花の香りが漂ってくる良い夜であるというのに、それよりも濃く甘ったるい香りが傍らの彼から立ち昇ってくる。主が常に身に纏う水の気配と清廉な香ではなく、何もかもを塗りつぶすような悪意から生み出された甘い毒が、トーマの神経をざりざりと逆撫でした。それでも、彼がトーマの手を受け入れてくれている事実を改めて認識して何とか留飲を下げる。ここで焦りや不安を見せるばかりでは、いつまでもトーマは守られる側だった。
己の未熟さを痛感するトーマをよそに、無言のうちに歩き続ける主はこれからの算段をつけているのか、あるいはトーマの心情を慮って口を閉ざしているのか。ちらりと伺った横顔には何の色もなく、常の静けさを取り戻してしまっている。まるで何事もなかったかのように――否、彼はきっと、トーマがここにいなければ、何事もなかったと笑いながらひとりでこうして帰ってきただろう。何も知らない妹のために、屋敷で待つトーマのために。何でもない顔をして、一人きりになるまでその身体の異常を何ひとつ悟らせずに。そんな光景がありありと目に浮かんだ。それができるひとだと、知っていた。そうして歩いてきたひとだということも、誰よりもふかく、理解していた。
――それでも、今日の主の傍には、こうしてトーマがいる。
(若は、俺の助けを受け入れてくれた。……伴としてついてくることも、許可してくれたのは、若だ)
屋敷で待つように言われても、頷かなかった己を褒めたい。こうなることまで見通してはいなかったが、それでも、己の直感に従ってよかったと思う。主を説き伏せ無理に同行するなど何とも子どもじみた我儘のようにも思っていたが、振り返ってみれば、あの場で我を通すことができたことを喜びたかった。何事もなく帰れることが最良であることに間違いはないが、ことが起きてしまったことを前提とするなら、きっとこのふたりきりの帰り道が次善の策であったことも疑いようもないのだから。
主を、ひとりでいさせたくない。無理を通させたくない。自分を大事にしてほしい。すべて、トーマの我儘だった。彼はこの世のすべてから守らなくてはならないような弱いひとではなく、できることをしているだけのひと。ひとりでも歩けるし、今日のことだってすべて彼だけの力で解決できた。
そんなひとが、それでも、トーマの伴を赦してくれた。帰り道をともに歩み、その身体を支えることも。言い換えればそれは、彼が守るべきと思い定めた枠の内側から、少しだけ、彼の支えとなれるような手を伸ばすことができたということだ。
トーマ相手になら、そうしてもいいと――彼が背負うもののごくごく一部でも、ともに抱えて歩くことを、己自身に対して許したのだ。そう思えるようになったのだ。
家を背負う彼の隣に立てなくても。いざというとき、終末番のように直属の影となって動くことはできなくても。
トーマがトーマとして、彼を支えることを、彼はゆるした。トーマに対して、そうして、主自身に対して。そうしてもいいと思ってくれたのだ。
自省も悔しさも飛び越えて、その事実だけが今のトーマの胸を満たしていた。喜びが、とくとくと僅かに早い拍動に合わせて全身を巡っていくようだった。温められた胸のうちをなんとか彼に伝えたくて、ひそりと声を落とし言葉を紡ぐ。
「……今日は、おそばに置いてくださって、嬉しかったです」
春の宵風に浚われていった小さな言葉は、それでも確かに届いたのだろう。屋敷の灯りとさざめく終末番たちの気配に僅かに肩の力を抜いたところで、柔らかな声が耳朶をくすぐった。
「トーマ、……私のほうこそ、今夜はありがとう」
吐息の中に混ぜられたねぎらいの言葉にまたひとつ拍動が早くなる。あっという間に常の主としての仮面を張り付けた横顔は今宵も完ぺきに美しかった。睫毛の影がかかる肌にうっすらと血の気が上っていなければ、トーマでさえその異変には気づけなかったかもしれない。じっとりと汗ばむほど熱を持つ体躯を改めて支え、辺りに人目がないことをそれとなく確認して邸内へと足を踏み入れる。
裏木戸を通り抜ければ、そこはもう神里の屋敷内だ。終末番の手厚い監視が敷かれている今、堪える必要もないだろうと早くなる足をまっすぐに主の寝室へと向ける。周囲に家人や綾華の気配がないことをまずは確認し、急ぎ毒をなんとかせねばと余裕なく主とともに最奥の部屋へとなだれ込んだ。
「まず横になってください。解毒剤については終末番が情報を集めているんですよね?」
その間の世話はオレがしますからと、あらかじめ敷かれていた布団へ誘導する。襖を締めた瞬間からほそい肩のこわばりが僅かに抜け、息が上がり始めた主の様子を注意深く伺いつつ横になるよう促すが、けぶるような藍紫の瞳は伏せられ熱を堪えるよう自身の身体を強く抱きしめるだけだった。
「若、」
これは横にさせるしかないかと、細い肩に手をかけ座らせる。そのまま褥に身体を傾けさせれば、ふ、と熱い息を零しようやくその力が抜けていった。慣れた声と手のひらの双方に安堵したのか、ぽすりと布団に押し倒されたまま、とろりと色濃くなった瞳は無防備にトーマを見上げる。
ごくり、と。小さく喉が鳴ってしまったのは、無意識のことだった。
「……トーマ?」
熱を持ってしまった身体に、ろくに抵抗せず流されるがまま押し倒されている現状。他意なく招いたこととはいえ、その何もかもがいかがわしく思えてならないトーマのことなど知らぬげに、何をされるのかと怯えることすらせず、主は柔らかな笑みを浮かべる。そこにトーマがいることを認識して、安堵したとでも言うかのように。先ほどまでは顔見知り程度の男に押し倒され、恐らくは言葉や手札でもって絶対的に抵抗して見せた男の素振りとは思えないほどの差異に内心うめき声をあげつつ、先ほどまでとは別の意味で逸る鼓動をなんとか堪えたトーマは己の職分に忠実に従った。
「……今は、おやすみなさい。また薬が届いたら起こします」
あとは任せて、と囁けばいとけない子どものようにこくりと頷かれる。汗ばんだ額にかかる髪を指先で払い、宥める意図を込めて手の甲で頬を撫でた。とろとろと微睡むように色を濃くする瞳がふとその手を捕え、その視線に命じられるままその頬を包むように手を添えれば、すり、と控えめに肌をすり寄せてくる。
(若……)
痛いほどの信頼を、無垢な情を、向けられているのだ。押し倒されたとしても、そこに色を思わないほどには。その無上の信頼は何物にも代えがたく、裏切ることなどできるわけがない。
今、主の身を蝕んでいるのは媚毒の一種だと聞いた。この様を見ればその効果は明らかで、死に至る危険はないのだろうと理解はしているがだからこそ生殺しのような状況は苦しいだろう。小さな唇からこぼれる吐息はじっとりとした熱を孕んでおり、トーマが衣を脱がせ軽く身体を清める間もぴくぴくと肌は震えるばかりだ。何をされても気持ちがいいのだと、その全身で伝えられている。それが誰とも知らぬ男の与えた薬によるものと思えば怒りを覚えるし、褥に横たわり息を荒げる主の姿を見れば不埒な感情が僅かに芽生えてしまいそうになる。それでも、トーマの片手に頬を預け、安心しきったように全身の力を抜く様を見れば、その何もかもが霧散してしまうのだ。
主の絶対の信には、この忠を以て応えねばならないのだから。
「――……っ」
それでも、どうしても、この心はじわじわと艶やかな想いに染められていく。常ならば堪えきり飲み下していただろうそれが言葉となり零れ落ちたのは、トーマ自身に自覚はなくとも、主同様に媚毒が体を蝕んでいたからだろうか。不思議なほど目頭が熱を持つのも、主に触れる指先が小さく震えてしまうのも。
全てを毒のせいにして、声に乗せずに呟いた小さな想いの欠片は、そのひとひらとて掬われることはなく。
まんじりともせずに朝を待つ二人だけが、ただ静かに、春のふかい夜の底で寄り添っていた。