雨天 23時 吐きそうなほどに熱された空気はすっかりと冷めて、辺りの騒音は冷気と共に足元へしずんでいった。
「閉店時間です」、とウェイターが申し訳なさげに声をかけて来た。
僕は反射的に「すみません」と言ってすばやく席を立った。
なぜ僕が謝ったのかはよくわからない。
帰りの電車は人もまばらで、窓にぽつぽつと映る人影を眺めながら余計な事を考えていた。
帰り道の街灯は切れかかっていて、いつもチカチカとやかましい。
部屋に着くとすぐに蛇口をひねり身体を洗う。排水溝に呑まれる泡と抜け落ちた僕の髪の毛を、なんとなく見つめていた。
僕の部屋独特の、重たく、異様に眠たい湿度の中で意識を淀ませた。
どこから入って来たのか、耳障りな羽音が聞こえた。
蚊が腕にとまる。
僕はそれを見ている。
蚊は、ペタペタと僕の血管を探して、針を刺しやすところを探しているようだ。
僕はそれを見ている。
その柔らかく細い針が、ぎちぎちにつまった細胞を押しのけて血管に刺さってゆく。
僕はそれを見ている。
チク、と痛みまではいかない刺激を拾った気がしたが、気がしただけであるのできっと気のせいなのだろう。
僕は蚊の、赤く膨れていく腹を見ている。
じっ、とみている。
曇った空から申し訳程度に入る光で蚊の腹はまるで赤いホタルのように光ってみえる。
僕はそれを見ている。
いよいよ腹を満たしたのか、蚊はよたよたと飛び立とうとする。
僕はそれを人差し指で優しく押さえつけた。
抵抗しているのだろうが、僕はその反応を指からは一切拾う事が出来ない。徐々に力を込めて蚊を圧迫していく。
やがて僕の指と腕の間から、真っ赤な血がのぞいた。
潰れた。
僕は潰れた蚊と、真っ赤な僕の血を見つめながら遠くで雷鳴を聞いた。雨とアスファルトが反応する臭いが鼻をつく。
開けっ放しのベランダに目を遣る。
雨が降っていた。
しばらく雨の匂いを嗅ぎ、雨音を聞きながらぼーっと暗い天井を見つめていた。
腕の血はいつの間にか黒く乾いていた。
雨はやまない。