呼び出されるがまま部屋を訪れれば、ドアを開くと同時に、電話越しにはほとんどノイズとなって聞こえていた荒い息が首元に巻きついてきた。そのまま噛みついてきた歯に容赦なく力がこめられる。逃がさぬようにと熱い手のひらが背に回り、もう片方の手はボタンを引きちぎりながらシャツを剥いでくる。
皮膚どころか血管や筋まで噛み切りそうな勢いだったので、指を差し込んで、なんとか押しのけた。
首筋から離れた歯は鎖骨、胸へと噛みついてゆく。ぬらりと肌を伝い落ちる感覚は唾液か血液か、どちらでもおかしくないほど獰猛に、歯と唇が肌の上を這う。
ただじっと、傷を残されるがまま立ち尽くしていると、壁に体を押しつけられた。まだ玄関だというのに。そう思いながらも、抗わずに受け入れた。こんな時には、どんなに声を上げようとも届かないのをよく知っている。何をしてきたのかも、聞かずともわかっていた。
呼び出してきたときの声が熱く震えていたから、察してある程度自分で準備してきたとはいえ、痛むものは痛む。あらゆる局面でこれまで痛みに慣れてきてよかったと、最低水準の安堵で短く息をついた。
数度発散してほとぼりが覚めるまでミスラにはほとんど記憶がないのに反して、ベッドに運ばれてからの記憶はオーエンには残っていない。
ちゃんと閉じられていない遮光カーテンから遠慮なく差し込む光に目を覚ませば、ミスラは既に隣にはいなかった。あくびをすると喉が荒れているのがわかる。ミスラの飲みかけであろうペットボトルに残ったぬるい水をひとくちずつ飲み込んでいると、スーツを着込んだミスラが顔を出した。シャワーを浴びたときに使ったのであろう濡れたタオルが枕の横に放られる。
「どこ行くの」
「結婚式に」
面白くもない冗談だと茶化そうとしたが、「適当にいい感じにしてください」なんて言いながらワックスを放り投げてくるから、寸でのところで飲み込んだ。
本能が意識を支配するほど興奮するまで人を殺して、オーエンの体も好きに暴き立てて。一夜で暴力の限りを尽くした男が、たった数時間経ただけで、何食わぬ 傷ひとつない美しい顔で他人の祝いの場に立とうとしているのかと思うと、可笑しくてしょうがない。きっと祝いの場にふさわしい華やかな出立ちであろうから、余計に。
ベッドから腕を伸ばし、前に雑誌で見て好きだった髪型を思い出して、指先でそれとなく分け目を作る。ぐちゃぐちゃになろうが知ったことではなかった。プロでもないし髪質も違うのに頼んでくる方が悪い。そもそも自分の髪を整えるときにワックスは使わないから、あまり勝手がわからなかった。
だけどさすがは並外れた容貌とあって、素人のオーエンがなんとなく指先で掻き分けただけで、このまま表紙を飾れそうなほどに色っぽい姿が出来上がっていた。そのくらいの男でなければ抱かれたくもないけれど、ときどきこの美しさもなにか皮肉に思えて、ため息をつきたくなる。
タオルに手を擦り付け拭ってから、行ってらっしゃいとぞんざいに手を振ってやった。
「忘れてました」
おはようございます、そう言ってひとつキスを落として出て行った。育て親にそうされて過ごしたからミスラの習慣になっただけの、ただの挨拶。毒にも薬にもならない、同じシーツで眠った誰にでも施されるもの。
かつてそうされた誰かがいて、この先こうされる奴が現れる、のかもしれない。そんな思考もすぐにぼやけるくらいの眠気に抗わず、落ちてくるままに瞼を閉じた。
ドアを開ける音が遠くに聞こえるくらい、とても深く眠っていた。何度か目を覚ましたけれど、目を閉じれば毎回、死体を埋め終えたあとくらい、心地よく深い眠りに突き落とされた。
結局一日のほとんどをベッドの上で過ごした。今日が平日だったか休日だったか思い出せない。どちらでもオーエンにとってあまり関係はないことだったが。
寝返りをうつたび、関節は錆びついたように鈍い痛みを発するし、目視できる範囲だけでも肌の上に幾つもの赤黒い傷が咲いている。
ベッドに腰掛けた男は少し髪型が崩れているものの、相変わらず嫌になるくらいかっこよかった。普段は着崩すことが多い分、フォーマルな格好をしているのは新鮮だった。すぐに落ちてしまおうようとする瞼になんとか抗い、少しでも長く見ていたかった。
ミスラが枕元に箱を置く。朝に置かれた、生乾きのタオルの上に。
「引き出物?とかいうやつです」
生クリームすら飲み込める気がしないくらい疲れていたのに、漂うバターの香りに誘われて、気が付けば手掴みで口に運んでいた。
はちみつかメープルシロップ、生クリームで表面をべたべたに覆ってから食べたかったけれど、空腹でそんな余裕はなかった。外周にコーティングされた砂糖が舌触れると直に伝わってくる甘さが骨身に沁みてゆく。
ふと視線を感じて睫毛を上げると、ミスラは菓子を貪るオーエンの姿をネクタイを緩めながら見下ろしていた。バウムクーヘンを口に運ぶ手が止まる。
漫画をなぞったドラマみたいな仕草。他の誰かだったら安っぽさを鼻で笑っていたけれど、この男がするとあまりに様になっている。そういった活動をしているとはいえ、芸能科のやつらなんてミスラと比べればたかが知れた、凡庸さしか持ち合わせていない石ころにすぎない。改めてそう思う。
「……なに」
「相変わらず、よく食べるなと思いまして」
指の背でするりと頬骨や瞼を撫でられた。色とりどりの花びらを撹拌したような香りが鼻腔をつついてくる。当たり前だ。こんな美しい男、威圧的な近寄り難さを侵してでも手を伸ばす者は後を立たない。
「呼んでくださいね、あなたの結婚式」
思いがけない言葉に、口に放り込んだ欠片を詰まらせかけた。
水分を摂取していなかったせいか、うまく咀嚼も嚥下もできない。
「……は?」
なんとか押し出せた返事はその程度だった。
ミスラの持ってきたペットボトルをひったくってキャップを開ける。ただの水であることに文句を並べる余裕はなかった。
「だって見たいじゃないですか。あなたがどんな相手で妥協するのか」
冷たい水が喉を通る。喉の痛みに構わず半分ほど飲み干した。
どういうことか、なんて。問いたくなかった。「だって俺以上の男なんていないでしょう」、そう返ってくるのがわかってる。
それより前に。結婚だなんだをするような人間だと思われていたことが意外だった。未来のことは分からないとはいえ、とっくにそんなルートからは外れているつもりでいたし、乗り直すつもりもなかった。
もう一口水を含んで、舌の上に残るバターで染まった唾液を絡めて飲み込んだ。
「お前も」
砂糖と生地でざらついた指を舐める。小首を傾げてこちらを見つめる瞳に、向き合う。
「僕のこと呼んでね」
濡れた指で顎を掬った。少しだけ震えてしまう声から気を逸らせることを願って。
「僕より不細工を抱いてたら、鼻で笑ってやるから」
「そうですね」
キャップを閉めていなかったペットボトルが床に落ちる。目を見開いている間に肩を押され、強制的に視界がミスラで覆われた。
「え?」
「セックスと顔だけで言えば、あなたよりいい人を探すのは無理でしょうし」
ミスラは箱に残った最後のひとかけらをつまんで口の中に放った。この男が照れ隠しや誤魔化しといった行動をとらないのが、いまは憎らしい。気が変わるのは早くても、いつだって自分の心情に沿ったことしか口にしないから、
「困る」
「なにがですか」
「……。水、まだ残ってる?」
「はぁ。少しは」
ペットボトルを拾い上げ口をつけてから、当たり前のように無言で唇を寄せてくる。ゆっくりと受け入れれば、ぬるく、そしてオーエンの口の中と同様に甘い。
「っは、まだいりますか」
「ううん。ねえ、……そんな風に思ってたんだ?」
「そうじゃなきゃ、この俺が相手に選ぶわけないでしょう」
「……」
「昔、必要のある相手とは寝ましたけど。でも今は」
高そうなシャツにも構わず、油分と唾液でベタついた指で襟を引き寄せた。唇を重ねて続く言葉を遮る。
必要って、マフィアの女からの頼まれごとのこと?性欲を持て余してるってこと?僕はその範疇じゃないとでも、お前の意思だとでもいうの。ねえ。
声に出したら、きっと自分の口が回らないくらいの速度で、問いただしたいことが溢れてくる。だけどそのどれひとつとして、ミスラの前に差し出すことはできなかった。心臓が震えている。否定されることより、万一肯定された瞬間を想像して、寒気が止まらない。
この男とする行為が好きなのは、不毛で面倒なことを考えなくていいからで。無駄な疑念を生むようなことを、言わないでほしい。
唇が離れた僅かな瞬間に、ミスラが言葉を挟む。
「あなた、俺が抱く相手も選ばないと思ってたんですか?」
噛み付いてきた唇を避けられなかった。昨晩切れた唇と舌が痛む。
オーエンはこの男の顔が好きだし、オーエンが好いていることをこの男も知っている。
オーエン自身、自分の容姿が優れている自覚はあったし、ミスラに劣っているとも思わない。だけどミスラの中にそういった基準が存在していることや、自分がそんな位置付けにあるとは考えたこともなかった。
品定めされることには嫌悪しかないけれど、育ての親とかいう女に国内だけでなく海外にも頻繁に連れ出されている男に、こうもためらいなく評されるのは悪い気分ではなくて。
啄まれるままにしながら、そろりと瞼を開くと、しっかりと目が合った。昨晩と違って、お互い理性と意識を保ったまま、視線を絡ませ合える。その上で、こうして唇と膝を擦り合わせている。
唇の間で唾液が糸を引くのもそのままに、空になった箱を爪で弾いた。
「そうだ。お前の結婚式も、引き出ものはこれにしてよ」
「そんなに気に入りました?」
「まぁ美味しかったけど。それよりも、比較したいから」
「……はあ」
「妥協で抱いてる誰かに愛とか幸せなんかを誓ってるお前を見たら、きっと今日よりもっとおいしい」
「……ほんとうに最悪だな」
低く掠れた声を吐き出した男は、いつもこの言葉を吐き出す時とは違ってひどく楽しげに口の端を吊り上げていた。
「こっちのセリフです」
もっといい相手を見つけてやりますよ、そんな期待した言葉が返ってくることはなく、荒々しく舌が捻じ込まれる。今度はオーエンからも噛み付いて、思い切り歯を立ててやった。だけどそう簡単に鉄の味はしてこなくて、かわりに砂糖のざらつきとバターの香りが残る舌が、全ての呼気を奪うように口内を蹂躙してゆく。
ようやく舌が離れる頃には、かろうじてとめていたシャツのボタンが、また全て外されていた。
「やくそく」
胸の前で緩く小指を立てれば、「望むところです」と骨張った小指が絡められる。
ベッドの上で交わされる言葉なんて、喘ぎ声の一環のようのなもので、どれだけ言葉の形をしていても意味なんか持っていない。そのときお互いが気持ちよくなれる戯言であれば、それで充分だった。
今にして思えば。ままごとの要領で結婚の未来を予約するよりも、このさき一生お互い以上の相手に出会わないと宣言する方がよっぽど熾烈だった。それに気付かないくらい、直接触れる肌のにおいと温度に溺れていて。十代の感情なんて所詮すべてが性欲のまやかしのようなものだけれど。
だけど。
若かったとただ笑い飛ばせないくらい、あまりにも真剣だった。今も変わらない、紛れもない本心だった。