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    ミスオエ 夕陽を見ていたおはなし

     ことばをひとつ、飲み込む。
     世界中を白に晒していた陽は、腐る寸前まで、滴るほど熟れた果実のようにぽとりと海に身を沈めて、見えなくなった。

     黒いレースを透かしたように無数の星がまたたきはじめる。
    「あ」
     久しぶりに、声を聞いた。そのくらい、乱反射する麦穂色の光に見惚れていた。白い陽が色付いて姿を隠すまでの時間なんて、人生どころか一日のなかでもたまらなく短いのに、いつも永遠に似た名前をつけたくなる。
     隣にいる男はどこからか本を取り出して、なれた手つきでページを捲る。横目で見遣るとオーエンの知らない術式が記述されている。
    「あの星、このあいだまでなかったですよね」
    「え?」
     黒い爪が宙を指す。星までの距離はあまりに遠く、指は一点を指し示すには短すぎる。
    「どれ?」
    「ほら、あの、赤い星と緑がかった星のあいだです」
    「……そうなの?」
    「はい。この術を使うときにさっき言った二つの星の位置が関係するんですけど、あいだに星があるのは初めて見ました」
    「へぇ……」
     見上げた先で光る星はひどく曖昧に淡い光を放っている。時がたてばまばゆく輝くのか、それともこのままなのか、天体の知識など持ち合わせていないオーエンにはわからなかった。隣の男も同様だろうし、仮に知っていた場合、優越に満ちた視線で見下ろされるだろうから、尋ねることはしない。
     位置は分かっても、その星が他の星と比べてなにが違うのかわからない。そう思うものの、つい目を離せなくなるほどには惹きつけられていた。魔法使いの人生は長くとも、稀少な時に立ち会うことができたなんて。
    「一応聞くけど、その魔法最後に使ったのはいつ?」
    「さぁ……二百年くらいは前だった気がしますが」
    「ふうん」
     たしかに『このあいだ』だなと納得する。
     ミスラは本をどこかの空間に置き去って、オーエンと同じように空を見上げた。
    「今って、星ひとつひとつに名前がついてるらしいですよ」
    「なんで?」
    「研究のためだとかなんとか……」
    「じゃあ、西の連中が?」
    「みたいです。ほら、なんでしたっけ。そこそこ有名な魔法使いがいるじゃないですか、月が好きとかいうイカれた……」
    「あぁ、聞いたことはあるよ。そいつがどうかしたの」
    「月とか星の研究のために、大きな施設をつくったみたいで」
    「へぇ」
     オーエンが言葉を終えると、闇に飲まれたように一切の音が消え去った。今、湖の周辺に集落はない。互いの息遣い以外、命の気配は感じられないほど、厳寒の境界が引かれた土地。
     夜は好きだけれど、風の音を聞いたあとのこの時間には戸惑ってしまう。普段とは違い、敢戦や性行為に傾れ込む気が起きないものだった。さっきまでの時間に震える指先をどこに置くのが正しいのか、いつもわからなくなる。

    「……もう、陽が沈むね」
     ふと漏らしてから、さっきこの言葉を飲み込んだのは、名付けられるのが怖かったからだと気付く。言ってしまえば、ミスラが自分に向ける目の色が変わってしまう気がした。
     人間の数が増え、昔に比べ書物が残るどころか流通し始めたこの時代、星も花も動物も感情も、他人の前に新たに姿を晒し出してしまえば、すべて言葉の型に押し込められてしまう。
     暗闇に隠されて、ミスラの顔は見えなかった。魔法で灯りをともすことも、夜目がきくようにすることもできるけど、しなかった。
    隣から聞こえてくる息遣いは変わらず悠長で、まるでなにも聞こえていないようだった。なかったことになるならそれは最前に思えた瞬間、
    「もう沈んじゃってますけど」
     存外低い声で返されたのは間の抜けた訂正だった。もちろんミスラの言い分が正しかったが。
    「また見ればいいじゃないですか」
    「吹雪がなくて、晴れてる日しか見られないんだろ」
    「そんな日、生きてればあと何千回でもありますよ。少なくとも俺は」
    「……僕だって」
     オーエンだって自分より魔力の強い魔法使いは片手で数えられるくらいになったとはいえ、この北の大地ではいつどんな危機に見舞われるか、警戒は怠っていない。他人を痛ぶるときも、美しい景色で視界を埋めるときも、一度一度の瞬間を全ての器官で享受し、味わってきた。虚勢だとしても、ミスラのようにこの先何度でもと易々と口にできなかった。
    「お前のことなんてすぐに殺してあげるよ。夕陽を見るのも今日から両手で数えきれるくらい、すぐに」
    「無理だと思いますけど。まぁ、せいぜい頑張ってください」
     息遣いがこちらに向いていたのが分かって、見上げていた視線をミスラの方に向けた。
    「だから、またきてくださいよ」
     流星が睫毛の先を掠めたように、一瞬目が眩んだ。
     また、と先の予定を誰かと容易に結んでしまえる厚い唇が憎らしい。
     ミスラも、同じ願望を抱いていると思ってもいいのだろうか。湖面が凍っていて、吹雪がなくて、晴れていて、ふたたりでいる。その条件を、あと何千回も繰り返せると。
    「ははっ」
    どう考えるのも自分の自由かと、思わず笑っていた。
     途方もない影の中、見つめ合う。ほとんど顔も見えないのに、見えないからこそ、晒されていない自分と相手の感情を探り合うように。自分にとって都合のいい解釈を汲み上げてゆくように。
     寒い日のように目と鼻の奥が僅かな熱と痛みを持っている。

     見上げればいつもそこにあるように。
     何度オズに叩きのめされたって、死なずにここにいるように。
     約束ではないけれど、拠り所になる景色がある。
     仄温かくて、蝋燭の火のように頼りなく揺らいでいるけれど、いつだって記憶の中で道標のように光っているんだろう。何度死んでも失われることがない、身体ではないどこかで。

     一歩だけ歩み寄った。
     右の手のひらが魔道具を呼び出そうと魔力を帯びるのを裏切って、鎖骨に頭を乗せた。
     頭上で息をのむ音が聞こえたけれど、すぐに魔力の気配は消えて、つむじにミスラの頬が擦れる。
     黙って、風の音を聞いている。
     前髪を揺らすつめたくもあたたかくもない呼吸を、汗ばんでいない肌の香りを、服越しにゆるりと溶けて染みる体温を、悠然と鳴る心臓の音を。ただじっと、感じていた。

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