痛みなんて覚えていない。
あの日見た、鋼鉄の輪郭を鮮烈に開いた花。つつけば雪の上にぽとりと落ちて。まるでそんなふうに、なめらかに産んだような気さえする。
爪の先に火を灯して得る暖しかなかったこの部屋に、なによりもあたたかいあなたが来てくれた。
まだ頭皮が透けるほどに薄い髪は、まるで積もりたての雪のように柔らかい。
骨の浮いた腕では豊かな眠りを与えられないから、運んだ人間の服を剥ぎ取り、できるだけなめらかな細い糸で編まれた布を選んでくるんでいる。
胸に抱いた寝顔に触れた。天使が存在しているのなら、きっと羽はこんな温度と触り心地をしているのだろう。
合図が見えた。言葉もなく、いまや目を合わせることもなく、舟に乗り込む。
かつて暮らしていた対岸を目指して、夫が舟を漕ぐ。
ひどく深い湖だというのに底が覗けるほど澄んでいる。透明なまま、どこまでも手厚く私たちを阻む。
岸に着くと、夫は舟を降りることなく遺体を引き受けた。遺体だけ。食糧はない。きっと岸で暮らす者の分も、賄えていないのだろう。
村の人間の視線は、私の腕に注がれていた。それでいいのかしら。同胞に対する追悼の意よりも、追放した女の産んだ子に対する好奇心を膨らませるなんて。
私は口を開かないまま、そして村人もなにも言えないまま、ふたたび舟を漕ぎ始める。
夫婦で生と死を抱いて同じ舟に乗っているなんて、おかしくてたまらない。この子が産まれてから私は笑うばかりだ。
一年前、私は数十年ぶりに岸に降り立ち、地を踏んだ。夫は視線ですら私を追うことはなかった。村の人々は警戒を滲ませた目を向けてきたけれど、私にはどうでもいいものだった。
この土地のことは知り尽くしている。慣れた道を辿っていくつか薬草を摘んだ。
夕食に混ぜて、落ちそうになる瞼を必死にもちあげ、寝息が聞こえるのを待った。縫い目の緩くなったズボンを下ろせば、しばらく絶えていたはずのそこはもくろみ通りの反応を示していた。
乗り上げ腰を振っていると目を覚ました気配があったけれど、退かされることも咎められることもなかった。闇の中、独りよがりな行為はたった一度で身を結んで、あなたと出逢えた。
この土地は死と愉悦しかもたらさない。前者は魔法使いと人間に、後者は魔法使いにだけ与えられる。祝福も疵瑕もなにもかもすべて、新しく積もる雪が覆い隠して、なにごともなかったかのように世界をなめらかに回してゆく。そんな柔靭さがそのままあらわれている、残酷で美しい土地だ。
人間を庇護する双子の魔法使いがいるらしいけれど、数十年もすればふと見放されるという話だ。人間の命は、魔法使いの娯楽として消化されるための素材でしかない。
共に北の果てともいえるこの土地に生まれた。彼が魔法使いだという認知を自他共に得たのは、私と婚姻を結んだあとだった。
その不思議の力ゆえ慕われるうち、彼は村民全員と約束した。この村を守ると。だけど魔法を教える人もなく、魔力の強め方も知らなかったせいで、雪崩によって人口が半分失われた。彼の魔力も一緒に。村民は彼を詰った。半数が生き残れたのは彼のおかげだというのに。そして私たちは追放された。湖の中心にある、骨しかない島に。
腕のなかから、泣き声が聞こえた。
ふっくりとやわい肌に男の歯が食い込んでいる。私は絶叫した。碌な飲食から隔たれた体から声は出なかったけれど、私は絶叫していた。だけど私が突き飛ばすより早く、男の体が舟に横たわる。頭の外れた体が、抱えていた遺体と重なり合う。
身動きなどとれず、これまでで一番大きな鼓動の音を聞いていた。やがて、腕に噛みついたままの頭部もずるりと落ちてゆく。淀みのない首の断面から溢れた血が、舟底に溜まっていった。ぼろきれに等しい靴にじわじわと染み込んできたそれは温かい。
食べようとしたのだろうか、それとも嫉妬だったのだろうか。本意を紡いでくれたかもしれない唇は、息子の腕に噛みついた形のまま、二度と言葉を発することはない。
息子を抱え直そうとしたそのとき、私の痩せた胸に触れている小さな手から、火花が散った。足に触れるのと同じ熱さのそれが、私の口からも吐き出される。
ようやく気付いた。この子が魔法使いだということに。肌の上に点在していた汚らわしい歯形はすでに消えている。
私がずっと一緒にいた。抱いていた。男には触れさせたこともない。魔法を教えたことなどないはずだ。
私には分からないことだけれど、かつてあの人は、魔法の出来は心の状態に左右されると言っていた。そうなのかもしれない。
誰もなにも教えないうちから、命の危機を感じ取り、躊躇いなく対処できる子。この子ならば、この大地を生き延びるだけでなく、愉楽を享受し、自由を謳歌できるのかもしれない。
暴れる体を抱き上げ、船の外に押し出した。泳ぎを教えたことなんてないのに、水を掻き分け、岸へと辿り着いてゆく。
霞む視界の中でもわかるくらい、たまらない赤い毛。あなたと出逢うために薬草を摘んだ日、つついた花を思い出す。花びらひとつ散らさず、葉や茎を失っても雪の上に燦然と鎮座したあの花を。
あんな風に、どんな土地でも変わらず悠然と生きてほしい。こんな綻びだらけの世界で、誰かを守ろうなんてしないで。いいえ、もしかしたらあの子は見つけるかもしれない。私たちには見つけられなかった場所を。あの人が成せなかった約束を、果たすのかもしれない。
どうか、あの子が。人間の私にも、人間になった父にも行けなかった場所へと辿り着けますように。
祈りを最後に、私も遺体の連なりに参列する。
波立たない湖面の上で、舟はとまったまま。私の鼓動ももうすぐ止まる。
いつかあの子が舟を漕げるくらい大きくなったら、初仕事の相手になれるだろうか。