【フェヒュ】ぬいぐるみ秋雨がしとしと降る日だった。 早朝から何のきざしもなく降り始め、雨は午後になっても止まなかった。急激に気温が下がると、帝国軍の資源管理部には燃料と簡易火鉢を探しに来た人々が列をなした。現在帝国軍の拠点基地として使われている旧ガルグマーク修道院は、本来人通りが多く住み込む人が多く、長い冬を越すのに十分な場所であった。しかし、長い戦争のせいで突然の寒さに備えるほど物資が十分ではなかった。ヒューベルトは不足する物資の分配問題に動員され、午前から足に汗が出るほど忙しく動いた。彼は寒いという喚き声を耳にするたびに、人々に長い廊下を走って体を暖めろと言い放なちたかった。
「おっと!危ない!」
力強い声に佇んだヒューベルトは食堂の入り口でフェルディナントとぶつかるところだった。
「失礼しました」
「ヒューベルト、朝から随分バタバタしているみたいだね」
「はい、ご覧のように…フェルディナント殿の方はいかがでしょうか」
「思ったよりすぐに終わった。馬小屋のわらも最近取り替えておいて本当よかったよ」
フェルディナントは、カスパルと一緒に軍用物資が雨に濡れないように世話に行ったところだった。働かせる人手が十分だったので、比較的楽に仕事を終えることができた。
「それは良かったですね。まだ収穫期も迎えていないのにこんなに雨がたくさん....冬の事が心配です」
ヒューベルトは窓の外を見ながらつぶやいた。
「まだ仕事が多いのか。よかったら一緒にお茶をしながら少し休むのはどうだ」
「良いでしょう。たった今一息つくことができるようになりました。私も休憩が必要かもしれません」
普段は庭で新鮮な空気の中で温かい飲み物を楽しむことができたが、雨のためやむを得ず室内で飲まなければならなかった。ヒューベルトが自然に食堂の中に戻るとフェルディナントに腕をつかまれた。
「今食堂は少し騒がしいから、私の部屋に行こう」
ヒューベルトがフェルディナントの部屋に入ったのは初めてではなかった。士官学校の時の部屋をそのまま使っているため、五年前の学生時代まで含めると、様々な事情で彼の部屋を訪れることがあった。しかし、長時間滞在するために訪問したのは今回が初めてだった。 ヒューベルトは他人の部屋で二人きりで静かに向き合わなければならない状況に慣れていなかった。雨の音が窓をコツコツたたく音が規則的に聞こえ、心も弾んだ。フェルディナントが茶器を並べている間にヒューベルトは自然と部屋の中を見回すようになった。決まった場所なしに散らかっている武具や本、便箋などからフェルディナントの日ごろの関心事や行動を窺うことができた。そしてベッドの片隅にうつぶせになっているぬいぐるみに目が行った。
「あれは...」
「ああ」
ヒューベルトの視線が向いているところに気づいたのか、フェルディナントは大股に歩いてベッドに行き、ぬいぐるみを取ってきた。近くで見るとクマのぬいぐるみだったが、大人が胸に抱くには小さくてとても古いものだった。フェルディナントはクマのぬいぐるみをテーブルの上に座らせるように置いて、その両腕を指で握って動かした。
「さあ、紹介しよう。こちらは私の旧友、テオ·フォン·エギルだ。こちらは私が愛するヒューベルト·フォン·ベストラ」
「...本気ですか」
「うむ?ヒューベルト、私の心に嘘などない!」
「そうではなくて…このぬいぐるみのことです」
「ははは、やはりぬいぐるみからは卒業する年だろう?」
やや照れくさそうになったフェルディナントは、ぬいぐるみのテオを砂糖の樽に寄せかけた。
「まあ、からかう気はありません。人それぞれですので」
「ヒューベルトは子供の頃好きだったぬいぐるみやおもちゃなどあった?」
「好きだったのかどうかは…わかりませんが、ぬいぐるみは持っていたと思います」
誰からもらったのかは知らなかった。
「たぶん、ウサギの形をしたぬいぐるみでしたね」
「ウサギか、それは可愛いね。名前はあった?」
「名前............」
一瞬浮かんだ名前はあった。しかし、その名前を簡単に口にすることはできなかった。凍りついたような表情でカップを握っているヒューベルトの手に、暖かいフェルディナントの手が重なった。
「何かあったか?」
「あ…」
別に大したことはなかった。人に話してはいけない秘密の話でもなかった。しかし、こんなふうに思い出したことは初めてだった。
「私が…つけた名前ではなかったですが…その男が...エーデルガルトと呼びました」
「え?」
「私の父のことです」
一時的な仮定にすぎない。 「これをエーデルガルト様だと思え」という呪文、あるいは訓練、刻印。ヒューベルトはため息を少しついてカップを持ち上げてのどを潤した。温かい液体が喉に入り、いつの間にか固まっていた体の隅々に染み込んだ。
「どこから話せばいいのでしょうか。私がエーデルガルト様に直接お目にかかったのは6歳の時ですが...」
エーデルガルトを影のように補佐したのはそれより少し後のことだった。ある日、エーデルガルトは背の低い桃の木の上に登ることを見せようとした。エーデルガルトは、彼女が大事にしていたクマのぬいぐるみを手に持っていた。手の中にしっかり握っていたと思っていたぬいぐるみを逃し、それを素早く取ろうと身を乗り出した所為で、エーデルガルトは木から落ちてしまった。ヒューベルトは落傷の対処方法を知っていたが、エーデルガルトの柔らかい頬と膝にできた擦り傷をすぐに消すことはできなかった。エーデルガルトの乳母やその場の近くにいたヒューベルトの父親、当時のベストラ侯爵が走ってきた。人々は治療のためエーデルガルトを連れて行き、ヒューベルトは父親について再びベストラ邸に戻らなければならなかった。
ヒューベルトは、ベストラ家の人として機能するように訓練を受けてから、皇家の人々に会うことができた。しかし、この事故で彼の未熟さが露になったのだ。あらゆる苦痛に備えるために訓練されている生きた武器であり道具であったヒューベルトは、まだ他人の気持ちを推し量る方法を知らなかった。作られてから10年も経たない小さな人間に要求するには難しいことだが、ベストラ家の人には必要な素養だった。ヒューベルトは自分の部屋で酷く説教された。父を、皇帝陛下を、エーデルガルト様を失望させたくなかった。ヒューベルトは自分の力量の不足を知り、深く反省するしかなかった。頭の上から重い声が聞こえた。
「自分の体が壊れてもエーデルガルト様を守るべきだ」
先のような落傷は実に軽い事故だった。小さな傷一つや二つくらいで命に別状ない。その事実ならヒューベルトはよく知っていた。しかし、ベストラがそばにいる限り、皇族の玉体にいかなる損傷も許されなかった。ヒューベルトは太ももに刃物が深く刺されても大きな悲鳴を上げないように、長い訓練した末、苦痛に鈍くなった。だが、「エールガルト様」の頬についたいつか自然に治る小さな傷を見て、まるでヒューベルト自身の肌が切り裂かれるような苦痛を感じなければならなかった。まだそこまでは及ばなかった。
「自分の体よりも大切に」という話も聞かれた。それはあまりにも難しかった。ヒューベルトにとって自分の体は価値判断の順位で極めて下位に属した。ヒューベルトは率直に打ち明けた。よく分からないって。そして、彼は新しい訓練を受けることになった。ヒューベルトがベッドの側に置いたウサギのぬいぐるみが椅子に座らせた。
「さあ、 見てごらん。これをエーデルガルト様としよう。」
そうしてウサギのぬいぐるみはエーデルガルト様になった。
「もうこれ以上話さなくて良い」
「貴殿がそう望むならば」
その話の先にあるのが何なのか、十分に予想できるようにフェルディナントは青ざめた顔でヒューベルトの話を止めた。古くて毛羽立つまでぬいぐるみを長く愛することができるフェルディナントには、確かに想像もできないことだとヒューベルトは思った。
新しい訓練が終わった後、ぼろぼろになったぬいぐるみが暖炉の中に入り、灰になるのを見た。それを取り出したくて腹の中がうずうずした。そのぬいぐるみに愛着を持っていたためか、それともそれをエーデルガルトに対するように先ほどまで入力されたためか、見分けがつかなかった。しかし、再び皇城に戻って出会ったエーデルガルトの頬の小さな傷跡を見て、胸が痛かったのは今でもヒューベルトは覚えている。訓練のために名づけられたぬいぐるみは何でもなかったということも、そのうちに分かった。ヒューベルトに訪れたことは手足を切られるような痛み、喪失感、挫折感……しかし、今日、戦場に出て戦うエーデルガルトが負う軽微な負傷に、彼は心を痛めてはいない。鈍くなったというよりも、今や感情を分配する方法を身につけたのだ。その傷が彼女の墜落を意味しないという事実を、痕跡など軽微なことにいつまでも心を使っては前に進む事ができないという事実を。彼はよく知っている。
「君は…大丈夫?」
フェルディナントはそんな小さなことに気を配る人だった。しばしばエーデルガルトに対するヒューベルトの忠誠心が歪んでいるとフェルディナントは思っていた。しかし、それを否定して直すことは不可能だった。忠義とはヒューベルトの根幹をなす精神であった。それがどのように形成されたとしても。
「ええ、あれから長い年月が経ったので」
すでに冷めたテフをすすっているヒューベルトは少し疲れているように見えた。時間がすべてを解決してくれるわけではなかった。フェルディナントは初めてヒューベルトが自らの手で父親の命を絶ったことを理解できそうだった。
「…ヒューベルト」
「何ですか」
フェルディナントはクマのぬいぐるみ、テオをヒューベルトの胸元に当てた。
「私の代わりにハグだよ」
「...慰めたい気持ちになりましたか ぬいぐるみを失くした子どものヒューベルト·フォン·ベストラを? くくく....」
「いや、私のせいで悪いことを思い出した今の、大人のヒューベルトを抱いてあげたいのだ」
フェルディナントはヒューベルトの手を引いてテオを抱かせた。ぬいぐるみが小さくて、両手でつかむ形になった。「この行動に何の意味があるのか分からない」とヒューベルトはため息をつき、そっと凹んだ綿を指でなでながら押さえた。今まで泣きそうな顔をしていたフェルディナントは、その姿を見て、たちまちにこにこした笑みを見せた。雨の音が一層静まっていた。
「君にぬいぐるみをプレゼントしても良い?」
「ただ部屋の片隅に置かれるだけです」
「それでもいい。そのまま部屋に置けばいい」
「名前をつけるつもりもありません」
「私が代わりに考えてあげる」
ぬいぐるみについて話をしてから何日も経たないうちに、ヒューベルトはフェルディナントから茶色の子犬の姿をしたぬいぐるみを貰った。フェルディナントが残したメモには、「まだ名前は悩んでいる」と書かれていた。 その子犬のぬいぐるみは、大人の男性の中でも高い身長のヒューベルトが、両腕で十分抱けるくらいの大きさだった。故に部屋の片隅に置くにはかなりの場所を取った。ヒューベルトはフェルディナントからもらったぬいぐるみをどこに置くか悩んだ。結局ベッドの側を明け渡すことになった。
ある日の朝、一晩中ひんやりとした秋の空気にあたり、ヒューベルトは鼻が冷えたまま目を覚ました。ぬいぐるみを引いて、柔らかい部分に鼻を埋めて息をゆっくり吐き出したら、そのような行動をずっと昔にしていたような気がした。