習作「初桜」 春の陽気というのは、人の心を浮かれさせる。
人気のない露台には時折風が吹き、その度に桜の花弁が無数に舞い降りて、私にまとわりついた。
「まるで春の雪だな……」
私は手すりに手をつき、この国の春の風景を眺める。
遠くに聞こえる鳥の声、わずかに香る花々の麗しさ。
頬を撫でる緑の風は、見える景色の先へ、未来へと私を誘う。
こんな穏やかな日が、ずっと続いてほしい。
それを噛み締めるように、瞼を閉じた。
ことり、と何かが落ちる音がして。
私は慌てて振り向く。ここには誰もいないと思っていたのだが、露台の隅に長椅子があるのが見えた。
露台へ伸びる桜の木の枝が、椅子へも花弁を降らせている。その下には幾つもの木簡が転がっており、朱の服の裾がゆらゆらと風に遊んでいる。
なるほどと私は歩み寄り、読みかけていたであろう開いたままのそれも手に取り、くるくると丸めた。
長椅子で眠っている彼の寝顔にかかる枝の影。短い黒髪には花弁が散っていて、その数が彼のいた時間を教えてくれる。
風が吹き、またひらりと花弁が私と彼に降り。
その頬に、唇に落ちた時私は思わず彼に手を伸ばしていた。
手を伸ばそうとしたのは花弁か、あるいは――
「……おとうさん」
突然現れた声と姿にひっと声を上げると、そこには私の娘がいた。椅子の陰に隠れて座っていたので気がつかなかった。
「ア、アルルゥ、いつからそこに」
「ずっといた」
「そ、そうか」
「おとうさん、……なにしてたの?」
「いや、なにって、花びらが」
むうっと頬を膨らませたアルルゥが私に問うてくるから、声がうわずってしまう。
「ダメ」
「な、何がだ?」
「寝てる」
「あ、ああ、今日は休みだからな。起こしたりはしないよ」
「ん」
私は丸めた木簡をアルルゥに渡し、露台を去る。あの二人が仲良くしているのは微笑ましいが、少し寂しく複雑な気持ちにもなった。
まったく、春の陽気というのは、人の心を浮かれさせていけない。
穏やかで美しい風景の中に、普段見ることのない彼の安寧のひとときを見つけてしまって。
だから、私は。
***
「……アルルゥ様」
「おこした?」
「いいえ、起きていましたよ」
彼はゆっくりと起き上がり、ついた花弁を手で払った。
「おとうさん、ベナに変なことしようとした」
「変なこと、ですか?」
「ん」
「……そうですか」
彼は淡く微笑み、アルルゥの髪についている花弁も払う。淡い紅色のそれがひらひらと落ちる。
「アルルゥ様、もし聖上が……その『変なこと』を私にしていたら、どうしていましたか?」
「ダメ」
「おや、聖上でもですか」
「ん。だっておとうさん、……ベナのこと好きだもん」
アルルゥが拗ねるように、小さく呟く。彼は少し目を丸くして、そしてまた彼女に微笑む。
「……それはダメなことなのですか?」
「だって、……おとうさんだけ、ずるい」
口を尖らせるアルルゥの頬に重なる枝の影。
彼女の髪に、ベナウィの朱の服にもまた、咲き続ける花弁が静かに降り注いでいる。