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    janjack_JAJA

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    冥境滞在記(ユーダリルのニブルヘル散策)

    Canis Minor 妙に小綺麗な笑みを浮かべている、というのがその男の最初の印象だった。
     ユーダリルが彼と出会ったのは、ユーダリルの猟犬の「子どもたち」、もとい彼女の分身体の生成のためより良い「材料」を得るべく、摩天楼連なる文明都市ニブルヘルを散策していたときのことだった。


    ***


     夜も深まり始めた時間帯ではあれど、街の至るところで煌々と人工の明かりが点けられ、どぎつさも覚える強い光で照らされた街並みには暗闇らしい暗闇がなかった。街の隅々まで一片の染みもなく照らし尽くしてやろう、という意思すら感じられるほど明る過ぎる都市、というのがユーダリルの感想だった。その過剰な程の明るさ故か、遅い時間帯にも関わらず通りを歩く人は多く、皆一様に活気に満ちていた。
     ただ、道行く人々を見ても、「ヒトらしい人間」よりも、明らかに人間ではない種族の方がその数を占めている。鱗のある者、虫のような羽を生やした者、地面を引きずる程の尾を持つ者……二足歩行ですらない者もいた。それらに奇異の目を向けるでも避けるでもなく、皆それを「当たり前の光景」として受け入れているためなのか、自然に都市の中に馴染んでいるようだった。

     ユーダリルも、これまで数多くの異界を主である幽谷と共に渡り歩いてきたが、ここまで種族が混沌としていながらも互いに共生し、受容している……或いは、無関心である……場所は見た試しがない。それ故に、この街並みも、道行く人々も、ずっと観察していても飽きが来ないように思える。幽谷はニブルヘルの明るく騒々しい雰囲気を苦手としているが、ユーダリルはむしろ好意的に見ていた。
     世界の空がどうであれ、一歩外に出れば弱肉強食の荒れ果てた大地が広がっていようと、その只中で知恵を絞り生き延び、賢明に生きて笑える者というのは、犬である彼女から見ても美しいものだ。
     そう述べれば朴念仁の主は「お前は本当に犬か?」と怪訝な、呆れた目を彼女に向けることだろう。それを想像すると思わず笑みが浮かんでしまう。
     ともあれ、ユーダリルは基本的には人が好きである。なので、幽谷が仕事の関係で出入りしているこの混沌とした坩堝の都市にも興味があった。何もなければ、気の赴くまま通りを練り歩き、綺羅びやかに飾られ軒を連ねる店の前や、道行く多種多様な人々をじっくりと眺めていたかった。
     ただ、それはまた別の機会となりそうだ。


     様々な種族がいる通りの中で、見た目は完璧に人間らしいユーダリルはかえって浮いて見えるだろう。それだけではなく、彼女の波打つ長い黒髪や、切れ長で鋭い目、そしてどこか危うい色香を漂わせる、女として申し分のない扇情的な風貌は、人の目を引くのに十分過ぎる程だった。すれ違う人が時折ユーダリルを振り返り、羨望に近い眼差しを向けてくるが、見知らぬ彼女に声をかけられる勇気を持つ者はこの通りにはいないらしい。無論、ユーダリルもその視線に素知らぬフリをして軽快に歩き去っていく。
     ユーダリルの望む「材料」はここにはいない。このエリアは少々明る過ぎるのだ。故に、もう少し「それらしい」場所に足を向けてみるべきだろう。
     少しだけ顔を上げ喧騒の都市の空気を嗅いでみる。人が多ければそれだけ匂いも入り混じり、彼女の主曰く「匂いまで喧しいことこの上ない」混沌っぷりだが、鋭敏な嗅覚を持つ彼女はすぐに目当てのものを探し当てる。賑やかな通りから一歩外れた道へと入り、ビルとビルの間に走る細い路地をいくつか通り抜けていく。しばらく進んでいくと、多少開けた場所へと出た。

     視線の先には、先程の明るい表通りと比べてどこか仄暗い、怪しげな光を放つ看板が大きく掲げられている。その看板の向こうに広い通りが見えるが、通りに面した建物のそこかしこに似たような、薄暗く怪しげな看板が不気味な光を放っているのが見えた。その通りにも人はいたが、どこか足取りが覚束なかったり、男が通りすがりの女に声をかけ一言二言を話すやいなや連れ立って建物の中に入っていく。逆も然りだった。
     表の明るい通りは心地よい都市の喧騒と華やかさの中で物的な、いわゆる民衆大衆の欲望が渦を巻いていた場所だったが、ここはそれよりも更に生々しい空気に満ちている。治安が悪すぎる、というわけではなく、夜の街に相応しいディープな雰囲気は、表通りとは対象的だった。明るい場所があれば、当然暗い場所もあるものだ、ここまで発展している大都市であれば尚更のことだろう。
     この場所は、まさにユーダリルの求める「材料」──「種」に困らなさそうな裏通りの歓楽街だった。

     表通りと同じく、ヒトらしい人間よりも異種族の方が多いように思えるその通りを、ユーダリルは少し離れた場所からじっと見据える。蛍光灯が切れかかっているせいか余計に薄暗く怪しさの増す酒場や、接客と思しき店の従業員が甘く高い声で客引きをしている姿。どこか生々しい欲望を覗かせる人々の顔……これもこれで見ていて飽きないだろう。そのような場所で、ただでさえ人目を引く風貌と危うい色香を纏うユーダリルが遠くから眺めていれば、放って置く者の方が少ない。
     案の定、通りからユーダリルを見ていた男がゆっくりと彼女の側に近寄ってくる。男と目が合うと、彼女は緩やかに口元に笑みを浮かべて見せた。男は二足でこそ歩いているが、顔立ちや体付きは狼を思わせる出で立ちをしていた。獣人……より正確に言えばウェアウルフと呼ばれるような種族だろう。大柄な体付きの狼男は、目を細めてユーダリルを見下ろしてくる。その目にも、口元にも、目の前に立つ雌への下心とむさ苦しい雄の気配を滲ませていた。

    「よぉ姉ちゃん、美人だな。こんなところで一人か」

     そう声をかけられると、ユーダリルは「ええ、まぁ」と言葉少なに返す。口元に緩やかであれど、どこか甘さを滲ませる微笑を浮かべ、目を細めて見つめてくる彼女は、男からしたら極上の獲物に映るだろう。長く靭やかな脚、情欲を搔き乱すくびれた腰、そして女として……あまりに主張の強い、豊満な胸元。少し顔を寄せた男から、やや荒い息が漏れているのにユーダリルは勿論気付いている。
     「種」の提供者としても、この狼男はユーダリルにとって不足はないだろう。「匂い」からも男の持つ動物的な強さを感じられる。申し分のない相手だった。

    「ご一緒しても?」

     至極当然のように誘いの言葉をかけられ、ユーダリルは息を溢して笑いながら「僕でよろしければ」と快く返事をした。
     男は満足そうに低く笑い、ユーダリルの腰に手を添えて隣に抱き寄せてくる。近い距離感に彼女は嫌悪感も見せず、ただ静かに微笑んで見せるだけだった。そのまま怪しげな光を放つ看板の下へと吸い寄せられるように歩き、男は建物の中に彼女を連れ込もうとしかけた……。

     しかし、それは突如として阻まれてしまう。
     男が入ろうとした建物の入口、先程まで誰もいなかったはずの場所に、誰かが一人立っている。細身のように見えるが、背が高いせいか不思議と弱々しい雰囲気を感じさせない。着こなしたジャケットにスラックスを履いた出で立ちは、何かの制服のようにも見える。頭に被った制帽がその事実を裏付けていた。そして、その人物を見た途端、ユーダリルを抱き寄せていた男の顔色がさっと変わった。

    「げ、隊長」
    「ま〜た女遊びか、お前は。ええ加減にせえよ、家で娘さん待っとるやろ」
    「へぇへぇ、隊長様に言われちゃあ敵わねぇや……」

     男は、先程までの下卑た雰囲気がすっかり失せて、バツが悪そうに頭を掻いている。場の雰囲気が変わり、すっかりその「空気」が失せてしまったことに、ユーダリルは内心残念がった。ああ、これはもう無理だな、すっかり男の勢いが削がれてしまった……と。
     無論、そのようなことはおくびにも出さずに突如現れたその人物に目を向ける。制服に制帽、そして男の言っていた「隊長」という言葉。間違いなく、この人物はこの街で一定の地位のある者だ。会話から察するに、彼らは上司と部下なのだろうか。制帽を被ったその人物は、見た目は紛れもなく人間の男性だった。そのせいか、大柄な狼男が背を丸めてその男に頭を下げている光景が余計にチグハグなように見えてしまう。面白いな、とユーダリルは素直に感心してしまった。

     「俺だっていろいろ溜まってんすよ……」ともごもごと弁明をする狼男に対し、制帽の男は親しみを込めた柔らかさを声音に滲ませつつも「だったら身ぃ固めや」とすっぱりと言い切った。

    「そんな遊びやのうて、きちんとお嫁さん見つけたらええやろ。そんなんだと娘さんも心配するで」
    「はぁ……うっす……」
    「今度イイ女紹介したるから。ほら、帰った帰った」

     制帽の男に急かされ、狼男は渋々ユーダリルから手を離した。最後まで名残惜しそうに、さり気なく彼女の腰を撫でていたことを制帽の男が気付いているのかは定かではない。ユーダリルも無論出鼻をくじかれ、せっかくの良い相手だったのに……と残念に思ったが、今は目の前のこの制帽の男に関心が移っていた。
     狼男を帰らせ、制帽の男は改めてユーダリルの方に顔を向けてきた。目が合うと目を細めて涼しげに笑い、制帽の鍔を軽く持ち上げて挨拶をしてきた。

    「こんばんは、お姉さん」

     当たり障りのない、なんてことのない言葉だが、ユーダリルは即座に「警戒されている」ことを察知した。妙に綺麗な笑顔に、愛想のいい表情を浮かべているが、少し開いた金色の目は鋭い光を持っている。顔には出さないが、ユーダリルは内心で溜息を溢してしまった。

    「こんばんは」
    「こんなとこでどないしたん?お姉さん、ここの人ちゃうやろ」
    「ええ」
    「……この国は自由やし、あんたみたいな余所者にも寛容やけどなぁ。あくまで、"ルールの範疇で"、遊ぶならええんよ。 ……お姉さん、ちょっとそういうのとはちゃうやろ」

     あいつらも大概やけどな〜と呑気そうな声で溢しているが、要するに彼はユーダリルに「ここに来た目的はなんだ」と問い詰めているのがはっきりと伝わってくる。男の出で立ちに「隊長」という言葉、そして今ユーダリルの置かれているこの状況……男が、街の治安維持の職についていることはすぐに分かった。つまりは、ユーダリルは今不審者として扱われ職務質問を受けている。

     ああ、これは困った、とユーダリルは眉間を押さえそうになる。これほどの規模の都市で、表通りの喧騒や治安の悪すぎない裏通りの様子を見れば、そういった組織があるのも当然だろう。治安維持がしっかりと整備されているからこその、この繁栄なのだ。常日頃から弱肉強食の野生の世界に身を置いているため、そのことを失念していた。
     しかし、男の様子を見るに、今しがたユーダリルに目を付けたのではなく、ここに現れるよりも前に彼女の存在がマークされていたようにも感じられる。一体いつから付けられていたのか?彼女に気付かれることなく追跡されていたのであれば、目の前に立つ男は只者ではないのだろう。
     ……ああ、困ったなぁ。別に悪さをするつもりでも何でもなかったんだが。もう少し頭の弱いフリでもして気楽な観光者を装えば良かったか……

     顔には出さず、その腹の中で目まぐるしくユーダリルは感情と思考を行き来させている。特別焦っているわけではないが、疑われるのは良くない。自分が下手をすれば、この街で活動をしている己の主人にも影響が出るのだ。荒野の人喰い狩りを単騎でこなす幽谷は、その実績故かニブルヘルでそれなりの信用を得たばかりだ。人間的な文明社会において、「得た信用を失う」ことは生きにくさにも繋がることをユーダリルは理解している。幽谷の活動のためにも、ここはどうにかして切り抜けるしかない。

    「観光ですよ。初めて来たので、物珍しさにいろいろと見て歩いて回っておりました。まぁ、そのせいか道を外れてしまい、ここに着いてしまったのですが」

     男の疑る視線に息を溢して笑いかける。嘘は言っていないが、事実ではない、彼女は最初からここを目的として歩いてきたのだ。もし本当に付けられていたのなら、淀みなく答えるユーダリルの言葉に違和感を覚えても無理はない。
     案の定、男は目を細めて「観光ねぇ……」と呟いている。ちらりとユーダリルの方に視線を寄越して、少し困ったように笑って見せた。

    「迷子っちゅうことか? せやけどなぁ、こんなとこに来んでももっと楽しい場所は他にあるやろ?」

     至極最もな言葉だが、ユーダリルはくすりと笑い、少し小首を傾げながら制帽の男を見返す。

    「多少の刺激も欲しかったものですから」
    「あ、そういう? けどなぁ、あかんよそういうのは。うちの大将はここを観光街にしたい〜言うて開発計画立てとるけど、ホラ、見た通りちょっと年齢高めの場所やんか、ここ」
    「そのようですね」
    「特別危ないわけちゃうけど、犯罪に巻き込まれるかも知れんやろ。まぁ、そんな大層なモンをぶら下げて歩いたらそりゃあ……」

     そこまで言いかけて、「おっと」と口を押さえて目を弓なりにして笑っている。「失礼、今のは聞き流してな」とどこかわざとらしく、ヘラヘラと述べている。
     ……どうやら、この男は結構なお喋り好きらしい。職務質問にしては雰囲気が軽すぎるように思う。警戒を解くためなのか、腹の中を見せないようにそのように振る舞っているのかは分からないが、少なくとも、口を押さえたときに少し俯き、制帽の鍔の影からユーダリルをじっと見据えていたのを見逃さなかった。

     それに素知らぬフリをしつつ、何のことでしょう?と問い掛けると、流石に先程の発言にバツが悪いと思ったのか、少し目を泳がせて指で頬を掻いている。妙に愛想のいい小綺麗な顔が、ほんの少しばかり崩れ、どこか居た堪れないようだった。それにはユーダリルも目を丸くしてしまう。そんな表情もするのか、と。

    「あー……いやいや何でも。聞き流してくれてええんよ。そんで、お姉さん迷子みたいやし、僕が大通りまで送っていったるわ」

     付いてきて〜とユーダリルに背を向けると、迷いのない足取りで歩き始めた。早足でもなく、遅くもなく、女性であるユーダリルを引き離さない程度の歩幅と速度で歩くのは、彼なりの気遣いなのだろう。ユーダリルは、一瞬その後ろ姿にじっと視線を向けたが、言われるままに彼の背中を追いかけることにした。
     程よく適度な距離感を保ちながら制帽の男の後に付いていくユーダリル……だが、男は明らかに細く暗い道の方へと進んでいっている。ここ近道なんや〜と言ってはいるが、見るからに怪しい。そして同時に、ほんの微かにユーダリルは空気の揺れを感じた。自分とこの男以外には周囲に誰もいないが、確かに何かがいる気配を感じ取った。気配はすぐさま消えてしまうが、ユーダリルは気付かれないようにチラと路地に連なる建物の上方に目だけを向けた。
     上にいる。
     これにまた内心溜息が出てしまう。想像していたよりも、自分は「彼ら」に警戒されているらしい。それなら、この路地裏に連れてきたのも、万が一逃げ出さないようにするためだろう。
     ユーダリルはそう解釈したため、やはり大人しく従う方が賢明か、と改めて制帽の男に付いていく。その男が内心で、本当に彼女に対する下心があったのかどうかは分からないが。


    「お姉さん刺激が欲しいとか言うてたけどなぁ、でもな、自分の体は大事にした方がええよ、ほんと。まぁ僕が言うのもなんなんですけども」

     ただ黙々と歩くのでは流石に気まずい……もしくは、単に喋りたいだけなのか、ユーダリルの前を歩きながら首だけで振り向いて話しかけてくる。無論、彼女自身は話すこと自体嫌いではない。そして、一歩間違えば挟み撃ちにされかねないこの状況でも、この抜け目のない男に対する関心は、先程より大きくなっていた。その図太さは、ユーダリルの良い所でもある。彼の言葉に息を溢して笑い、緩やかに目を細めていた。

    「見知らぬ者にもお優しいのですね」
    「そりゃ僕らの街でお客さんに何かあったら大変ですから。お姉さん美人やし、心配にもなりますよ?」
    「ふふ、責任感の強い方ですね。それ程真面目でしたら、引く手もありましょうに」
    「いやいや、嬉しいこと言ってくれますけど何も出ぇへんよ? まぁ今の僕、フリーやけど」

     肩をすくめてそう戯けて見せる男に、ユーダリルは思わず吹き出してしまった。今まで微笑を浮かべていただけの彼女が、肩を震わせてクツクツと笑う姿に驚いたのか、男は立ち止まって半身を向けてくる。「えっ、僕なんかおかしなこと言うた?」と戸惑っているようだった。
     かくいうユーダリルは、笑う口元に指を添えながらおかしそうに目を細めていた。狼男に甘やかな目を向けていたときとは打って変わって、楽しそうな空気を醸し出している。ユーダリルの雰囲気が俄に変わったのが男にも伝わったのか、呆気に取られたように立ち尽くしている。

     そのせいか、彼の反応が多少遅れた。

    「いえいえ……何故だかおかしくて、つい。ふふ、貴方は面白い方ですね」

     クツクツと笑いながら、ユーダリルはゆっくりと歩を進めてくる。音もなく、波打つ黒髪を揺らし、男の方へと近付いてくる。
     男はハッと我に返ると慌てて腰の辺りで何かをいじり、彼らのいる路地裏上方でも微かに気配が揺らいだ。ユーダリルはそう感じていたが、それらに気を配るつもりはなかった。もとい、もはや気にしていなかった。

     男の前にユーダリルが立つ。見た目以上に存在感のあるように感じる彼女に、何かを察したらしい男の顔が少し引き攣った。
     暗い路地裏に、緊張が走る。
     ユーダリルはすうっと腕を伸ばすと、男の頭に……彼の被っている制帽に手を掛けた。そしてあっさりとそれを取り払うと、もう片方の手が男の顔へと向かい──


     男の頭を撫でた。


    「…………えっ」

     最初に声を上げたのは、男の方だった。
     一瞬固まり、状況を理解したときには目を丸くして、自分よりも背の低いユーダリルをぽかんと見下ろしている。今自分は何をされているんだ?という感情が顔いっぱいに広がっていた。ただ、反射なのか、何故か少し屈んで彼女が撫でやすいような態勢になっている。それを見て、ユーダリルは柔らかく息を溢し、また笑った。

    「ふ、はっはは。そんなに僕に誘いをかけずとも。おいたはいけませんよ、子犬さん」

     男の目がまた見開かれた。何かを言いかけた口が僅かに開いたが、そこから何も言葉は出てこなかった。彼の濃い、琥珀のような金色の目に一瞬何かが浮かんだようにも見えたが、それが何なのか判別がつかないほど小さな揺らぎだった。
     言いかけた言葉を呑み込み、固まりかけた男だったが、次には大きく息を吐いて脱力した。張り詰めていた空気が、穏やかに解けていくようだった。

    「……いや、あの、おねーさん?もしもし?」
    「……ん、はい。 ……おや?」

     目元を柔らかく緩ませ、男のことを撫でていたユーダリルは、呼ばれてはたと我に返った。困惑しかない男の表情に、彼の頭に伸ばされている自分の手。男が屈んでいるせいか、ユーダリルの目線の高さに男の琥珀色の目があった。もしこの一場面を誰かが見ていたのなら、あまりに突拍子もないチグハグな光景に二度見してしまっていたかもしれない。
     暫くそのままでいたユーダリルだったが、するりと男の頭から手を下ろした。そして、彼女自身も困惑したように眉を下げ、首を傾げていた。

    「おやおや……これは失礼しました。初対面の方にお恥ずかしい」
    「いやぁ……僕は別にええけど……? いやいや、おねーさん、それはビビるってホンマ。近寄られたとき、僕の失言に怒ってビンタされるかと思いましたわ」
    「いえ、怒りは毛頭ありませんが……何でしょう、子犬と思ったら、つい手が」
    「えぇ〜……? 子犬はあんまりちゃう? 僕そこそこタッパありますよ?」

     そんなんズルいわ〜実家に帰りたくなる……とどこか冗談めいてぼやいていたが、ユーダリルに撫でられた部分を落ち着かなさげに自分で触っている。彼自身、そのような体験が久しいのか、経験があまりなかったのだろう。その姿にユーダリルはまた不覚にも吹き出してしまう。妙に小綺麗な笑顔の……道化のような顔をしていた男が、表情を崩す姿が、どうにもおかしく思えてしまう。そのせいか、彼への警戒心が薄くなったらしい。
     上方で揺らいでいた気配も消えた。一触触発の空気に満ちていた路地裏からは、緊張感がどこかへと通り過ぎてしまったようだ。

     妙に小綺麗な笑みを浮かべていたその男は、ユーダリルの中で口のよく回る愛らしい子犬のような人という認識に置き換えられた。


    ***


     男もユーダリルへの警戒心が弱くなった……もとい、彼女の突拍子もない行動にすっかり毒気を抜かれたのか、その後は妙な緊張感も持たず二人で路地を抜けた。男の言ったとおり本当に近道だったらしく、少し歩けばすぐに表通りへと出ることができた。

    「狭いとこ歩かせてごめんな〜歩きにくかったやろ?」
    「いいえ、お気遣い感謝致します。ええっと……」

     感謝の言葉を伝えて、そこで思わず言い淀んでしまった。最初こそ緊迫していたとはいえ、随分と気軽に話していたが、男の名前をユーダリルは知らなかった。それに気付いたのか、男は人懐っこく目を細めて笑って見せた。

    「僕、プロキオンって言うんや。この街で警察〜みたいなことしとる。もし、ニブルヘルに出入りしとるんなら、また会うと思うで」
    「そうですか。ここまで丁寧にありがとうございます、プロキオン」
    「ええってええって。何かあれば頼ってな。あ、イイ男紹介して〜ってのはナシでな?」

     戯けるように肩をすくめて飄々と振る舞う男……プロキオンに、ユーダリルもまた笑みがこぼれた。「イイ男なら僕がいる、とか言いそうなタイプだなぁ」と内心考えていたが、敢えて口に出すことはしなかった。
     ふと、手に彼の制帽を持ったままであることに気付き、それを彼に被せ直した。話に夢中ですっかり忘れてしまっていたらしい。

    「僕はユーダリルと申します。仕事の都合で、近くに滞在しておりますので、機会があればまたお会いしましょう」

     最初に見せていた危うげな色香と艶やかな笑みはすっかり鳴りを潜め、目元を緩めて笑みを見せたユーダリルの挙動を、プロキオンは見ていた。しかし、その目に彼女に出会ったときの鋭さは失せている。
     「じゃあな〜また迷子にならんようにな〜」と緩く手を振ってユーダリルを送り出した。ユーダリルも、片手で振り返してそれに応じた。

    「お仕事、頑張ってくださいね」

     社交辞令そのものの言葉だが、ユーダリルのその表情も声音も、どことなく「良いものに出会えた」と機嫌が良い、穏やかなものだった。

     ユーダリルに子犬と呼ばれたプロキオンが彼女の背中を見送る中、波打つ黒髪を緩やかに揺らしながら歩くユーダリルの姿は、ニブルヘルの雑踏の中へと消えていった。


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