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    janjack_JAJA

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    廃都市閑話(帝国の蛇蝎兄弟の小休止)

    斜陽の凪にて 苛立だしげな雰囲気を隠しもしない、神経質な足音が響く。

     帝国テュポーンの軍師であるアルナスルは、帝国の中枢である宮殿の回廊をやや足早に歩いていた。書庫で軍備の配置立案と帝国植民地にて施行する新たな律令案を組み、一人で没頭していたところ、慌てた様子の人間の軍人と部下に突然呼び出されたのだった。彼らの要件は厩舎で暴れ出した帝国の軍馬を鎮めてほしいと、些細な、極めてつまらない事柄だったが、帝国で使役する馬はただの馬ではなく改造を施された生体兵器であるため、暴れ出すと並の者では手が付けられない程凶暴であった。それらを宥められるのは厩舎の管理を行う調教師の一団か、星墜射手の称号と「星馬」の因子を持つアルナなど、限られた者にしかできなかった。なお、その肝心の調教師数人は、馬に頭を噛み砕かれて死んだらしい。
     今はその暴れ馬を宥め終わり書庫へと戻る途中だったのだが、一人でいる希少な時間を些末な案件によって妨害され、隠しもせずに苛立ちを見せていた。基本的に誰かに自分の時間を邪魔されるのを心底毛嫌うのである。今の彼を呼び止めれば氷よりも冷たい目で見下されるに違いなかったが、苛立ちを見せながらも、軍馬の改良を如何様にするか、思考中枢や脳の統制機関をさらに調整するよう開発部に指示を出し……など、内心では目まぐるしく思考をしていた。

     あれこれと考えながら歩を進めていたアルナだが、ふと気配を感じて回廊の外側へと目を遣る。人気のない回廊の外側には、斜陽の朱に染まった宮殿の中庭……池を中心として構築された広い庭園が造られている。傲岸強欲な皇帝の趣味にしては大人しい、妙に小洒落た空間ではあったが、そこに踏み入れるのはごく限られた者に留まっていた。波紋を描くように整備された石畳に、池にかかる幾重にも曲がった石製の橋、庭園の中央付近にある亭の小島には、剪定され整えられた観賞用の竹林が植えられている。その亭の軒下にアルナにとって見慣れた人物がいた。
     髪の毛の途中までしか色素がなく、根本から色が抜け落ちたような白と赤紫色の髪を、長い三編みにして下に垂らしている。幾分小柄で細身の体躯は少年とも、青年とも言い難い華奢な体付き。だが、その細身の体に凄まじい程のエネルギーと、他者を圧倒する武力を備えていることをアルナは知っている。帝国が誇る生体兵器軍の将軍を務める「天蠍」──アルナの同型機であるアンタレスがいた。
     同型機と言うものの、アンタレスとアルナスルは顔立ちや見た目の型が似ているわけではない。二人が製造された際に、共通の星の核が使用されたが故に同型機の扱いを受けているに過ぎない。先に製造されたのがアンタレスで、アルナスルはそのアンタレスの残りの材料を体に埋め込まれて作られた。そのため、アンタレスを「兄」、アルナスルを「弟」とした同型機の括りに収められていた。実際、彼らも自分たちのことを「心臓」……星の核を共有した兄弟であると認識している。

     そんなアルナにとっての唯一の肉親とも言える兄が、亭に備えられた腰掛けに気怠く座り、欄干に肘を突いて凭れていた。射手として高い視力を持つアルナは、遠目から兄を見て、その人形のような顔立ちに疲労が色濃く浮かんでいることにすぐさま気付いた。長い睫毛を伏せて俯き、疲れてそこで寝てしまっているようにも見えた。無防備で、遠目から見てもはっきりと分かる疲労を滲ませる兄の姿に、アルナは眉間にしわを寄せ口の端を曲げた。ここ暫く軍は進軍しておらず、将軍であるアンタレスも出陣していない。それにも関わらずあれ程疲労を見せているということは、大方意地の悪い高官共やレスのことを理解しない無遠慮な軍の部下たちに絡まれたのだろう。兄は対人が得意な部類ではない。もとい、他人に対しての興味が毛ほどもない。受動的で、自分から他人に関わることも滅多にないのだが、本人の持つ呪いのような被虐体質で当人が望まずとも他人に害をもたらされる。或いは、人間以外の者に必要以上に構われる。対人を好まないレスにとっては、それだけでも相当なストレスになるのは考えずとも知れていた。本人は「それが役割だから」と受け入れ、口ではそう言ってはいるものの、時折人前に出るのを億劫そうにして僅かに顔を曇らせているのを、アルナは知っていた。

     深く溜息をこぼす。そんなところで寝ているな、と声を掛けてやりたかったが、入れる者の限られる庭園に一人でああして居るということは、束の間でも一人で居たいのだろう。ほんの少し、兄の傍に近寄りたいという気持ちが芽生えたが、芽生えかけたものをそっと埋めて戻しておいた。先程までの苛立ちを落ち着かせ、足音も忍ばせそこを立ち去りかけたアルナだが、しかし、その背に覚束なさげな声が掛けられた。

    「……アルナ?」

     思わずビクリと肩を跳ねさせた。聞き覚えのある声だった。
     恐る恐る振り返ると、案の定と言うべきか……欄干に凭れ俯いていた兄の顔が、アルナの方を向いていた。白い睫毛に縁取られた、ぼんやりとした目。生気のない作り物のような相貌は、人間からしてみれば何とも不気味に映るのだろう。アルナは別段そうは思わないが、別の意味で心臓が跳ねかけた。まさか、目覚めて声を掛けられるとは思ってもいなかったのだ。
     そのまままた眠りに入るのかと思いきや、ゆったりと腰掛けから立ち上がり欄干に掴まりながら、亭から出ようとしかけたのには流石にアルナも目を丸くした。寝起き故か足元も覚束なく、今にもふらっとバランスを崩して池に落ちてしまいそうで、非常に危なっかしい。思わずアルナは踵を返し声を上げた。

    「レス、そこから動くな。俺が行くからそこで待っていろ」

     弟からの言葉に少し首を傾げたレスだが、言われた通りその場から動かず、欄干に手を置いたまま立ち尽くしていた。
     幾重にも曲がる橋を渡り、アルナは兄の元へと歩み寄る。埋めたはずの気持ちがまた掘り起こされてしまい、内心で動揺をしていた。勿論、顔に出さないよう極力努めたが、無意識に冷たく鋭い目元が緩んでしまう。自分よりも背の高い弟を見上げるレスは、いつもと同じ薄い微笑みを口元に浮かべていたが、やはりどこか疲労の色が見える。笑みが少しばかり崩れているのがその証拠だった。アルナは改めて兄の顔色を見やり溜息を吐いた。

    「お前、なぜそんなところで寝ている。そこは寝る場所ではないだろう」
    「あー……うん。ちょっと、疲れてしまって」
    「まったく、猫ではあるまいし」

     寝るのならせめて自室まで戻れとつい兄に対する小言が出てしまう。しかし、このぼんやりとした兄が何かを言われて話をきちんと聞く性分ではないのは、アルナが一番よく知っていた。戦場においては何よりも苛烈にその武力と爆発力を奮う猛将だが、それ以外はてんで駄目だった。己の兵器としての力が必要なときと、そうでないときの差が激しすぎるのである。端的に言えば、戦闘面に重きを置きすぎているため、それ以外の基礎的な能力が皆無に等しい。
     呆れたように眉間を指で揉んでしまうアルナだが、見上げてくる兄に視線をやり、苦い表情を浮かべる。同型機でありながら、アンタレスとアルナスルの扱いは天と地ほどの差がある。兵器として苛烈な性能を持ちながら、そこに居るだけの物言わぬ人形のように扱われるレスと、同じく兵器としての性能は高いが多くの公務に携わるアルナ。彼の傲慢な皇帝がそうあれと作ったために仕方がないことではあると半ば諦めているが、同型機として、兄アンタレスへの扱いには憤慨していた。
     そんな弟の心境をレスは知りもしないが、不意に腕を伸ばし、手の甲でアルナの胸の辺りをそっと撫でた。どきりと己の心臓が跳ねる。

    「……また急に、なんだ」
    「うん?うーん……なんだろうね、アルナの『心臓』の辺りを触ると、落ち着くというか」

     同じ「心臓」を持っているからかなぁ、とどこか上の空にそんなことをこぼしていた。
     レスはたまにこうして、何の前触れもなく弟の胸……「心臓」の辺りに触れることがある。どうやら本人なりの意思表示の一種らしいが、いつも唐突に行うためやられる側は気が気でない。いつになっても何を考えてるのかはっきりとしない、レスのこの謎の行動に慣れることはないが、それに対して抱くのは嫌悪や不快ではなく、妙な安心感とこそばゆい感覚だった。同時に、この行動は弟であるアルナにしか行わないことも知っている。ある意味、特別な行動であるのだと解釈しているため、言い知れぬ優越感を抱いている……というのが、アルナの本音だった。無論、それを口に出すことも顔に出すこともしないが。
     なんとなしに咳払いをして己の心の内を誤魔化そうとした。ただ、兄に不思議そうな目で見返されはしたのだが。

    「疲労があるなら、自室に戻れ。送っていくか?」
    「うーん……そうだねぇ」
    「欠片も戻る気がないなお前」

     その気がまるでないレスに上からじろりと目を向けてやれば、いつもの薄い微笑みに僅かばかりの困惑を滲ませていた。ぽつりと一言だけ「……動くのが、億劫で」
     どうやら、思っていたよりも疲労があったらしい。もうここから動きたくないと、思考することすら投げやりになっているようだった。兄の言葉に、また弟は苦い表情を浮かべてしまった。一瞬、ここまで兄を疲弊させた連中を一人ひとり潰して回ってやろうか、と冷たく暗い考えが過る。勿論、そう考えるだけで己の立場上そのようなことをすれば、即座に地位を剥奪され処刑ものである。実行に移すことはないが、しかしいずれ何らかの形で処してやろう……と、考える程度には、アルナは冷酷な心の持ち主であった。
     また一つ、アルナは溜息をこぼす。目の前にいる兄は、駄々を捏ねる子供のようにしか見えない。無理やり抱えて連れて行くこともできるが、動きたくないという彼の意思を尊重することにした。

    「……体を貸してやろうか、レス」

     アルナは、兄に対してそう申し出た。唐突な言葉に、どこか目を泳がせていたレスは弟の方を見上げ、キョトン、と目を瞬かせた。どういうこと?と首を傾げている。ふん、と短く鼻を鳴らした。

    「椅子の上で寝るよりはマシだ、という話だ。余計に疲労が溜まる一方だろう。……枕になってやると言った」

     ここだと硬い、こちらに来い、と兄の手を掴み歩き出す。言われるがまま弟の後ろについてくるレスの姿は、さながら幼子のようだった。アンタレスが兄ということにはなっているが、二人の言動を見るだけでは、むしろ兄弟の立ち位置が逆ではないかとすら思えてくる。レスは手を引かれながら、その弟の背中を感情の読めない目でじっと見つめていた。
     亭の軒下から出てすぐ側に植えられた竹林までレスを連れてきたアルナは、庭園の外からは覗きにくい場所まで移動し、兄の方を振り返る。
     小柄な兄を見下ろしていたアルナだが、ガクン、と体が揺れた。元々それなりの身長があるアルナの目線がより高くなる。アルナの着ている長袍の裾から、すらりと長い……二足で歩くヒトのものではない脚が覗いた。黒い蹄に、うっすらと青い色彩を反射する黒い脚。それだけではなく、背後へと伸びる動物の胴体。後ろ脚も同様に二本の長い脚の先に蹄があった。アルナの下半身が、艶やかに光を反射する青毛の馬の体へと変貌した。
     アルナスルは所謂、半人半馬の異形の姿がその正体である。「星馬」の因子を持つため、アルナは元々そのような形で製造され生まれた兵器だった。帝国内ではヒトの脚で歩いているが、戦場などではこうして本来の姿に戻ることがある。ただ、下半身は馬であるが、馬と違う点は、普通は長い毛に覆われる尾に当たる部分に、甲殻に覆われた長い蠍の尻尾があることだろう。これはアンタレスが持つ「天蠍」の因子の一部をアルナスルも持っているため、それに影響された形だった。

     蹄のある四本の脚で軽く地面を踏み均し、適当な場所で足を折り曲げアルナは座り込む。竹から自然に落ちた笹と地面から生えた短い草があるため、石の床よりは幾らか柔らかくはある。馬の胴体は地面に伏し、アルナの上半身はそのままの姿勢。レスは半人半馬故のアルナのこの座り方を何度か見たことがあるが、自分よりも少しだけ目線の低くなった弟の顔をじっと見やる。アルナは立ち尽くすだけの兄に顔を顰め、「俺の気が変わる前にさっさとしろ」とややぶっきらぼうに吐き捨てた。
     レスはゆっくりと膝を曲げ地面に膝を突く形で座った。斜陽の朱に染まった庭園の中で、微かに青を反射するアルナの黒い馬の体は、対象的な色合いに映るのだろう。それをアンタレスがどう感じていたのかは、その人形の相貌からは判断し難いものではあるが。掌でゆったりと毛並みを撫で、少しだけ睫毛を伏せると、ぽすり、と躊躇いなく上半身を青毛の体に倒した。暫くそのまま動かず、少ししてから態勢を崩して足を草地に投げ出す。頭を馬の体に乗せ、体を預け、脱力した。兄の薄い微笑みが少し崩れ、やや表情が失せているのを弟は見下ろしていた。目を伏せているためか、より人形らしさが増している兄の顔立ち。自分とは似ても似つかないものであり、皇帝が「寵愛」して止まないその顔。死んだ妃を模したという、顔。
     ……だから、どうしたという話ではある。アルナにとっては、アンタレスは唯一の肉親であり、どれだけ顔貌が違かろうと、彼はたった一人の兄である事実は、変わらないのだから。ただ、皇帝がそんな兄を「妃の人形」として扱うことに、心の奥底で仄暗い感情が燻った。

    「……アルナのこの体は、きちんと温かいね」

     不意にレスがそうこぼした。一瞬暗い目になっていたアルナは我に返り、はたと目を瞬かせる。数拍遅れてその言葉の意味がようやく頭に入り、また心臓が妙な脈を打って跳ねた。動揺を言葉や顔に出すことはないが、出さないように努めた結果眉間にしわが寄った。何も言わずにいるアルナのことをレスは気にしていないらしい。ほんの僅かに身動いでいた。

    「……デコイの僕の体とは、違う。ちゃんと生きているって……こういう、体温のある体のことを言うんだろうね」

     ぽつりぽつりと紡がれる何の気なしのレスの言葉。ほとんど抑揚がなく、感情の機微もあまり感じられない声音から、本人の考えを読み取ることは難しかった。しかし、アルナはその言葉に、奥歯を噛む。アンタレスのデコイの肉体は、その胸に収められたコアを運ぶための、そして、周囲の歪んだ感情を受け入れ、虐げられるだけの冷たい体。伽藍堂の、人形なのだと。
     ……違う、そうではない。

    「お前はお前だ、レス」

     お前はただ唯一の……と、言いかけたところでふと、兄の顔を見た。伏せられた目はいつの間にか完全に瞼が落ちており、生きているのかどうか疑ってしまいたくなるような、浅すぎるうたた寝の寝息が漏れている。喋りながら眠りに意識が呑まれてしまったらしい。
     開いていた口と出かけた言葉が行き場を失い、数瞬彷徨った後に、そっと口を閉ざし言葉を呑み込んだ。次に口を開いたときには、深い溜息がこぼれ出た。
     珍しく何か言ったと思えばすぐにこれだ。マイペースで、全くもって人の話を聞こうとしない。もとい、人に言葉を言わせる余地を与えず、即座に自分の世界へと入る。前々からそのような気質ではあったが、その勝手気ままな様子はいよいよもって猫と形容しても差し支えないものとなってきた。
     己の眉間を揉みまた溜息を吐きたくなるが、体を預け脱力し、緩やかに微睡む兄の顔を見て、それも呑み込んだ。青毛の胴体にかかる重みに目元が緩む。膨大で、禍々しい、巨星のエネルギーをその身に宿していようと、兄の重さは紛れもなく「一人のヒト」と同じものだ。伽藍堂の人形でも妃の映し身でもない、アンタレス一人の重み。それが今、無防備に脱力し自分に身を預けられている事実に、心の奥底が震えかける。温かい、と言われたことに、言い知れぬ優越を覚えた。このままずっと、この庭園でこの時間が続けばいい……などと、稚拙な考えが過る。あまりに稚拙過ぎて、思わず声に出さずに苦笑いが出てしまったが。
     しかし、兄と共に居たい、誰にもこの時間を邪魔されたくないという気持ちは、アルナの心からの願いであった。

     暫くの間、なんの言葉も発さず、何をするわけでもなく、眠る兄と共にそこに座する。胸の奥底の辺りがこそばゆくなっていたが、それ以上に満ちていた。手で触れることはしない、微睡む兄に何か声をかけもしない。ただ、そこでじっと動かずにいた。二人だけのこの場所には、穏やかな静寂だけがある。人工的に造られ整えられた池の水がさらさらと流れる音。人の手で植えられ育てられた竹の葉がさやさやと揺れる音。この空間にあるすべてが人工物で、自然のものは一つとしてない。アンタレスも、自分もそうだ。それでも、造られた狭い箱庭の中であろうとも、今この瞬間には、誰にも邪魔されることのない細やかな安寧があった。

     ただ、すべてを呑み込む貪欲な嵐が支配するこの宮中で、凪いだように穏やかな晴れ間は、そう長くは続かない。雲の切れ間に僅かに覗いた日差しがまた雲に覆われるように、ほんの瞬き程の猶予しか与えられないものだ。
     庭園の外側で複数人の足音と衣擦れの音が響く。足を忍ばせる気配もなく、無遠慮極まりないそれらに束の間の静寂は破られた。アルナの緩んでいた目元が強張り、眉間に深いしわが刻まれる。物音に気付いたのか、微睡んでいたレスも身動ぎ目を薄く開いたようだった。

    「アンタレス様。そこにいらっしゃるのは存じております。陛下がお呼びです……疾く参上なさいませ」

     無機質で抑揚のない女の声が竹の囲いの向こうから聞こえてくる。その可愛げのない冷ややかな声が、アンタレスに仕える女官のものであるのは顔を見ずとも分かった。兄に「人形」という立場を強いる者の筆頭であることも、アルナは知っていた。
     失せろ下女が、と思わず口をついて出かけるが、それよりも早くレスが上半身を起こした。弟の顔をつと見やった彼の顔には、先程までの緩やかで、穏やかな色は失せ、いつもの薄い微笑みが戻っていた。もうそこには感情の一欠片も浮かんではいなかった。

    「……いけないなぁ、休み過ぎてしまったかな」

     独りごちるレスはゆっくりと立ち上がり、手で膝を払う。その手を掴み、自分の方へ引き寄せたくなる衝動に駆られる……が、それは無意味なことであることを、頭の片隅で理解していた。「皇帝陛下のお呼び」という言葉で呼びかけられた以上、何をしても、レスを止めることはできない。止めさせることはできない。アンタレスにとっての最優先事項は、そのたった一人に絞られているのだから。
     奥歯を強く噛み、レスに釣られるように無言のまま重い腰を上げたアルナの脚は、既に青毛の馬のものではなくなっていた。長袍の裾から二本のヒトの脚が覗いている。瞬きの間に二足の姿に戻った弟に対して、レスは何かを言うことも、表情を変えることもなかった。自分に対して世話を焼いてくれたことにも、何も言わなかった。ただ一言、「それじゃあね、アルナ」となんの感慨もなさそうな、無機質な挨拶が口から出ただけ。もうアンタレスの乾いた目に弟の姿は映っていない。

     レス、とアルナはその背に呼び掛けた。レスは弟からの呼びかけにもさして反応を示さなかった。振り返らず、迷いなく、命じられるままに歩いていく姿は、いつも通りの「人形」そのもの。アルナも、穏やかな時間の別れ際に、別に何か言葉をかけたかったわけではない。ただ、意識せずに言葉がこぼれ落ちた。それを拾ってくれる者は、この場に誰も居やしなかったが。
     アンタレスを呼び寄せた女官が彼を恭しく迎い入れた後に、冷たく、厭らしく、嘲る視線を、竹の目隠しの向こうからアルナへと向けてくる気配を、ぼんやりと感じていた。「軍師殿は、公務に戻りなさいませ」と、そっけなく告げられた。

     複数人の気配に囲まれ、自分と同じ星を持つ兄の気配が遠ざかって行く。去り際まで兄が弟のことを振り返ることはなかった。
     アルナは暫しその場に立ち尽くし、先程まで二人で座り込んでいた地面に視線を落としていた。穏やかな人工の箱庭が、すっかり冷え切った背景と変わった。もう此処には誰もいない、ただの空っぽの空間だった。再び歩き出した軍師の足音は神経質で、重々しく、空虚な音を回廊に響かせていた。
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