風邪ウィ(前編) ふと書類から顔を上げると、見慣れた探偵社のオフィスがくらりと歪んだ。
まずいな、と思う。
朝からあったぼんやりとした違和感はいつしか明確な頭痛に変わり、こめかみから目の奥にかけてずきずきと不調を訴える。いやに渇く喉も、捉えようによっては痛みともとれた。
同じ部屋にいる面々を見回しても、この晴れた日に三つ揃いを着込んでいる者は他にいない。その上で不自然に寒いのだから、これはもう言い訳のしようがないだろう。
まごうことなく、風邪である。
自覚すると、途端に体が重くなるのはどうしてか。細く息を吐いてから、慎重に腰を浮かす。
「ごめんビリー君。もしシャーリーが来たら、仮眠室にいると伝えてくれるかな」
簡単にデスクを片付けて、今いる中で一番馴染みの相手に伝言を頼む。当のシャーリーは調査に出ているので、そのうち帰ってくるはずだ。
「いいよー。ウィリアム君、今日も頑張って貰っちゃったしさ。あの結果まとめるの大変だったでしょ。あ、もしかして徹夜とかさせちゃった?」
「……まあ、そんなところかな。ちょっとあの部屋を借りるね」
「ん、ごゆっくりー」
ビリー君が、ひらひらと手を振って見送ってくれる。
デスクと椅子のすき間を抜けて廊下に出れば、なくなった人目の分だけ肩の荷が下りたような気がした。知らず知らずのうちに、気を張っていたらしい。
深呼吸とも、ため息ともつかないものをひとつ落とす。
もともと、今日はほんの少し顔を出して終わりの予定だったのだ。頼まれていた分析結果をまとめた書類を出して、あとは帰るだけ。だからこそ、今朝はまだ些細だった違和感を無視して出社したわけだし。
しかし、予定とは狂いやすいもの。大小様々に持ち込まれる細かな相談事に対応しているうちに、昼の鐘はおろか、今や窓から西日が差し込む時間帯である。
足もとは革靴と板張りの床であるはずなのに、ぬかるみを踏み抜くような奇妙な浮遊感が気持ち悪い。
「……帰るのは、厳しそうだ」
独り、零す。
さすがにこの体調で、歩いて帰る気にはなれなかった。仮眠室に向かう選択をして正解だったなと、まだ残っていた判断力を自分で褒める。外で行き倒れるのは、さすがに避けたいので。
ふらり、ふらりと前に進む。鈍った頭のなかで、方向感覚すらも曖昧だった。
西日の強さに目を焼かれながら、廊下を進む。仮眠室は何度か使ったことがあるけれど、それは大概誰かの手によって運び込まれた時だ。こうして自分の足で向かうことはあまりなかったなと、どうでもいいことを思った。
木の扉すら重く感じながら開けて、その中へと身を滑らせる。カーテンが閉まったままの部屋は薄暗かったけれど、明かりもつけずにベッドに直行した。
寝心地がよくないと皆からは評判のマットレスに、ぼすんと身を転がす。シーツの冷たさに身を縮めながら、端に畳まれた毛布を手繰り寄せた。この季節に使うには少々厚手かもしれないが、それが今はありがたい。
もぞりもぞりと姿勢を整えて、ひと息。
姿勢が変わったせいで頭痛は絶え間なく責め立ててくるし、横になっても奇妙な浮遊感は変わらない。飲み水を貰ってくれば良かったと後悔したけれど、今更立ち上がる気力なんてありもしなかった。
小さく小さく、毛布の中で縮こまる。
早く、眠ってしまいたかった。