ルイとヘル。といといとい、の話。 獣さえも眠りにつくような、真っ暗な夜だった。
時計の短針さえもとうに下り調子で、過ぎた日没よりも明け方のほうが近いような時刻。ルイスはひとり、執務室に詰めていた。
明日、ロナルド・アデアおよびセバスチャン・モランを止めるための作戦が始まる。
体調を整える意味でも、睡眠をとっておいたほうがいいのは分かっていた。それと引き換えに得たのは、作戦を再確認するための時間。
……本当に、これでいいのか。
アルバートから役職を継ぎ、ウィリアムから使命を継いで数年。成長はしていると思いたいが、どうにも不安は尽きなかった。
作戦に穴はないか。情報共有に過不足はないか。予想外の事態への対策は。成功率は。
ぐるりぐるりと思考は巡る。
だがそれも結局、いつかは行き止まりへとたどり着くのだ。唯一であり全ての根源、『兄の役割を継ぐに相応しく在れているのか』という袋小路へと。
そこでルイスは、ふ、と息を吐いた。
客観的な思考でもって、無為に巡る想いを絶つ。考えることはまだいい。だが、今すべきは悩むことではない。
少し眠ろうと、椅子から立ち上がる。睡眠というより仮眠だが、ないよりはマシだろう。そう思ったときのこと。
こんこん、と控えめなノックが部屋に響く。
ユニバーサル貿易に詰める人は、そう多くない。だがこんな真夜中に訪問者とは。
急用の長官だろうかと、警戒を強めながら「どうぞ」と返す。そして、もうひとつ疑問符を増やすことになった。
「……どうしたんだヘルダー、こんな夜中に」
開いたドアの向こうは、闇。だというのに、訪問者は明かりのひとつも持っていなかった。そんな芸当をする者など、ここには一人しかいない。
「ルイスさんがまだ起きているようでしたので。不肖ながらこの私、お邪魔しに来た次第です」
盲目であれば、廊下の暗さなど関係ない。彼にとっては、昼も夜もさして違いはないのだろう。
部屋に踏み込んだ足先が、闇に溶けていた胴が、そして顔の輪郭が、部屋の明かりで縁取られていく。
目元は伺えない。だが、その表情を伝える役割は、隠れた両目を補って余りある口元が存分に担っていた。
常の、喜色満面といった笑顔とは違う。柔らかく慈愛を湛えた微笑み。それが、わけもなくルイスの胸をうつ。
「ご安心を。長居はしません」
存外きっぱりと、ヘルダーはそう言い切った。そしてそのまま、ルイスの前へ。
「ルイスさん、お手を拝借しても?」
「あ、ああ……」
意図が読めず、されるがままに右手を出す。すると「両手を」と訂正された。
「では、失礼して」
幾重にも潰れた豆が成す、硬くなった技師の手。それは存外に温かく、ルイスの手を包み込んだ。
「toi toi toi」
ゆっくりとうたうように紡がれた、たったの三節だった。
英語ではない。おそらくは、彼の祖国のことば。
ヘルダーはそれだけ言うと、そっと手を離す。遠ざかった体温がいやに惜しくて、ルイスは視線をてのひらに落とした。
「……今のは?」
ひとつ手を握って開いて、それからヘルダーに問う。ランプの橙色が映りこむ頬は、変わらず上機嫌だった。
「幸運のおまじないですよ。舞台役者なんかがよくやるやつでしてね。成功しますように、あるいは、今日がいい日になりますように、と」
いいでしょう? とヘルダーは口角を上げる。
どう返していいか分からず、ルイスはただ小さく頷くに留めた。彼には見えないのだと思い直したのは、その直後である。
「さてルイスさん、私はもう寝ますね。よい夜を!」
本当に用はそれだけだったらしく、ヘルダーはさっさと出口へ向かってしまう。顔に巻いた布が、尻尾のように翻る。
その姿が廊下の暗闇に消える寸前に、ルイスはそっと声をかけた。
「ありがとうございます。……ヘルダーさんも、toi toi toi」
口をついたのは、呼び捨てでも命令口調でもない言葉たち。常は封じているそれらだけれど、今くらいはいいだろうと、自然に思えた。
肩越しにゆるく振り返ったヘルダーはやはり、優しい笑みを湛えている。星のよく見える、暗い夜の出来事だった。