フレがMルイの地雷を踏む話 これほど感情を露わにするルイスの姿を、フレッドは見たことがなかった。
発端は、誰の目にも働きすぎだったルイスを宥めたことか、それとも、隠すことなく不機嫌をフレッドにぶつけ返してきたことか。そのどちらにせよ、些細なことだったはずだ。
売り言葉に買い言葉の応酬は、加速度的に激しさを増した。もし執務室に他の誰かがいたとしても、今更止められなかっただろう。
かつて強引に止めてくれた兄貴分も、もういない。
だん、とルイスのてのひらがデスクの天板を打ちつける。積み上がった吸殻の山が、軽い音を立てて崩れた。
「この件は急を要するし、失敗すれば死人だって出る! それを放り出せと?」
荒っぽく掴まれた紙に皺が寄る。フレッドに突きつけられたそれは、ルイスの言う通りのものではある。だが。
「だから、それを僕らに振ってくれればいいだけの話じゃないですか! 無茶をして体を壊したら、任務どころじゃないでしょう」
この組織の責任者は、たしかにルイスだ。けれどそれは、全ての案件への関与が必要なことを意味しない。個々のメンバーにも、判断し行動するだけの能力は備わっているのだから。
「僕はそんなに弱くない。見くびらないでくれないか」
一段、ルイスの声が落ちる。燃え盛る炎が、冷酷な氷に一転したかのような声音だった。それはフレッドの、ひいては仲間たちの心配を突き返すかのようで。
「……僕たちは、そんなに頼りないですか」
単身で重責を担うルイスに対し、支えたいという気持ちはある。けれど当人に頼る気がないのならそれは、意味のない何かに成り果てるのではないか。
フレッドの胸をちりちりと焼くのは、仄暗い痛み。それを口にしてはいけないと、心のどこかが叫んでいた。
「ウィリアムさんが死んで、アルバート様がいなくなって、悲しいのは分かります。でも、生きていかなきゃいけないんですよ! 今のルイスさんを見たら、お二人はきっと悲しむ!」
その瞬間のルイスは、まるで横面を叩かれたような顔だった。はっきりと傷ついた表情に、やってしまった、と胸が冷えた。ウィリアムとアルバートの存在を盾に振りかざしたのは、他でもないフレッドの言葉でしかない。
「……貴方に、兄さんの何が分かる」
ぐしゃりと端を潰された作戦資料が、机に叩きつけられる。空いた手に襟を掴まれ、フレッドの視界いっぱいにルイスの顔が映った。眉根を寄せ、まるで降り出す寸前の雨空のような、泣き顔にも似たその顔が。
「フレッド、貴方、隠れてテムズ川へ行っているようですね。……兄さんの、遺体を探しに」
丁寧な口調は、ひどく硬かった。心理的な距離を置かれているのか、あるいは指揮官の仮面を脱ぎ捨てたからか。
おそらくは、その両方だろう。
「それ、は」
即座に否定できなかったこと自体が、肯定の意を持ってしまう。ルイスにだけは、知られないように気をつけていたのに。
「誰かに聞いたわけではありません。夜、頻繁に出かけていることからの推測です」
襟を掴む手が離れたかと思えば、ルイスは静かに背を向ける。マッチを擦る軽い音がして、特有の匂いと煙がその肩の向こうにのぼった。
奥に見える窓に、ルイスの顔は映らない。
「……貴方は、僕を愚かだと思いますか。兄さんの帰りを待ち、葬儀すら挙げない僕を」
ルイスは、Mになってからタバコを吸うようになった。
慣れた仕草で紫煙を燻らす姿は、いつか見たウィリアムのよう。よく似た後ろ姿が、あの日と同じ匂いが、まだ鮮明な記憶の傷に爪を立てた。
「思いません」
これだけは、はっきりと否定する。
向き合い方が違うのは、以前から分かっていた。そこに優劣などないことも。
「信じて待てるのは、強いです。僕も、そうだったらいいと思います。……ただ、僕は弱いので、」
いつの間にか握っていた拳が震える。言わなければ。これだけは。
「もし。……もし、ウィリアムさんが寒いところにいるなら、救ってあげたいんです。……一人はきっと、寂しいから」
寒いのも寂しいのも、フレッドは嫌というほど知っている。だからこそ、ウィリアムにそんな思いはさせたくなかった。
第六課の仕事の合間を縫っては、何度もあの川に足を運んだ。ヤードを避けての捜索ではどうしても夜中になったけれど、あの人のために何かできるのなら文句はなかった。
「もう一度、会える可能性があるなら。僕はウィリアムさんに会いたかったんです」
残酷なことを言っている自覚はあった。
希望をよすがに歩むルイスに対し、杖を奪い転ばせるような言葉だと。
遺体は遺体だ。そこに命はなく、ものを思うこともない。そう思っていたはずなのに。
「……会わせてあげたかったんです、ルイスさんに」
だから、見過ごせなかった。
ウィリアムやアルバートやモランのように、離れていってしまいそうなルイスを。
無理に無理を重ねるような働き方を。
ひとたび過去と向き合えば壊れてしまうとでも言うように、ひたすら仕事に勤しむ背中を。
「これは、僕のエゴなのは分かっています。……だから、その、ごめんなさい」
生存を信じて待つルイスにしてみれば、フレッドの行動は無神経に映ったことだろう。ウィリアムは死んだと告げることと、遺体を探しに行くこと。果たしてそこに違いはあるのか。
ルイスの背中は、動かない。
「少し、頭を冷やしてきます」
これ以上ここにいても、またルイスを傷つけかねない。フレッドから言えることはもうないのだから、退室するのがお互いにとって最善のはず。
そう思っての「失礼します」に、肺の煙を吐く息が重なった。
「待って。……待ってください、フレッド」
ルイスが振り返る。その双眸は、まるで迷子のようだった。月を映す夜の池を思わせる揺らぎに、フレッドは息を呑む。
「違うんです。謝るのは僕のほうで。……すみませんでした。その、理由も聞かずに全てを決めつけて」
うってかわって、険のない声だった。まだ屋敷があった頃、仲間たちが揃っていた頃と同じ響き。
真剣な後悔と謝罪が、まっすぐにフレッドに向けられる。
「僕は、……貴方の思いを踏みにじった。貴方に詰られて然るべきだと思います」
ルイスは深々と頭を下げた。フレッドが恐縮するほどに。
「僕に余裕がないことは、免罪符にはなり得ません。本当に、すみませんでした」
ルイスの指先で、煙草の煙が静かに上る。ウィリアムが吸っていたものと同じ煙が。
「……こんなこと、僕から言うのもおかしいんですけど」
浮かんだのは、場違いにも思える言葉。そこにほんの少しの勇気を添えて。
「その、引き分けにしませんか」
「引き分け?」
ぱち、と緋色がひとつ瞬く。
「はい。ええと……ルイスさんがウィリアムさんを信じて待つことと、僕が、迎えにいっていたこと。どっちがいいとか悪いとかじゃなくて、引き分けにするんです」
元々これは、個人的な考え方の違いに起因するもの。なら、無理に正解を決める必要だってないはずだ。
一歩、前に踏み出す。
「ウィリアムさんは、いつかきっと帰ってきます。そうしたら一緒に言うんです、おかえりなさい、って」
それは、違う二人に共通する望み。
いつか叶うと信じて待つ、ひとつの願いだった。