フレ過去 色も未来も希望も、この世界にはない。
死ぬまで生きて、死んだらおしまい。
逆らって殺されるよりは、従って生きる方がマシなだけ。
それだけの投げやりな諦念を胸に、ただずっと、息を潜めて暮らしてきた。
大英帝国の片隅の、鉱山のふもとに栄えた町。銅と石炭がもたらした富は人を招き、出稼ぎの炭鉱夫や商人などの新顔が、毎日のように列車に乗ってやってくる。
そうなれば当然、治安は悪化するもので。
表情を変えぬまま、フレッドは内心でため息をつく。
目の前には細い道。計画された通路ではなく、建物と建物の間が余ったから道と呼びました、という風情の場所である。そこを塞ぐようにして、四人の男が言い争っていた。
様子を見るに、三対一らしい。
三人の方は知った顔だった。この町で幅を利かせる、自警団の構成員。といいつつそれは名ばかりで、実態はほとんどギャングである。非合法な資金稼ぎに、警察との抗争、不法行為のもみ消しと、黒い噂には事欠かない。もちろん喧嘩も茶飯事なので、正直なところ珍しい光景ではなかった。
一方の青年は、外から来たのだろう。町の者のように煤で汚れておらず、服も顔も綺麗だった。炭鉱夫になるための体力があるようにも見えないので、商人だろうか。行儀よく三人を宥めてはいるが、おそらく穏便に済むことはあるまい。
どうしようかな、とフレッドは足を止める。
止めに入れば、青年を逃がす時間稼ぎくらいはできるかもしれない。ただしその場合、フレッドの立場は確実に悪くなる。この街において、自警団に逆らうのは自殺行為だ。
迷ったのは束の間。踵を返して、一つ前の角を曲がる。争いごとは何も見なかったというように。
道の角に身を隠し、息を吸って。そして。
「巡査さん、こっちです! 早く!」
なるべく高く、喉を開いて女性の声を作る。少し間をあけて、今度は低く。
「喧嘩ですか」
「ええ、あの角の向こうで!」
もちろん、フレッドの周りには誰もいない。単純な賭けの一手だった。
それでもどうにか、彼らの動揺を誘うことには成功したらしい。架空の婦人と架空の警官の役目は、それきりで終わった。
「おい、逃げるぞ」
「でもよ、こいつ……」
「今面倒を起こしてみろ、親分に殺されるぞ」
そんな言葉に続いて、悪態が二つ三つ。小物らしくつまらない言葉を吐き残すと、三人はフレッドが潜む方とは反対側へと散っていった。喧しい足音が三つ、遠ざかる。
ふ、と安堵の息をつく。
青年は無事だろうかと通路の奥を覗き込もうとした、その矢先のこと。
「やるじゃねえか、お前」
背後から、知らぬ声がした。
思わず飛び退ると、そこにいたのは背の高い男。恵まれた体躯を包むロングコートも、適度に整った髪も、フレッドを見下ろす目も、みな黒い。その姿は、太陽を背にしているせいで殊更に黒く見えた。
気配には敏い自信があったのに、ここまで距離を詰められて尚、まるで感じ取れなかったことに驚く。
「……誰」
顔に覚えはない。フレッドに危害を加えるつもりはなさそうだが、黒い瞳の宿す鋭さを見ては、警戒を緩める気にはなれなかった。
「別に、とって食ったりしねえよ。……俺はセバスチャン・モラン。ま、軍人崩れだ。さっきの、ガキの癖にやるじゃねえかと思ってな」
モランと名乗った男は、面白いものを見た、とでも言いたげに笑っている。フレッドの頭を撫でようと伸びてきた手は、払い落とさせてもらった。それで臍を曲げた様子もなく、モランは続ける。
「で、名前は?」
名乗らせたんだからお前も名乗れと、口の端を上げるモラン。この強引な感じは、黙っている方が長引いて面倒なことになる。そう判断して、名乗ることにした。
「フレッド・ポーロック」
ふうん、という返事は緩い。自分から尋ねたくせに、興味があるのかないのか分かりにくい態度だった。
「いくつだ?」
何を聞かれたのか少し迷って、歳のことかと思い当たる。
自分の年齢を知らない者はたくさんいるはずだ。これが答えが返ってくると思っての問いだとするなら、モランの目にフレッドはどう映っているのだろうか。少しだけ気になったが、掘り下げるほどのことでもないと蓋をした。
答えられない問いは、誤魔化すに限る。
「知ってどうするの。……もう行っていい?」
「待て待て待て、いいだろもう少し。ついでに聞きたいことがあんだよ。お前、ここの自警団の本部の場所って分かるか?」
「そこに、何の用?」
この街に住んでいて、それを知らぬものはいない。ただしそれは良い意味ではなく、余計な藪を突いて蛇の尾を踏まないためだ。真っ当な生き方を望む人ほど、近づくことを避ける場所。
「ンなもん一つだろ。加入希望だよ」
モランはあっけらかんと言い放つ。
「でも、」
「他の土地の自警団とは違う、ってか? とっくに知ってるぜ」
教えるつもりがねぇならいいけどよ、と言うモランは、それ以上追及する気はないらしい。どうやらこの男、粗野な見た目とは裏腹に、交渉における引き際を心得ているようだった。
「本気?」
「おー、まあな」
なにも気負わない、あまりに適当な返事。だがそれは無知な愚か者などではなく、余裕と自信を持った者の態度で。
軍人崩れだというのを信じるなら、相応に腕も立つのだろう。そういう者が流れ着くには、この町は最適だった。
苦いものを感じて、視線を落とす。
「加入には紹介がいるから、一人で行ってもダメ」
「そういうもんか」
たぶん、フレッドがここで突き放しても、モランならなんとかするのだろう。この短時間で、それだけの交渉術がある男だというのは分かったので。
「……入りたいなら、一緒に来たら? 僕も一応、団員だから」
へえ、と低い声。意外に思われたのか、それとも想像通りだったのか。フレッドには、読み取ることができなかった。
自警団は、町の中央にある酒場を拠点にしている。
普段はあまり寄り付かないフレッドが足を踏み入れると、囃し立てる声がいくつか。途中、足を引っ掛けてやろうと出された靴は躱して、バーカウンターへと向かう。
「……ボス、加入希望者、です」
丁寧な口調というのは、どうにも慣れない。波風立てずに生きるために身につけたが、流暢とは到底いえない自覚はあった。
バーカウンターに座る恰幅のいい男が、億劫そうに振り返る。縦に一本古傷の走る目は、冷血な捕食者の色。
「……ほう、珍しいな。その男が?」
「セバスチャン・モランだ。元は陸軍にいたんでな、腕っぷしには自信がある。荒事には役立つと思うぜ」
モランは片手袋の手を広げ、もう片方の拳をぶつけてみせる。この自警団の本質を知らないわけではないだろうに、ひとつも臆する様子を見せなかった。
ボスは二、三の質問をし、それから適当な部下を一人呼びつけた。呼ばれた男は飲みかけだったエールを干すと、ゆらりと立ち上がる。モランほどの背丈はないが、筋肉の厚みでは勝っているだろう。髭面の、よく日に焼けた男だった。古傷の走る目は、にたにたと笑って気味が悪い。
喧嘩の強さは、団の中でも指折り。一度滅多打ちにされてから、フレッドはあの男が苦手だった。
「こいつに勝ったら入団を認めてやろう。表へ出ろ」
「なんだ、そんなもんでいいのか? 随分簡単そうな試験だな」
対戦相手を一瞥し、モランは煽るような言葉を吐く。ボスはそれを気に入ったようで、僅かながらも唇を歪めた。
「ルールは?」
「喧嘩にそんなもんあるかよ、お坊ちゃん」
「上等だ。殺されても文句言うなよ」
軽妙な口調で火花を散らす、前哨戦とばかりの舌戦。そのさなか、不意にモランの視線がフレッドを捉えた。
「おい、ちょっとこれ持ってろ」
押しつけられたのは、黒い塊。鈍い光沢のあるそれはずっしりと重く、フレッドの両手を広げても少し余る大きさだった。
「ハンデだハンデ。安全装置なんてねぇから、気をつけろよ」
「え」
言うや、モランはさっさと店を出てしまう。
フレッドの手に、一丁の銃を残したまま。
ぞろぞろと男たちが店外に出ていくので、我にかえったフレッドもその流れに混ざる。紹介した矢先に死なれては、少々寝覚めが悪いので。
大柄な男たちが作る人垣の中、どうにか視線の通り道を確保する。二人は距離をおいて向かい合っていた。
長いコートが、乾いた風にはためく。
「どっからでもいいぜ」
まるで転んだ相手に差し伸べるような、モランの手。気障にも思える仕草は、やけに様になっていた。
「余裕こいてられんのも今のうちだぞ、ガキ」
言うや、男は姿勢低く地面を蹴る。胴を狙った拳はあっさりとモランに避けられるが、一撃で終わりではなかった。男の左手はモランの左前腕を掴み、距離を詰めた勢いを殺さないまま姿勢を崩しにかかる。
その速度と体重にいくらか引っ張られたものの、モランの余裕は薄れない。
むしろ、
「はっ、そんなもんか?」
フリーな右腕が、容赦なく男の背中に肘を叩き込んだ。呻き声があがっても追撃を緩めることなく、続いて膝蹴りで腹を刺す。
ひとつひとつの仕草に、欠片ほどの無駄もない。見事な手並みだった。
よろめいた男を相手に、モランはすぐさま距離を詰め、息も整わせないうちに顎下に掌底を叩き込む。
続いて足を払えば、体勢を立て直せない男は一瞬宙に浮き、したたかに腹を地面に打ちつけることになった。醜い声が鈍く響く。
「まだやるか?」
起き上がろうとした男の背に足を置き、モランは問う。
「……すごい」
つい、零す。それほどまでに圧倒的だった。
不服そうなのは、負けた男ただ一人。観客たちがワッと歓声を上げ、人の輪が狭まっていく。あるものはモランの肩に腕を回し、あるものは称賛の言葉をかけ、あるものは上機嫌に酒瓶を開けている。
皆、その鮮やかな勝利に酔ったかのように。
この日、セバスチャン・モランの加入は正式に認められた。
■
またたく間に人気者になったモランは、あろうことか、今夜の宿にフレッドの家を選んだ。
もちろん断った。だが酒場の連中は皆モランの味方で、フレッドが一人で暮らしていることをさらりと明かしてしまって。
それを端緒に丸め込まれれば、もう勝ち目はなかった。空間の半分が、めでたくモランの領地となったのである。
家といっても、窓はひび割れ、柱は歪み、床には穴が空いているような代物。寝床から夜空が見えたところで、石炭由来の煙が全てを台無しにしていた。一室しかない、掘っ立て小屋のような場所だ。
「……宿、早めに探してよ」
「おー」
ごろんと腕枕で寝転がったモランは、緩く脚を曲げている。どうやら少し狭いらしいが、単にモランが大きすぎるだけだろう。腹が立つくらいに。
ため息をつきたい気分になりながら、自分の寝床に腰を下ろす。床にボロ布をかき集めた程度のものだが、かつてはベッドマットだったものが一枚あるだけ上等だろう。モランの方もだいたい同じである。
長らく一人きりだった空間に他人がいるのは、変な気分だった。
「……なぁ、聞いてもいいか」
「それ、もう聞いてるのと同じ。何」
寝転んだまま、気怠げな目がフレッドを見上げている。酒場の連中に散々飲まされてはいたが、酒に呑まれてはいないようだった。
「お前、なんだってあんな組織にいる?」
緩い口調でモランは問う。フレッドが聞かれたくないことを、容赦なく。
「どう考えたって向いてねえだろ。殴り合いをあんな嫌そうな顔で見てた奴、初めてだぞ」
今にも鼻で笑いそうな声だった。その態度になんだか苛立ってきて、真正面から皮肉ってやる。
「モラン、デリカシーって知ってる?」
「辞書に載ってる意味ならな」
そう言うと、モランは少しだけ口角を上げる。まるで、昼間喧嘩をしたときのように。
「嫌なら、街を出りゃいい。この国はどこも地獄だが、少なくとも自由はあるぜ」
ま、ここに残るのもお前の自由だけどな、と勝手なことを言うモランは、一方的に語って満足したらしい。返事を待たずに目を閉じた。
■
フレッドは、もともと鉱山労働者として連れてこられたらしい。
らしい、というのは伝聞だから。フレッド自身、この街ではない景色の記憶がぼんやりとあるので、たぶん真実なのだろう。
けれど貧相な体は力仕事に向いておらず、その癖妙に頑丈なので使い潰されもしなかった。そうして生きるために生きているうちに、なんの因果か、自警団の下働きになっていた。
自警団のしていることは、概ねふたつに分けられる。
ひとつ、街の警備と称した示威行為。
街の者は、従って搾取されるか、反発して消されるかのどちらか。娯楽の少ないこの街では団員の鬱憤もたまりやすく、その矛先は大抵罪なき市民に向けられる。
ふたつ、炭鉱における労働者たちの監督。
主要産業たる炭鉱を持っている子爵は、自警団のボスとつながっている。行儀がいいとは言えない鉱山労働者たちを従えるのに、荒くれ者の自警団員たちは至極都合が良い。
今日の指令は後者だった。
といってもモランに鉱山を紹介する意味合いが強く、その案内役は当然のようにフレッドに回ってきた。連れてきた者が面倒をみろ、ということらしい。
「立派なモンだな」
少し先に見える入口周辺を行き来する人やトロッコ、そして山積みの石炭を見ながら、モランは零す。どうやら炭鉱労働の経験はないらしい。