火に油が注げない(お題:襟足)「おはよう、悟」
「おはよ」
「悟も、こっちにおいで」
「何してんの?」
座学に参加するために教室に向かうと、窓際に置かれた黒い箱の前でしゃがみ込む後ろ姿が視界に映った。ヒグマみたいだな、と思いながら手招きにつられて近づくと、膝下がじんわりと暖かくなった。
「灯油ストーブ。夜蛾先生が、寒いだろうって出してくれたんだ」
「へぇ」
夏油が少し左の方にズレるので、五条も隣にしゃがみ込んだ。夏油がするように掌をかざすと、赤い筒の発する熱でじんわりと指先が暖められていく。
「こんなのあるんだ。あったけぇな」
「あれ?もしかして悟、灯油ストーブ知らない?」
おや、という顔をして、夏油は五条を覗き込んだ。赤い筒に反射して、夏油の顔が赤く色づいているように見える。急に近づく夏油の瞳から逸らすようにしてストーブのスイッチに目線を落とし、小さく呟いた。
「おぅ、はじめてみた」
「へぇ。やっぱり、火など急ぎ起こして炭もて渡るみたいな世界なんだ?」
「俺は平安貴族じゃねぇんだよ」
「えっ?絶対、清少納言の怨霊とか飼ってるでしょ。今度紹介してよ」
「いねぇわ」
夏油がことあるごとに五条家をイジるようになったのは、五条が御三家と呼ばれる呪術界きっての御曹司であることを知ってからだった。この業界に足を踏み入れれば真っ先に入る情報なので、かれこれ入学して間もない頃だったように五条は記憶する。
後ろ盾にも、五条自身の能力にも臆することなく、すっと足を踏み入れてきたのは、夏油が最初だった。彼の歯に衣着せぬ物言いが、五条にとっては心地よかった。分け隔てなく誰とでも接することができる彼だからこそ、なせる業だった。しかし、五条にとって特別な感覚が、夏油にとってはなんでもないということに気が付き、近頃はもの寂しい。
「じゃあさ、授業後空いてるよね?」
「空いてるけど?」
「ストーブのいい使い道、教えてあげよっか」
「いい使い道?」
夏油は、怪訝そうに首を傾げる五条に悪戯を企てるような笑顔を向けながら、立ち上がり自分の机に着席した。夏油は時たま、悪戯っ子のような笑みを向けることがある。深夜に即席麺で作る夜食の味を教えてくれた時も、そんな顔をしていた。授業後のことを少し楽しみにしながら、夏油の隣の席に腰掛けた。
五条と家入を教室に呼び止めて教室を出た夏油は、やかんとマグカップを両手に戻った。灯油ストーブのとろ火でゆっくり時間をかけて湯を沸かす。
「夏油さぁ、やかんぐらい授業前から置いておけよ。時間掛かんじゃん」
「はは、ごめんね。一応、先生に見つからないようにした方がいいかなって」
「いつまで優等生ヅラしてるんだ、クズが」
三人でストーブの熱を分け合い、あぁでもないと駄弁りながら、湯が沸くのを待つ。夏油は途中で一人だけ制服の上着を脱いで白いシャツ姿になった。黒い襟足の辺りが少し汗で滲んでいる。明らかに三人の中で一番暑がりだ。それにも関わらず、ストーブの最前列に陣取り、はやく沸いてくれ、とやかんに話しかけている。その丸い背中が可笑しかったので、五条は思わず手を伸ばして、黒い襟足をそっと撫でる。汗の水滴が指先に移った。
「おいっ、何をするんだ悟!」
「お前、汗かいてんな」
「暑いわけじゃないけど…汗をかきやすいんだ」
夏油は俯いて、自身の後ろ首をシャツの襟で拭った。心なしか、黒い襟足の下が紅潮しているように五条には見えたが、灯油ストーブの赤が映っているだけかもしれない。
漸くやかんの注ぎ口から白い蒸気が上がり、ココアの粉末を入れたマグカップに湯を注いだ。ストーブの前でココアを啜ると、甘くて暖かくて、五条は満たされた気持ちになった。それは、かけがえのない同級生と飲むからなのかもしれないし、ストーブという名の新アイテムの威力なのかもしれない。
灯油ストーブがお目見えしてからというもの、夏油は毎朝早く教室に着いて、火を点けた。一方の五条は、あのヒグマのような背中を後ろから眺めるのが好きだったので、敢えていつも少し遅れて行った。ほどなくして二人の間に、灯油ストーブを使って、朝飯をこしらえるという日課が新しく組み込まれる。ストーブのとろ火で作る焼き芋や、焼餅、それから温め直した前日のカレー…、どれも想像以上に美味かった。夏油が悪戯っ子のような笑みを浮かべて教えることには、いつもハズレがない。五条は今冬初めて対面した灯油ストーブに、すっかり魅了された。
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季節が巡り、五条にとって呪術高専で過ごす、二度目の冬が訪れる。一年の頃に比べれば、教室を使用する機会はめっきり少なくなった。それでも教室を使用することがあれば、夏油がストーブのスイッチを点けて、五条は少し遅れて黒い背中に迎えられた。五条の中での一大ブームであったストーブクッキングは忙しさも相まって、今シーズンはすっかりお目見えしなくなった。
ある朝のこと、久しぶりに同級生と甘いココアが飲みたくなり、五条はやかんとマグカップを手にいつも通り遅れて教室に入る。黒い背の奥には既に、金色く丸いやかんが置かれていた。
「あれ、やかん?」
「そう、やっぱり一回はココアを作っておきたくってね。って、悟も持ってきたんだ?」
「あー。お前、持ってくるなら、一言声掛けろよな」
不意に考えが一致したことに、気恥ずかしさと嬉しさが入り混じってくすぐったい。気持ちを落ち着かせるためにも、夏油の横にしゃがみこむ。すると突然、ごつごつとした指の感触が、後ろ首を掠めた。
「わっ!!…何すんだよ!」
「赤くなってるね、って思って」
「ぞわぞわするからやめろよ」
「襟足が白いから、余計目立ってる。…なんか、きれいだな」
「なんだよそれ…!」
五条は夏油の厚い掌を剥がして、自分の後ろ首をさすった。一気に体温が上がった心地がするので、余計に赤くなっているはずだ。これ以上揶揄われるのを阻止するために、自分の手で隠す。耳も頬も急に熱を帯びて、掌だけでは到底隠し切れない。
「悟、暑いの?」
「いや、暑いっつうわけじゃなくて…赤くなりやすい体質なんだよ」
「へぇ、そうなんだ」
程なくして湯が沸き、粉末ココアを入れた二つのマグカップに湯を注ぐ。ふとこの場にいない同級生のことが気になり、五条は呟く。
「そういえば、硝子の分も作った方がいいよな」
「うーん、硝子はココア飲まないかもね」
「マジかぁ。俺、ココアしか持ってねぇや」
「ふふ、私、インスタントコーヒー持ってきたよ」
スティックコーヒーの袋をひらひらさせながら、夏油は五条に笑顔を向けた。準備がいいな、と思うと同時に、五条は胸が締め付けられる心地がした。時折夏油をめぐり現れるこの感情になんと名付けたらいいのか、五条はわからなかった。誰かに対してこんなにも感情が動くなんて経験は初めてだったからだ。
「あのさ…」
それって、同級生だから?それとも…?
「ん?」
至近距離に近づく夏油の顔にたじろぎ、五条は口をつぐんだ。咄嗟に視線を黒い襟足に逸らす。相変わらず、汗で湿っていた。
「お前こそ、暑いんじゃねぇの?ストーブ消す?」
「いや、大丈夫さ」
いつだって、君がいるだけで体温が上がってしまうから、ストーブなんかのせいじゃないんだ。だけど今は、君とのこの心地の良い距離を壊したくないから、黙っておくよ。
夏油は、ハンドルを左に回してストーブの火力を弱める。ココアを啜る横顔に揺れる長い睫毛へと目をやりながら、自身もマグカップに口をつけた。
※清少納言『枕草子』から一文引用。