所詮本命の前では理想なんてあって無いような物(仮)鹿爪らしい顔を覆った手のひらの下の口元が緩んでいることを、彼が知ったら怒るだろうか。
俺、煉獄杏寿郎は、伏せていた目を向かいに座った彼へ向けた。
項垂れ、心底申し訳ないことをしたと罪悪感に苛まれているのだろう。
何か声をかけて気持ちを和らげてやりたいが、顔が緩んでしまわないよう取り繕うのに必死なのだから許してほしい。
この5歳年下の大学生の恋人――竈門炭治郎は、二十歳になったばかりというのに人格の優れた青年で、恋仲になってはや数ヶ月たってもわがまま1つ言わない。
元来、長男気質で人のことばかり慮る質なので、消して心を開いていないからではないだろう。
それに、まさか炭治郎とそんな仲になるなんて思っても見なかった頃の、自分の発言のせいもあるんだろうが……。
今、良い年をした大の男が、年下の恋人の些細な焼き餅に心底浮かれていた。
彼との出会いは一年ほど前に遡る。
俺と同僚の宇随は、連れ立って昼休みに定食屋へ訪れていた。
少し会社から距離があるが、幼なじみ夫婦の店なのでよく訪れる。
安くてボリュームもあり、かつ味も良いので昼時は特に混み合う。
馴染みの店だと、自然と座る席も決まっていて、よく隣に座っていたのが炭治郎だ。
近くの大学に通う炭治郎と、友達の我妻善逸はよく連れ立ってこの店を訪れた。
顔見知りだった俺たちの距離が縮まったのは、炭治郎が倒したコップの水が俺のスーツにかかったことにある。
すぐ乾くからと言ったのに、ひどく申し訳なさそうに何度もクリーニング代を渡そうとしてくる彼に取り合わなかったら、翌日せめてものお詫びですとパンが山盛り入ったパンの紙袋を差し出された。
律儀な若者だなぁと思いながら、受け取らないと彼の気が済まないだろうと受け取ったのだが、このパンが大層旨かった。
次回会った時にそれを伝えると、実家がパン屋で自分が作っているんだと照れ臭そうに微笑んだ。
その笑顔がなんだか妙に頭の中に居座った。
とにかくそれがきっかけで、会えば世間話をするようになり、自然とお互いの友人同士もそうなった。
我妻は、宇随の顔になんやかんやと文句をつけたが、素直な性格と打てば響く反応の良さが大層気に入られたらしい。
揶揄い甲斐があると、善逸にちょっかいを出しては怒らせていたが、不思議と相性は良く見えた。
人懐こい炭治郎の性格もあって、皆で連れ立って出かけたり飲みに行くようになった。
飲みに行くと、たいがい我妻が宇髄に向かってイケメンは滅べだのどうしたら俺もモテるんだと管を巻く。
彼の関心ごとの殆どは、異性からどう思われるかが占めているようだった。
ある時も居酒屋で酷く酔って絡むので、「彼女がいなくても有意義に過ごす方法は幾らでもあるだろう。相手によってはこう頻繁に友達と過ごす事も出来なくなるかもしれないぞ」と言うと、
「彼女に友達と遊びに行かないでなんて言われたら、俺は彼女に寂しい思いをさせない為にも喜んで従いますよ」と唇を突き出し枝豆を剥くのに失敗したのか豆を飛ばしてきた。
「こいつ束縛とか無理なタイプだし、それで別れるとか言われても去る者は追わないから善逸の気持ちわかんねーよ」と宇髄が言うので、
「あなたが真の敵か」と火の粉までこちらに飛んで来そうになり口を噤む。
「束縛かぁ……やっぱり嫌なものなんですか?」
炭治郎は、俺にはまだそんな経験ないからわからないと、純粋な疑問の目を向けた。
「女の子の束縛や我儘なんて可愛いじゃないか、俺なら喜んで受け入れる。俺なら不安にさせない。だから誰か俺と付き合って」と今度は泣きながら喚く善逸を横目に、
「不安にさせるのは俺に至らない点があるのだろうが……」
正直、束縛も我儘も面倒くさいと思ってしまう。
自分を律すれば、相手にその様な事を求めずに済むのではと思うし、そもそも自分は精神的に成熟したタイプを好む。
しかし、それを年若い友人に率直に告げて良いか言い淀む。
そんな俺を見て、炭治郎は「なるほど」と言ってレモンサワーを飲んだ。
何となくその話はそれきりになったが、彼が納得してなるほどと言ったのか、ただ興味を失ったのか図りかねた。
そうして彼と交流を深めて半年ほど経った頃。
出張に出ていた俺は、職場への土産を選びに駅の売店にいた。
職場では、この地方へ出張に行った時の定番土産があり、迷いなくその菓子箱を手に取った。
時間に余裕もあるしとぶらぶら店を回っていると、地元に出店していない有名なパン屋が見えて、炭治郎を思い出す。
研究熱心な炭治郎の事だから、一緒にいたらきっと色々買うんだろうな。
真剣な顔でパンを吟味する彼を想像して顔を綻ばせた。
買っていってやりたいけど、きっと渡すまでに味が落ちてしまうだろう。何か別のものをと思ったが、何を喜ばれるのかイマイチわからなかった。
何でも喜んでくれるんだろうが、これだという決め手欠ける。
そもそもあの子は飯の注文の時も、相手に好きなもの頼んでいいよとか、誰でも喜びそうなものを選ぶ。
親しい仲でも遠慮深いのは彼の美点だが、もっと自分の好みなんかを主張しても良いのに。
そして、何が好きなのか、どんな事をしたら楽しいのか、もっと知りたいと強く思った。
結局、自分が好きな饅頭を炭治郎に買った。炭治郎の好みがわからないので、自分の好物を知ってもらおうと思ったのだ。
そして、自宅へ帰ってから、はたと善逸への土産を忘れた事に気がついた。