白き志のもとに――村を燃やされた。
もう、珍しい話でもなかった。
家を、家族を、職を失った人間が、そうしてまた村を襲い、絶望を増やす。
胡清は、そうして絶望したうちの一人だった。
幼少のうちに賊によって両親を失ったが、両親の残した畑や周りの助けもあり、なんとか自分一人分、飯だけは困らないくらいに生きていた。
それすら失った。
這々の体で近くの村まで逃げてきたが、縋るものも頼るところもなく、市場に近い道の端で、崩折れたように蹲るしかなかった。
出る涙ももう無かった。すべてを失ったのだ。優しかった婆さんも、両親が残してくれたものも、家も。
「このような場所で、どうした」
温かな声だった。昔、両親をなくしたときに心配してくれた周りの人達のような。
胡清は、それが己に向けられたものなのか、一瞬わからなかった。
俯いた顔を上げると、一人の男が、胡清を見ていた。
逆光で顔は見えない。だが鮮やかな常磐色の袍が、派手なものだと思った。
目が合うのを確認してか、男は胡清と同じように、その場でしゃがみ込む。
顔の位置がぐっと近付き、人好きのする柔和な表情を漸く捉えることができた。
「うん、そうだな。腹は減っているか?」
重く暗い心が、少しだけ動く。
数日、水すら口にしていない。声も出す気力がなかったため、少しだけ首を動かして頷いた。
「よし、なら食いに行こうか。俺もこれから飯の予定だったんだ。付き合ってくれると嬉しい」
そう言って、男は手を差し伸べる。
胡清は無意識のうちにその手に縋った。
温かい手にゆっくりと引き上げられたとき、どれほど固く冷えた心を和らげたか。枯れたはずの涙が目の淵を濡らしたのがわかったとき、胡清はひどく安心したのだ。
水と、柔らかく煮られた餅を貰った。
肉も食うか?と聞かれたが、何も入れていない胃には重い気がして、小さく首を振って断った。
がっつきたい気持ちはあるが、手前申し訳ないように思え、水を啜り、ゆっくりと餅を口に入れる。
塩味と舌で解せるほどの柔らかな餅を感じたとき、次から次へと涙が溢れ出てきた。
「うまいか?」
遠い昔、父が話しかけてくれたときの声色を思い出し、鼻をすすりながら何度も頷くと、それはよかった、と笑い混じりの声が返ってきた。
「……どうして、こんなに良くしてくれるんですか」
掠れた、弱い声だった。胡清は、自分の声を久しぶりに聞いた気がした。あまりにも情けなく、前を向けず器に目を落とす。
「大げさだな、飯に誘っただけだぞ」
「すみません、俺、なにも返せない」
「ん?ははっ、まあ気にするな。俺は色々食べたいんだが、健啖ではなくてな。残すのも申し訳ないし、分けてくれる相手を欲していたんだ」
本当に、なんてことないような声で言うので、胡清は思わず顔を上げた。漸く、まともに男の顔を見た。
綺麗な男だと思った。見目の話ではない。なぜこの世において、そんなに真っ直ぐと見られるのかと。
見回すと、店主が呆れたように笑っている。
「劉さん、アンタまた若い子引っ掛けてんのかい」
「人聞きが悪いな、賑やかなのが好きなだけだ」
「おうなんだ、オレらじゃ物足りないっていうのか?」
「そんな、お前達がいてこそだ」
隣席の粗野な男たちが愉快そうに肩を揺らして笑う。
不思議と、この男の周りはどのような人間が相手でも、こうやって砕けた雰囲気になるのだと感じた。
「ほら、だから気にせず食えばいい。腹が満ちれば、気も落ち着く」
な?と劉と呼ばれた男は微笑む。
手元を見れば、確かに己の下にある餅と同じ物が小盛りにされていた。他にも、肉や湯の入った器が並べられており、劉の言った事はどうやら嘘ではないらしい。
「湯もどうだ。これなら食えるか?」
言いながら、椀に取り分けてくれた。
胡清は、小さく頷いて、また黙々と餅を口に入れる。
人の間にいることが、なんと温かいことか。絶望は次第に溶け、今はこの温もりに身を任せようと、汁を呷った。
「お前は、幾つになる?」
一通り食い終わり、涙も止まったとき、劉はそれとなく尋ねる。
「十七、になったところです」
「そうか。どこの村から?」
「東にある禾田です。行く宛もなく、此処へ」
「禾田……。それは、大変だったな……」
胡清は思わず黙り込んだ。
この男は、自分の村がどうなったのか知っている。そう思うと、次の言葉が浮かばなかった。
腹は満ちたが、この後のことを考えなくてはならない。
劉は、気紛れで自分を誘っただけだ。別れて一人となったとき、どうしたら良いだろう。行きずりの男に助けてくれ、というわけにもいかない。
「なら、共に来るか?」
「……え?」
「と言ってもそんなに豊かな暮らしは出来ないが。まあ、食って寝るくらいならどうにかなる。人手が足りていなくてな。それで兎に角丈夫そうな男達に声をかけていたら、店主に揶揄われてしまった」
「もしかして、お屋敷の方でしたか……?」
妙な雰囲気のある男だと思っていたが、身分の高い者だったかもしれない。粗相をしていないだろうか。胡清は急におそろしくなり、身を縮まらせる。
「ああ、言い方が悪かったな。そんな偉いものではない。榜文は見たか?」
「いえ、すみません。俺は文字が読めないので……」
「いい、気にするような話ではない。どこかで聞いたかもしれないが、俺達は義勇軍として、黄巾討伐に参加するつもりだ」
「黄巾……」
禾田村を襲った賊が、黄色い布を身に着けていたことを思い出す。つまりそれは、――仇だ。
「連れてってください」
考えるまでもなく、口から言葉が飛び出していた。
「自分には行く場所なんてどこにもない。貴方が声をかけてくれなかったら、きっと俺はあそこで蹲ったまま死んでいました」
「俺が言うのも何だが、じっくり考えてもいいんだぞ」
「良いんです。……俺は、光を見たい」
胡清は、立ち上がって劉に長揖する。ただの小さな農村の民であり、したこともなければ、滅多に見かけたこともない。だが、そうするに値する者とは、このような男なのだと思った。見様見真似だが、できるだけ深く頭を下げる。
「失礼ですが、貴方のお名前を教えていただけますでしょうか」
「ん、すまない。まだ名乗っていなかったな」
「劉備、字は玄徳だ。お前のような者たちに、俺は光を見せてやりたい。仲間になってくれて嬉しいぞ」
そうやって目を細めて笑う男――劉備は、胡清にとって、確かに明く、暗雲の中差し込める陽(ひなた)のように見えた。