草と木馬(無劉)初めての街の匂いは、土と人と、煙の混じったにおいだった。
無名は、馬の背に揺られながら見たその街の風景を、ぼんやりと思い返していた。
父に連れられて、山をいくつも越えて辿り着いた幽州の街――涿郡。ここは、漢の人々の世界。
賑やかな街だ。
無名は人がこんなに溢れているのを初めて見た。
中には自分たちのような「漢の外」の人間も少なくない。人の出入りが激しい街なのだろう。
匂いも、いつかの村里と違い、土や人の匂い以外に食べ物の匂い、何かの香の匂いなど、色々な匂いがした。
父やその旅の仲間が食料や道具を買いに回っている間、人酔い気味になった無名は商店の通りを離れ、人の少ないほうへ一人向かった。道を覚えるのは得意だから、迷わず戻れるはずだ。
しばらく行くと、人も家もまばらになり、木々や田畑が増える。
畔を覆う草には、乾いた泥がこびりついている。
――そこで、見つけた。
一人の少年が、草むらの中にしゃがみ込んでいた。
歳は、自分より少し上くらいだろうか。背は高くない。だがその肩には、年齢には不釣り合いな重さが宿っていた。
無名は、そっと近づいて、後ろから声をかけた。
「……なにか、見える?」
言葉はつたない。漢語の音を真似たものだ。けれどその響きに、少年は肩を震わせて振り返った。
驚いたように、大きな瞳がこちらを見る。その眼差しの奥に、涙があった。まだこぼれてはいなかったが、確かに今にもあふれ出しそうなものが、そこにあった。
「……ごめん、びっくりさせた」
無名は慌てて一歩引いた。
けれど少年は目を伏せ、首を横に振った。
「……これからどうしたらいいか分からなくて……ぼんやりしていた」
無名は戸惑った。
なぜ、こんなふうに俯いているのか。
何があったのかも、何を言えばいいのかも分からない。
ただ、草がざわめく中で、目の前の少年が深い場所に沈んでいるような気がして――口を開いた。
「……迷子?」
少年は目を伏せたまま、ふっと笑ったようだった。
「……そうかもしれないな」
少しの沈黙が降る。無名は、隣に腰を下ろした。
草がざわりと鳴いた。
「なにか、あった?」
声は、ささやきのようだった。
草の音に紛れて消えてしまいそうなほど。
少年は、伏せた目を無名に向けた。
目の奥にはたしかに、迷いのようなものがある。
「父上が、亡くなって」
無名の心臓が、ひとつ跳ねた。
“亡くなる”――その言葉の意味は知っていた。死、ということ。だがそれがどれほどの痛みを伴うのかは、まだ知らなかった。知識としてではなく、心でその重さを測ることはできなかった。
それでも、目の前の少年が、深く沈んでいることだけは、はっきり分かった。
だから無名は、黙ってその隣に座っていた。草の匂いが、風に乗って流れてくる。会話もないまま、しばらくの時が過ぎた。
やがて、少年がぽつりと呟いた。
「……君は、どこから来たんだ? 見慣れない服だ」
「あの山の向こう。馬で、ずっと」
遠くで白く霞む山を指差す。あの山を超えるのに何日もかかった。下るにつれ、風の匂いが変わっていったのを思い出す。
「長い旅だ。どこまで?」
「父さんの行くところ、ぜんぶ」
少年は、かすかに笑った。
「……いいな。どこまででも行けるんだね」
その声は、少しだけ遠くを見ていた。
自分の世界の外へ踏み出したことのない者の視線。
けれど、そこにあるのは憧れではなく、喪失の中で立ち止まる者の、静かな諦念だった。
無名は、何か言いたくなった。
慰める言葉を探したけれど、漢語の引き出しは少なすぎた。
それなら、と。
袋から取り出したのは、小さな木彫りの馬だった。
拙い出来だった。脚は太すぎて、尾は折れかけている。だが、父に教わりながら削った日々を思い出すと、無名は少し誇らしくなった。
「これ……」
少年が受け取って、しげしげと眺める。
「……これは?」
「……馬……」
言ってから、少し恥ずかしくなって無名は視線をそらした。
だが次の瞬間、少年がふっと息を漏らす。
小さく、けれど確かに笑っていた。
「……ふふ、よく見たら、かわいらしいな」
その声に、胸がじんとした。
無名は顔を上げて、目の前の少年の笑顔を見た。
それは、無理をしていない、思わず漏れたかのような、自然なものだった。
ほっとして、無名も小さく笑みを返した。
「おれがつくったやつ。あげる」
「いいのか?」
無名が小さく頷くと、少年は木彫りの馬を大切そうにゆっくりと握りしめる。
「……ありがとう。大事にするよ」
その声に、少年の中の迷いが薄れたのを感じた気がして、嬉しくなった。
それからしばらく、草の上に並んで座ったまま、二人は互いの話をした。
無名は、自分の住む土地の話をした。山羊や兎を追いかける日々、夜の風、どこまでも続く草原、母の作る乳粥の味。
無名は、口数の多い方ではない。
それでも、知っている言葉で、拙いながらも一生懸命に。
少年は静かに耳を傾け、ときおり頷いていた。まるで、遠い場所の話を聞いて、少しだけ現実から離れていたいような、そんな様子で。
やがて、遠くから「無名!」と呼ぶ父の声がした。
名を呼ばれた瞬間、少年が少しだけ目を見張ったのを、無名は見た。
「……行くね」
立ち上がって、少し名残惜しそうに振り返ると、少年は木馬を握ったまま小さく頷いた。
「また、会えるかな」
「……どうだろ。すぐに発つって言ってたから」
「そっか」
少年はそれ以上は言わなかった。ただ、寂しさと静けさを等分に含んだ顔で、手を振った。
無名は応えるように手を挙げると、草むらを離れ、父のもとへと走った。
その背には、風が吹いていた。小さな旅の、ほんのわずかな、でも確かな一瞬だった。
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山野の夜は冷たかった。
焚き火の煙がまっすぐに昇り、乾いた草の香りが鼻に残る。
火を囲む男たちの声は次第に静まり、眠りへと沈んでいく中、無名は独り、手の中の小刀をいじっていた。
刃先は磨かれて鈍く光り、持ち手には、名も知らぬ獣の革が巻かれている。彼がそれを手に入れたときの記憶はない。
記憶のほとんどは、曇ったままだった。
名前だけは残っていた。「無名」。それが与えられた名か、本来の名かも分からない。
「名が無い」と書いて「無名」。
皮肉のように思うときもあった。
それでも、名があるというだけで、生きるための仮初の形は保てていた。
無名は流浪の武芸者として日銭を稼ぐ日々を過ごす中で、関羽と出会い、その縁からか、自然と劉備の傍に在るようになった。
参謀でも、義弟でも、郎党でもない。ただ、ときに黙って助言し、ときに剣を取り、ときに火の傍で黙って酒を酌み交わす。
そうした曖昧な距離が、不思議と心地よかった。
「……なぜここに居てくれるんだ?」
ある晩、劉備はそんなことを問うた。
酒がまわり、火が小さくなった頃合いだった。
「お前ほどの者が、どうしてここにいるのかと、時々思う。……俺には、もったいないくらいの縁だ」
「……ここが、一番落ち着く」
「賑やかなのが好きなのか?それとも、雲長や翼徳がいるからか?……どちらでも、お前が望んでここにいてくれるなら、俺は嬉しいが」
「それもあるかも知れない。それに……劉備から離れるには惜しいと、思っている」
答えてから、無名は我ながら率直すぎたかと思った。
だが劉備は笑っただけだった。乾いた笑いではなく、少し照れたような、それでも嬉しそうな響きだった。
「まさか、俺を理由にしてくれるとはな」
ふと、無名の胸に痛みが走った。
――何かを思い出しかけた気がした。けれど、それはすぐに霧の奥へ消えた。
代わりに浮かんだのは、草の上に座る誰かの背中。木の香りと、手の中の……何か。
それが何かを探ろうとすると、意識の底に冷たい水が流れ、記憶はまた沈んでいった。
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夜の帳が降りた汝南の一隅、焚き火の光が仄かに揺れている。
野営の一角から少し離れた、草の匂いの濃い場所だった。土と草、それからほんのわずかに湿った空気――かつて、別の街外れで嗅いだ匂いと似ていた。
無名は静かに歩を進める。焚き火の明かりも人の気配も背にして、草の中に佇む影に目を留めた。
劉備だった。
膝を抱えるようにして、少し前屈みになっている。冠に結かれた鶯色の緒が、風にゆったりと揺蕩っていた。
その姿を見た瞬間、胸の奥がざわめいた。
――まただ。
ここ数年で何度も見た光景。国を失い、人を失い、それでも立ち続けようとする劉備が、ふと力を抜いたときの横顔。
けれど、今日はそれが違って見えた。
いや――違うのではない。似ていたのだ。
もっと昔に、一度だけ見た顔。
草むらの中、何もかも失った少年が、木々の向こうに座り込んでいた――あの日の記憶。
無名は、そっと近づいた。そして、小さな声で問いかける。
「……また、迷子か?」
劉備が、驚いたように振り返る。
その顔には、かすかな戸惑いと、遠い記憶を探るような光があった。
「……なんだろうな」
静かに、劉備が言葉を継ぐ。
「お前には……はるか昔にも、そうやって同じことを言われた気がする」
焚き火の音が遠くでくぐもって聞こえる。
無名の心が、ふっと何かを掴みかけた。
風が吹いた。草の匂い。あのときと同じ、土と、風と、心の奥をくすぐるような香り――
「……俺は、劉備に会ったことがある」
気づけば、そう口にしていた。
劉備が眉をひそめる。
「それは、ここ数年のことか?それとも……もっと、昔に?」
無名は答えず、ただ膝を折って劉備の隣に腰を下ろした。
「……木馬を、覚えてるか?」
しばしの沈黙。
そして――
「……ああ」
劉備が、ゆっくりと頷いた。
「粗削りで、尾が折れかけてて……けれど、なんだか捨てられなくて。ずっと持っていたんだ、あれを」
声が震えていた。
「なくしたと思ってた。でも……この前、荷を整理していたら出てきて、ふと、笑ってしまったよ。なぜか懐かしくて。……名前も顔も思い出せない誰かから、もらったものだってだけで」
無名は、目を閉じた。
ようやく、記憶が一つに繋がった気がした。
あの日の草の匂い。しゃがみ込む少年。
差し出した不格好な木彫りの馬。
「……それ。俺が彫ったやつだ」
ぽつりと言ったその声に、劉備が息を呑む。
目を見開き、無名を見つめる。
「……無名……」
その名を、幼い声で呼んだ気がした。
そして同時に、無名の中で、失われた時間の重さが落ちてくる。記憶のなかで笑った劉備が、今も隣にいる。十数年の空白を越えて、目の前にいた。
「もう、会えないかと思っていた」
それは、どちらの言葉でもあった。
二人の間に、長い沈黙が落ちる。
だがそれは気まずさではなかった。忘れかけていた記憶の重さを、互いに確かめるような、静かな時間だった。
やがて劉備が、懐から小さな布に包まれたものを取り出した。
開かれた中に、あの木馬があった。
尾は折れていない。無名が覚えていたより、ずっと丁寧に扱われていた。
「……これだ」
無名は、言葉が出なかった。
その小さな馬は、遠い日の記憶と、今この瞬間とを繋ぐ、ただひとつの証だった。
「また、会えたな」
劉備が、微笑んだ。
無名は、何も返せなかった。ただ、心の奥にずっと抱えていた痛みが、少しだけ溶けていくのを感じていた。
火は、まだ遠くで揺れていた。
風が草を撫で、星がまたたいている。
変わってしまったものも、失われたものも、たしかにある。
けれど――
「……ありがとう」
そう呟いたのは、劉備の方だった。
まるで、遠い日の続きを語るように。
「お前が、いてくれて、よかった」
無名は頷いた。
そして、そっと言葉を返す。
「……また、迷ったら、言え。いつでも聞いてやる」
草の匂いと、夜の風が、それを包んだ。
そして二人は、かすかに微笑み合った。
過ぎ去ったものが、確かに在ったと、互いの目に映したまま。