呂劉(前日譚)徐州の風は、故郷のものとはまるで違う。
匂いも、潮気も、その温度すら、何もかもが異なっていた。
肌に纏わりつくようなその空気は、都で感じた不愉快な視線とも重なるようで、呂布は僅かに顔を歪める。
武を奮えばどのような者であってもその目に畏怖を宿した。だが、それだけではない、その裏で混じり合った侮蔑の色。
生まれは何処か。親は誰か。都に染まった文化の中では、その問いから逃れることはできなかった。
個の武であれば比べ物にもならないような奴等に、何故己を評価されねばならぬのか。
――要らぬ感情を思い起こしていることに気付き、振り払うように息を吐いた。
劉玄徳。救援の依頼に応えたというが、どうか。
虎牢関で刃を交えた時、そこらの雑魚よりは骨があると感じたがあれから状況は変わった。権力を得た獣が腐臭の漂う方へ転がり落ちていく様を幾度と見た。
だが、徐州は陶謙の代から曹操と明確に敵対している。それを継いだと言うなら多少は期待できるかもしれない。
呂布は、赤兎の腹を軽く蹴った。馬は短く嘶き、湿った土を掘り上げて駆け出す。
少しは楽しませてみせろ。
誰に告げるでもなく、そう呟いた。
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「呂布殿は五原郡の生まれですよね」
秋の気配が漂い始めた頃。
赤兎の世話をしていた呂布を訪ね、厩舎に顔を出した劉備が二、三事務的な会話を終えた後、突如切り出した。
「いきなり、何だ」
「ああ、いえ……"共に辺境の地から来た"と言われて思い出したのですよ。幽州の風を。ここ徐州とは対と言えるほど異なる。あなたの故郷もそうであったのかと」
劉備はそう言いながら、慣れた手つきで厩に藁を敷き始める。
こういった事を手ずからやる領主がいるものか。妙なものを見た気持ちになり、呂布は思わず眉間に皺を寄せる。
「徐州は特に、夏の間は時折長雨もあり酷くじっとりとしていますから。気温の高さ故か放っておくと藁すら腐るとは、私も暫くは慣れませんでした」
珍しくよく喋る。――否、己が黙って聞いているからか。
劉備は藁を敷きながら、赤兎の脇に近づいた。
馬が低く嘶くと、彼は一瞬動きを止め、鋭く短い口笛を吹く。
赤兎が即座に落ち着くのを見て、呂布は目を細めた。その口笛は、並州の荒野で仲間が馬を御す響きを思い出させた。あの乾いた風の下で、共に獲物を追った日々を。
劉備は一通り藁を敷き終わると、軽やかに身を起こし、外を仰ぎ見る。
「作物はよく育つ気候なので、好まないわけではないのですが。やはり、時折恋しくなりますね。あの乾いた風が」
「風……」
戸から緩やかに抜けていく風は未だに生温い。
并州では、もう冬の匂いがしてくる頃合いだ。男達は獣が出歩かなくなる前に、皆馬に跨り狩りへ出る。そして女達は集まって干し肉等の保存食を作る。
身も凍るような寒さの中では、作物は満足に育たない。
そうして、冬の間に足りなくなれば街に降りて掠奪を繰り返す。当然、奪われることもある。食料も、命も。
故に、この時期は気が急くものなのだ。本来であれば。
「失礼、話しすぎました。この時期は馬が恋しくなるもので、つい、こちらへ」
「……貴様も、狩りへは行くのか」
問えば、劉備は少し驚いたように目を瞬かせた。会話を求めていたのではないのか。益々よく分からん男だ。
訝しんで見ていると、その温和な表情の目の奥に、獲物を追う獣のような鋭い気配が僅か宿る。
「若い頃は、好んで。友から馬を借りて、野に出る鹿や猪を狩りに出ておりました。追い詰めた獲物の息遣い、矢を放つ瞬間の静寂――あの風の中で、生きている実感がありました」
その声には、どこか生きるための渇望が滲む。呂布は少しこの男に興味が湧いた。
それは貴族趣味のものとは異なる、糧の為の狩猟だ。
やはり、この男の中には本質的に獣がいる。
獣とは、生きるために食らうものだ。
その中に、生への渇望がなければならない。
生を貪らねばならない。
「呂布殿は狩りの腕が非常に優れていると聞き及んでおります。いつか、この目で拝見したいものです」
劉備が一瞬見せた猛々しい気配は直ぐに鳴りを潜め、軽く拱手すると何時もの上手者の顔を見せる。そういうところが、どうにも捉えがたい。
「ふん、気が向けばな」
「楽しみにしております。では、これにて」
劉備が立ち去った後、厩舎には再び静けさが戻った。
新しく敷かれた藁の匂いだけがそこに残る。
赤兎は低く嘶き、呂布はその首筋をゆっくりと撫でた。
馬が走れば、風が裂ける。
そして、赤兎は腐った風すら引き裂いて、遠くへ運ぶ。
「狩りか……」
無性に、矢を番えたくなった。走るものを追いたいという衝動が、胸の奥で疼いた。
かつて馬の背で並び、血と泥に塗れた男達を思い出す。
劉備にも、あの地平を駆けた者たちと同じ風が吹いているのかもしれない――この重く湿った時代にあっても、その風を未だ抱いていられるのか。
暴き出してやりたい。中に眠る獣を。そして、北方の辺境から程遠いこの地まで、あの乾いた風を吹かせるのだ。
弱者はただ喰らわれていく、その明瞭な力というものを、天の下に示す。
呂布は、乾いた風の中駆ける獣は、それを望むものだと。その可能性を求めているのではないかと。
そういった期待にも似た想いを、劉備に抱いていた。