無劉思考に靄のかかったような、朧気な感覚の中にいることを、ふと思い出す。
それまで、自身が何をしていたのか、何を考えていたのか、そういうものがごっそりと抜け落ちていることに、疑問を抱かない。
そういった違和感を抱えているにも関わらず、思考や感情がまともに動いていない事をぼんやりと自覚した。
嗅いだことのない、甘ったるい匂いが周囲に充満していることにも、その時ようやく気づいた。
なんの匂いか考える前に、思考の果ての方から「蠱惑を齎す香」であると閃きがあった。おそらくは、失った記憶の中にあるのだろう。
どうやら一定の耐性はあるようで、こうして冷静に思考を巡らせることはできる。
だが、自身でさえ"こう"だ。
他の者達がどうなっているか、僅かな不安が過った。
『他の者達』の具体的な顔も浮かばない。ただ、自分以外に誰かいたはずなのだ。
視界は霞んでいる。霧の中にいるようだ。それが、香の在り処を覆い隠している。
僅かに息が上がる。妙な高揚を奥底に感じる。
あまり吸いすぎてはいけない。襟で口元を覆い隠し、あたりを見回す。
誰かの名を呼ぼうにも、うまく思い浮かばなかった。
俺は誰と行動を共にしていたのか。
そもそも、ここに至ってどれほどの時が流れているのか。
その状況に、焦りを覚えた。
闇雲に動くのは得策じゃないだろうと、足元を確認しながら前進する。
この霧を抜けなければ、まともな思考が紡げるように思えなかった。
霧を裂くように数歩を進んだ先で、人が倒れ込んでいるのが見えた。
近づき、その姿を目に留めた瞬間、血の気が引いた。
「――劉備……!」
そうだ、俺は劉備を探していた。
見失ってどれだけの時が経った?
駆け寄り、外傷がないことを確認する。
肩口がゆっくりと上下しているのが見て取れた。死んではいない。意識を失っているだけのようだ。
荒くなる呼吸を、なんとかして落ち着かせる。
何故、このような場所で倒れている?香の影響なのか。その肩にそっと手を置き、仰向けにさせる。
乱れた髪を払ってやり、顔を覗き込めば、穏やかに眠っているように見え、一先ず安心する。
「劉備……」
声を掛け、小さく揺すってやるが、目を覚ます気配はない。
その頬に手をやると、呼気が、指に触れた。
途端に、酔いのような感覚が脳を支配し、背筋をゾクリとしたものがかけていく。
「――ッく……」
香。
まるで警告のように、甘ったるい香が鼻腔を刺す。だが、それすら抗えぬほどの揺らぎが、視界を覆い尽くしていた。
まずい。
このままこの場所にいては、今劉備に触れては、まずいことになる。
直感としてそれがわかるのに、体が思うように動かない。
おかしい。俺には耐性があるはず。そのように仕込まれている。
それが、何故こんなに。
蠱惑。
ああ、そうだ、これは覆い隠した感情を表に引きずり出す。
房事の最中に焚き、情を揺さぶり、酩酊させ、自白させる。
その為に使われた香だ。
――己の理性が軋む音を立てている。
にもかかわらず、指先は劉備の装束へと伸び、布の結び目を解いていた。内側に忍ばせていた短刀を抜くと、音を立てぬよう慎重に、それで綴じ紐を断つ。躊躇はあった。だが、それは動作を止めるほどの力を持たなかった。
劉備の胸元が緩み、肌の白さが露わになる。煤に染まった衣が脱げていくにつれ、胸から腹、脇腹へと、静かな起伏があらわになる。傷のひとつ、痣のひとつまでも、無名は目を逸らすことができなかった。
こんなことを、望んでいない。
そう口の中で何度も繰り返しながら、指は彼の帯を緩め、着衣の裾へと滑る。
――違う。
本心では、望んでいたのだ。
この手で暴くことを、その肌の体温を知ることを。
己の欲を真面に見つめたことはなかった。
ただ目を逸らし続けていたものが、表に出ただけだ。
だから、背中を汗が伝っても、罪悪感が喉に引っかかっても、指の動きは止まらなかった。
まるで、自分ではない何者かに憑かれているかのように。
いや――
その“何者か”こそ、自分自身だった。