最高の朝に「…………う」
風の音がしている。
中也が眼を開くと、淡い色彩をなびかせた夜明けの空が視界に広がった。
いつもより広いと感じる。胸のすくような晴れやかな広漠。寝起きのまなこには鮮烈に映る……のではなく、単純に、視界を遮る建造物が無いからだった。
瓦礫の山。
汚濁が暴れた結果だった。
記憶ははっきりしている。中也は横浜上空で龍の化物を圧倒し、太宰に一発呉れてやって、此処に着地した。
汚濁の後はどうしても体力回復が優先される。霧が晴れていることから、中也が眠っている間に事件は解決を見たようだった。
あの太宰の采配なのだから当然と云えば当然で、前座扱いが些か面白くないが、こうも的確に性格や行動パターンを読まれていると、むしろ清々しい。今日だけは、そういうことにしておいてやる。
どのくらい眠っていたか。歩いて移動できる程には回復していない。携帯端末もないし、誰か通り掛かるだろうか。
中也は身じろぎして、背を預けている瓦礫の感触をたしかめた。こんなものでも、案外悪くない寝心地だったようだ。
「おや、お目覚めかい?」
すぐ傍で声がした。聞こえたというよりも、振動が身体に伝わった。
中也は声の方に視線を遣る。
見慣れない白いスーツ姿の太宰が、見慣れたいけすかない笑みを浮かべて、中也を見ていた。
「君が寄り掛かって爆睡しているから、私は一晩身動きが取れず酷い目に遭ったよ」
肩が寄り添っている。
中也は眉間を僅かに寄せた。
「大方、手前がそうしたンだろ。霧が出ている間は異能が分離する可能性があった。……なんで未だ居る?」
霧はすでに晴れている。元凶の異能は排除され、ならば太宰が此処に留まる必要はない。
「その前に、君こそ、いつまで私にくっついてるの?」
「気色悪い云い方すんな……、動けねえンだろうが。あンだけ汚濁に晒されれば、ちょっと寝たくらいじゃ如何にもならねえ」
大袈裟でなく、全身が極度に消耗している。これはしばし休養が要る。
「私が死んでいると判っていた筈だ。横浜を救って、君も死ぬ心算だった?」
「計算ずくだったくせによく云う。手前は悪運だけは強いからな。そいつと手前の予測を掛け合わせれば、死は織り込み済みの要素で、つまり俺が俺のしたいように殴れば、手前は痛がるだろうと思っただけだ」
「そんな莫迦みたいな理由で追いかけてくるの、君くらいだよ」
「うるせえ」
太宰がくすくす笑う。
中也は舌打ちして、力の入らない自身の腕や脚を眺めた。肩を借りていることは、この際致し方無しと考える。“太宰が排除された事実”は本当だったろうし、瓦礫に囲まれ、ふたりともぼろぼろだ。
「で?なんで未だ此処に居る?」
太宰が勝利した盤上には、彼の取っておきの駒が置かれた。本件の真打ちとして据えられたのは芥川と、探偵社の新人。武装探偵社の連中も近くにいる筈で、霧が晴れても合流しないのはおかしい。
「それより、どう?この衣装。似合っていると思わないかい?中也のこじんまりとした体格じゃァ、こうはいかない」
「はァ?手前は似合う以前に、胡散臭えンだよ」
中也は太宰の肩に頭を載せたまま、「あからさまにはぐらかすじゃねえか」と太宰の反応を意外に思った。真逆、中也の身を案じて目覚めるまで待っていた訳ではあるまい。
明るさを増した空が光って見える。この男を信じていたとは云え、際どいところだった。今回もどうにか生きて戻れそうだ。
「なんだよ。裏切った手前、探偵社とは顔を合わせづれえか?作戦だったンだろ?」
中也や探偵社、異能特務課、横浜丸ごとを騙し遂せる、大胆な作戦。
「……ちがうよ」
太宰がそっとつぶやいた。それから調子を変え、「私がその程度で痛む良心を持っていると?」と笑う。
「クソ野郎が」
「ふふ……」
どこかで瓦礫が崩れた。静かだ。全部終わった。
「私は死んだのだよ」
「手前の書いたシナリオどおりに」
「君に後を託して」
「露払いだろ?」
「龍が斃れないと、恐らく横浜は早々に地図から姿を消していた。同じことだよ」
中也は太宰の言葉を聞いている。まだ十分に動けなくて、太宰も此処を去ろうとしないから、仕方なくそうしている。一方で、過剰に嫌悪する気持ちは湧いてこない。対立するにもエネルギーが要る。
肩越しの体温があたたかい。
「中也。汚濁を使った後は、かならず、君と私の二人きりになるねえ」
汚濁という重力渦の中心には中也がいて、太宰は中也に地面を取り戻させる唯一の人間。あらゆる物は吹き飛び、二人しか残らない。
「そりゃ、一時的にはな」
「いつもはしない話が出来る」
中也は、傍らに並んで投げ出されている長い脚を見遣る。白いスラックスが薄汚れている。
太宰は敵も味方も手玉に取るが、何かを得るために、自ら損な役回りを演じているだけなのではないか。だとしたら、救いようがなく不器用な男だ。
「懺悔でもする心算か?」
「したら聴くかい?」
「……いいや、やめとく。探偵社の――手前の仲間にでもしやがれ」
「吝嗇」
ひしゃげた骸砦が向こうに見える。トロフィー、或いは墓標だ。
起こった事の因果関係や経緯は中也には判らない。帰投したら顛末を含め、首領から何か聞けるだろう。とにかく今はクタクタだ。
少し頭を持ち上げて、太宰の肩を小突く。
「太宰。次死にかけても、俺は知らねえからな」
「と云うと?」
「今回みてえに駆けつけると思うなよ」
「ふーん、そう。絶対に?」
「ああ」
「私には、次も私の筋書きどおりに走ってくる君が見えるけど」
「ぜってえ行かねえ。勝手に死んでろ」
「ふふ、たのしみだねえ」
彼には掌の上で転がされて久しい。中也は負け惜しみのような舌打ちをする。
風に乗って、海辺の方角から人の声が聞こえてきた。数人分の明るい声だ。
「おや、皆んな無事に合流したようだね」
「行けよ、探偵社」
行って、謝罪でも弁明でもすればいい。
太宰が立ち上がり、中也の肩は硬いコンクリの残骸に預けられる。組織も動き出す頃合いだ。待っていれば迎えが来る。
眼の前で白い長外套が翻った。嫌味なくらい似合っている。
「真面目に、如何して此処に留まってた?いつもさっさと放っていくだろうが」
「知りたいの?先刻はやめると云ったのに」
「あ……?それくらい訊いちゃ悪いか?」
空がまぶしい。中也は眼を細めて太宰を見上げる。
彼は中也を見返し、幾分ぎこちなく空気を吸い込んでから云った。
「君が好きだからだよ」
「…………」
脳味噌が、言葉を捉え損ねて停止する。
なんだ?いつかの再現か?
夜明けのハイテンションジョーク?
「………………もしかして、笑うところだったか?」
「全然違う……」
期待に添えなかったのか、太宰は何やら不満そうな返事をしたが、中也は汚濁の消耗で昏倒し、つい先刻目覚めたばかりだ。意図不明な問答に付き合う余裕はない。
「……悪いが、手前の謎解き遊びには、」
「謎解きじゃない。暗号、符牒、何かのキーワードでもない。そのままだ」
「そのまま……?……ああ、労いか?」
珍しいこともあるものだ。
太宰は海辺の方を気にしながら、しぶしぶといった表情で、中也の前に片膝をついた。
「……なんだよ」
「判っていないようだから」溜息をつく。
同時に、耳に掛けてあった髪がこぼれ落ち、眼に馴染み深い蓬髪になる。
「私は君が目覚めるまで傍に居て、その理由に好きだからだと云った。他にどんな意味があると?」
「…………」
言葉がいたずらに上滑りする。理解が追い付かない……もしくは、頭が処理を拒んでいる……。
「なに、云ってやがんのか……」
やけに真剣な瞳がにじり寄って、中也を覗き込んだ。
中也は動けない自らの現状を呪った。死ぬかもしれない覚悟で空へ飛び出した時よりも、今この瞬間の方がよっぽどビビって帰りたいと思う。
太宰が更に距離を詰めた。
「つまり、私は君に並々ならない感情を寄せていて、行動で表すならば、手を握りたいし、デェトに出掛けてキスをしたり、あわよくば寝台でめくるめく夜を――」
「待て待て待て黙れ変態!」
中也は慌てて声を荒げた。
「やっと判ったようだね」
「ンな訳ねえだろ!巫山戯るのも大概にしろ……!」
思い切り殴る算段ではあったが、打ちどころを拙っただろうか。自分たちに限って、そんな事態は万が一にもありえない。……ありえないのに、ひどく動揺している自分がいる。
「その割には、顔が赤い」
「赤くねえ!」
「そう?」
太宰はにこりと微笑んで立ち上がった。
「さて、そろそろ行かないと」
つぶやいて、風に遊ぶ髪をもう一度耳に撫でつけた。その仕草がリアルに中也との時間を惜しんでいるように見え、中也は苦い顔をする。
嘘を操るこの男は、重要な交渉ほど絶妙に真実を忍ばせる。それが今なのかは判らない。まんまと太宰を追ってきた中也を揶揄っている可能性だってある。
だが、瀬戸際で生命を預け合ったあとに仕掛けるのは狡いのではないか。
中也は太宰を睨みながら「嘘だよ」の一言を待ったが、彼は長外套をはためかせるばかりだった。
頭上に澄んだ空と、地上に瓦礫の山。
二人きり。
まぶしい、勝利の朝。
太宰がそっと笑って背を向けた。
「またね、中也」
中也は呼び止める言葉を呑み込んだ。
背中を見送り、息を吐く。剥き出しの腕をさすって、ダメージと称するに相応しい身体の重さに眼を閉じる。
何も考えられない。寄りかかる瓦礫が硬いことだけ判る。
夜は明け、濃い霧は晴れて、物事のかたちは明瞭に、自分たちの居る場所を浮き彫りにする。それは予想だにしない、青天の霹靂で。
「…………彼奴、マジかよ」
中也は小さく舌打ちをして空を仰いだ。