短々編その2その日、青年は珍しく仕事が無かったため、毎回の事ながら夜遅くまで飲み歩いていた。
昼過ぎに起きた後食事を済ませると、夜まで二度寝をする。
そしてそこから飲み歩くという、もはや自堕落と言っていい過ごし方が青年の休日だ。
泥酔した勢いで女性に絡み、あれよあれよとホテルへ連れ込み、そして翌昼に一人で目を覚ます頃には全てを忘れている。
それが彼の休日の過ごし方だった。
「あー……だりい」
夜の街に繰り出した青年は、一人呟いた。
時刻は午後10時を回ったところ。
しかしまだ街は眠らず、むしろこれからが本番だと言わんばかりに賑わっていた。
そんな街の中、青年はふらふらと歩きながらも、どこか目的地があるのか迷いなく進んでいく。
狭い路地裏を通り抜け辿り着いた先は、小さな店。
そこは青年がオーナーを務める隠れ家的なバーだった。
オーナーとは言いつつも彼はほとんど店に居ることはなく、店は彼の妹が切り盛りしていた。
「ただいまー」
「……あら、おかえりなさい兄様。帰ってくるなら連絡してくれれば良かったのに」
「悪い、すっかり忘れてた。……で、店は?」
「この後予約がお一人」
「そっか」
青年は誰も居ないカウンター席に座ると、そのまま突っ伏した。
「もう、こんなところで寝ないでください。ほら、お水」
「……ん、さんきゅー」
妹に差し出された水を一気に飲み干し、再び突っ伏す。
そんな青年に呆れながら、妹は鋭く問いかけた。
「…また女性関係ですか」
縮こまった青年の肩がギクリと跳ねる。
「…………そんなに分かりやすいか、俺」
「いいえ。ただ普段なら帰ってくるのは大体午前中ですから」
汚らしい物でも見る様な目で青年を見つめる妹。
青年はその視線に居心地の悪さを感じながらも、反論することはできなかった。
妹の言う通り、青年は自身の女性関係にだらしない性格を理解していたからだ。
そして、そんな自分の性根を治す気がないのも自覚していた。
「……はぁ、まあいいです。さっきも言った通りこの後予約のお客様がいらっしゃるので、くれぐれも!大人しくしていてくださいね」
青年はそんな妹の小言を聞き流しながら、氷だけになったグラスを傾ける。
「哀れな兄様の愚痴ぐらい聞いてくれよ」
「嫌ですよ生々しい男女関係の話なんて、それも実兄のなんて尚更聞きたくない」
「酷えなあ」
そう言いながらも、青年の口元は緩み切っていた。
青年は女性に対してだらしないが、しかし同時に極度の寂しがり屋でもあった。
両親を亡くした彼は、兄であるという使命感から妹に弱みを見せるまいと、強くあろうとした。
しかし甘えられる相手もおらず、寂しさを埋めるべく女性関係に走る様になった。
「それで、予約の客って?」
「…お得意様ですが兄様、逃げるなら今のうちですよ」
「おいおい、俺が逃げるとでも?何で?」
青年はグラスを傾けながら、妹に問いかける。
妹はそんな兄を呆れた目で見ながらも、律儀に答えた。
「いえ。…でしたら兄様、お客様が来られても大人しくしていてくださいね」
「へいへい」
分かっているのか分かっていないのか、適当な返事をする兄を尻目に、妹は何かの支度をすべく店の奥へと引っ込んでいく。
このバーには裏の顔があった。
一見すると、治安の悪い繁華街には不釣り合いな落ち着いた店である。
しかしながら裏社会に深く関わる者にとっては、この店は重宝されていた。
というのも、この店では臓器の密売が行われているからだ。
そして、青年の店は臓器売買の取引場所として使われていた。
酒場としてはさほど賑わっていないこの店にわざわざ予約を取る客は、その裏取引目当ての人間ぐらいだった。
時刻は午後11時より少し前。客は一人も入らなかった。
青年が一人、カウンターでグラスを傾けていると入り口から声がかけられた。
「御免下さい」
妹はそれを見計らっていたかの様にカウンターに出ては笑みを浮かべる。
「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」
カウンターに突っ伏したまま面倒そうに振り返った青年は、そこにいた人物を見て目を見開いた。
「……っ!」
彼にとっては見覚えのある顔だ。
歳は20代半ばほど。黒い旗袍に身を包み、色付きの眼鏡をかけた長髪の男。
「おや、これはお久しぶりですね」
紳士的に振る舞う彼はに対し、青年は気まずそうに目を逸らした。
青年は先日、自らの誤解から彼に暴行を働いたばかりだった。
「あー、その、なんだ」
青年はバツが悪そうに頭をかきながら、席を立って彼の前に歩み出る。
「こないだは悪かったな。……怪我はどうだ」
「えぇ、この通り」
男は抜糸したてといった手のひらを見せる。
かさぶただらけでどうにも痛々しいその傷跡は、他でも無い青年自身が付けたものだ。
「うわ、その……。悪かった」
「お気になさらず」
青年はバツが悪そうに視線を彷徨わせる。
そんな青年に対して男は何か考え事をする様な素振りを見せた後、あの、と問いかけた。
青年は男から話しかけられるとは思っておらず、驚きながら顔を向けた。
その瞬間、男は青年の頬を平手打ちした。
「っ!」
パァンと軽い音が店内に響く。
青年は突然の出来事に目を見開き、戸惑ったように男を見つめた。
「…これで、おあいこです」
男は何でも無いような顔で手をさすると、青年から一席分離してカウンター席に腰を下ろした。
「……ははっ!随分お人好しだなお前」
そんな男の対応に、青年は空いた一席をわざわざ詰めて男の横に座る。
男の背中をバシバシと叩いては妹にメニュー表で頭を叩かれる青年。
男は呆れた様な顔をしながらも、その口元は僅かに緩んでいた。
「兄がすみません。…お先に何か呑まれますか」
「いえ、僕は下戸なので。それよりも予約した件を」
あぁ、と手を叩き妹は店の入り口にかかったプレートを裏返し、「Closed」の面を表にする。
「丁度、他のお客様も居られないので店を閉めました。ご遠慮なくどうぞ」
「ありがとうございます。では、本題に」
男はそう言うと一枚の封筒を懐から取り出した。
「これは……?」
妹はその封筒を受け取り、中身を取り出した。
その中身は一枚の書類と、とある中年男性一名の写真が数枚。
冴えない見た目だが、表情からずる賢さが滲み出たタヌキのような男だった。
「これは?」
妹はその書類に目を通すと、困惑した様に男へ視線を向ける。
「ンだこの地味なハゲオヤジは」
青年は顔をしかめて写真を見ていたが、妹は何かが引っかかるといった様子で書類を再び読み返していた。
「…この方、たまにこの店に呑みに来られますね。常連と言うほどでは無いのでこれと言った印象はありませんが」
妹は書類をテーブルに置いて答えた。
男もまた、その書類を一瞥して頷く。
「…そうですか。やはりこの方は僕がお貸ししたお金を踏み倒してまで飲み歩いていたと」
男は独り言の様に呟くと、二人の方へと向き直った。
彼らはその呟きから不穏な空気を感じ取りながらも、静かに男の出方を伺う。
「少し…無理なお願いをしても?」
男は、表情を全く変えなかった。
「この方が次に来店した時、彼のお酒の中に睡眠薬を混ぜてもらえれば後は……そうですね、身柄はこちらで…」
「小慣れた様にえげつねえこと考えられるなアンタ」
青年は男の言葉に若干引き気味に反応した。
しかし男はそれを無視し、妹に向かって問いかける。
「すぐに連絡をいただけますか」
「……えぇ、分かりました。しかしですね」
「勿論、眠剤は此方で用意してます」
妹の言葉を遮り、男は懐から何かを取り出した。
それは小さな袋に入った白い粉だった。
どこから入手したのやら、兄妹達には縁のないものだ。
「……そうではなくてですね」
妹は男に対し、怪訝そうに眉を顰めた。
「この方、薬など使わずともアルコールに弱くいらっしゃるのでいつもより強めの酒をお出しすればそれで充分です」
その反応に対し、男は目を細める。
「……特に印象は無いと言った割に、随分とよくご存じですね」
「……」
男の鋭い指摘に、妹は沈黙した。
その反応を見て青年は妹を庇う様に男との間に割って入る。
「あンな。ウチの店、地下の店ではモツ掻っ捌いたり悪い事色々やって文字通りアンダーグラウンドなんだが、バーに関してはちゃんと許可もらって営業してんだ。拉致の片棒担ぐのは、ちょっとな」
「……」
妹はそんな兄の言葉に驚いた様に目を見開く。そして、男もまた青年の言葉に僅かに目を見開いた。
「……そうですか。それは失礼しました」
男はそう言うと、懐に薬をしまい込んだ。
「…では、連絡だけいただけますか。あとはそちらにご迷惑はおかけしません」
男はそういうと、少しの金銭をカウンターテーブルに置いて立ち上がった。
「では、僕はこれで」
男は青年の方を向き、眼鏡を指で押し上げる。
「は?何の金だよ、何も呑んでねぇだろアンタ」
困惑した様子で問いかける青年。
男はそんな青年に、静かに微笑んだ。
「お気になさらず」
その笑みは、目元だけ笑っておらず何処か不安を感じさせるものだった。
「……では、また来ます」
男はそれだけ言うと踵を返して店を出て行く。
青年はその背中を見送ると、カウンターに置かれた金銭を妹へと渡した。
「…口止め料か。…ヘイ、シスター!この金でウイスキーちょーだい」
「兄様!」
「ンだよ、大丈夫だって」
妹に睨まれ、青年はバツが悪そうに頭をかく。
「ああいう仕事の奴は金払って安心したいだけなんだよ。すぐ寝返る奴がゴロゴロ居る世界なんだしな」
青年はカウンターに置かれたグラスの氷をいじりながらそう言った。
妹は、はぁとため息を吐く。
「まあ、確かにそうかもしれませんが」
「……それに、だ」
青年は氷を弄っていた手を止めて妹を見る。
「お前もあいつと取引して長いだろ」
「まあ、それは」
青年はグラスを掲げながら、にやりと笑う。
「分かんねェけど、多分大丈夫だろ」
「……はぁ」
妹はそんな兄の楽観的な様子に、再びため息を吐くのであった。
「…あ、ウイスキーは勿論ロック、氷はでっけぇまん丸のやつにしてくれ。あれオモロいから好き」
「……注文が多いですね」
ここは路地裏にある隠れ家的なバー。
入り口の札がClosedになったままであることに気付いたのは、酔い潰れた青年が床にひっくり返った後だった。