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    GofaboCho

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    GofaboCho

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    おじさんの話のテキスト版です

    画像出力したそばから加筆したりしてるので若干違うかもしれない

    ##義高おじさん
    ##長めの怪文書

    義高おじさんが羽化しちゃった話 枕元でアラームが鳴っている。
     午前六時、起床の時刻だ。医師の指示に従って早寝早起きというものを実行してみた。存外上手く運びそうだった。
     気分転換と健康のために料理をしてみてはどうか、と提案されたはいいものの、なにを作ればいいかわからない。そう申告すると、医師はならば朝食、あるいは昼食、夕食と検索して、一番上に出てきたものを作るといいと答えた。検索欄には簡単とつけ加えるように、とも。その表情には、隠しきれなかった呆れの色が浮かんでいた。
     指示通りに準備を進めようと冷蔵庫を開いた。携帯を見ながら冷蔵庫を見渡しても、材料に該当する食材はなに一つなかった。
     散歩をしてみるのはどうか。新田さんの提案だ。外出を厭う私に、換気をするために窓を開けながら、彼女がそう言ったことがある。
     散歩と料理。二つの提案を実行するために、私は財布と携帯を持って家を出た。
     ランニングウェアを着た何人かとすれ違う。通勤中と思しき男性が、走って私を追い越していった。朝の街並みは、シャツ一枚で出てきたことを悔いるほどには冷え込んでいた。
     スーパーに足を踏み入れて、カゴを持つ。棚に商品を並べる店員の他に人はいない。携帯の画面を見ながら材料を拾い集めると、同じところを何度もぐるぐると回っていた。そうして無駄な時間と体力を費やして、やっとレジまで来たところで買い物袋を忘れたことに気付いた。つい最近、あまりレジ袋をもらいすぎるなと新田さんに言われたばかりだった。
     すべてにおいて手際の悪い買い物には、思っていた倍の時間がかかった。家に帰ったのは八時過ぎだった。まだまだ朝とは呼べるだろう。
     検索したレシピの通りに作業を進める。包丁は危ないから触るなと母に言われたのをぼんやりと思い出した。今の私には切って困る指はない。そう思いつつも、三回指を切ったところでやはり包丁など触るべきではなかったと後悔した。慣れてしまえばどうということもないのだろうが、己がそれほど料理に熱心になるとは思えなかった。
     そうして一時間が経とうという頃に、私は食卓についた。味の善し悪しについてはよくわからない。ひとまず人体が拒絶するような代物にはならなかったのが幸いだった。
     なにとはなしにテレビをつける。情報番組のテロップをぼんやりと眺めながら、咀嚼と嚥下を繰り返した。
    〈スイスの国際コンクールで日本人バイオリニスト、柴田葵さんが入賞し――〉
     スプーンを持ち上げようとした手が動かなくなった。
     アナウンサーが読み上げたその名前。私は彼を知っている。私が先生の推薦で楽団に指導を行っていた頃、ヨハンが気まぐれに連れてきた日本人留学生だ。ドイツに来たばかりで右も左もわからない彼に同じ日本人の私の存在を示すことで、なにかしら安心感を得られるかもしれない、と。楽団の厚意に預かって、何度か公演に加わったこともある。
     その彼が、報道陣に囲まれてテレビに映っていた。
     彼は笑顔だった。スイス訛りの強い現地メディアの問いかけにも臆することなく答えている。堂々とした振る舞いは、彼の姿を視聴者に大いに印象づけたことだろう。
     けれども。
     穏やかな笑みを浮かべる彼の目の奥。静かな喜びを示すその奥底に、ギラギラと燃え盛る渇望の炎を見た。闘志のようにも思える激情に身のすくむ思いがした。
     今の彼のような目を見たのは初めてではなかった。格式高い賞をもらう場には、あの手の目をした人間はいくらでもいる。私がそれを見ないようにしていただけだ。真っ向からあれに向き合うのは危険だ。見てはならない。頭のどこかで理性がそう警鐘を鳴らしていた。そのはずだった。
     彼の視線がカメラを捉える。カメラ越しに、彼が私を見た。
    「――」
     かつて先生は私の目を称してアメジストと言い表した。それに倣うならば、彼の目は石英だった。打ち金に叩きつけた瞬間に迸る火花が、瞬きの間に燃え広がって私の――葦のように空虚な私の心を焼いた。


     その目を見てはいけない。私が直感で判断していたことだった。なぜそうなのかはわからない。否、ずっとわからないふりをしていた。そうでなければ、私が今まで築き上げてきたものをすべて失うような気がした。思考の先には、私が私でなくなるような、漠然とした暗闇が広がっていた。
     けれども。けれども、だ。
     私はその目を見た。そこから散った火花は大きな炎となって暗闇にあったものの輪郭を照らした。私が見ないふりをしてきたものが、確かにそこにあった。
    「弦弓さん!」
     女性の叫び声が聞こえて、はたと我に返る。
    「……え?」
     私の手には学生時代を共にした彼女がしっかりと握られていて、途切れた一節の余韻を響かせている。
     隣には新田さんが慌てたような顔をして立っていた。
    「やっと気付いた……芸術家さんっていうのはみんなそうなんですか? 熱中すると周りが見えなくなるとか、そういうの」
    「……」
     半ば呆けたような心地の私は答えられなかった。
    「聞こえてなかったと思うのでもう一回言いますけど、このお皿、どうしますか? まだ食べますか?」
     新田さんがテーブルの上を指さす。スープのようなものが皿の中で冷めきっていた。食欲はあまりなかった。
    「いえ……後で温め直すのでこの場合は……冷蔵庫になるんですか」
    「いいですけど、ラップはありますか?」
    「……ラップ?」
    「……保存用の消耗品です。水気が飛ばないように蓋をするんです」
    「ああ……スーパーに売ってますか」
    「キッチン用品売り場にありますよ。アルミホイルとかキッチンシートと同じ形なのでわかると思います。細長い箱です」
    「……、わかりました」
     新田さんは呆れた様子で皿を冷蔵庫にしまう。シンクに溜まっていた調理器具は綺麗に洗って水切りラックに並べられていた。
     財布と携帯を持ってまた家を出る。もう一度スーパーの中をうろついて、ラップを見つける。種類が多くてわからないので新田さんに連絡を取ると、「一番横幅が大きくて安いやつでいいです」と回答があった。レジ袋は断って、シールの貼られた外箱を持ってスーパーを後にした。
     買い物をするという目的を遂げてから、段々と頭が思考に耽り出す。
     テレビを見てからの記憶が徐々に蘇った。私はいても立ってもいられないような焦燥感のようなものに突き動かされて、彼がコンクールで引いた曲を調べた。その曲のCDの類は持っていなかったが、昔に楽団で公演の演目に入っていたことがあった。その時は私がコンマスとして――。
    「……私?」
     そうだ、私だ。先生が私を指名した。彼もその場にいた。その公演はいつにも増して観客が多く、己は客寄せパンダにすぎないのだと嫌でも自覚させられた。
     当時使っていた楽譜を開く。本当のところを言えば、もう見る必要はない。ページの端が丸くなるほど読み込んだ楽譜を忘れるはずはないのだから。空きスペースに捩じ込まれた夥しい量の書き込みが病的だった。自分についての書き込みと、他者への指摘が日本語とドイツ語で書き殴られていて、正直に言えば判読できないものもあった。
     それを読み返して抱いた感想は、「違う」という言葉だった。私が弾こうとしたのはこれではないのだ。曲の話ではない。答えはもっと本質的な部分にある。
     それから彼女を手に取って、彼の弾いたというその曲を再現する。歯がゆさを残した彼の表情を思い返しながら、私はそれとは違う歯がゆさに表情が歪むのを感じた。指が、体が思うように動かない。考えなくとも当たり前で、この数ヶ月ほとんど彼女には触らなかった。触ることを諦めていた。彼女が私を顧みてくれることはないのだと。
     けれどもそれは、己の体が完全に言うことを聞かなくなったときとは違った。指も腕も、感覚は鈍いが私の指示通り動いている。これから何百、何千と回数を重ねれば感覚が戻ってくるのがわかる。
     そうして私は理解した。
     私は、誰かのために弾くのが嫌いなのだと。


    「新田さん」
     物の少ない私の部屋は、規定された時間よりも速く清掃が終わるらしい。端数になる余った時間は休憩時間にしていいというのは私と新田さんとの約束になっている。新田さんは私の淹れたコーヒーを飲み、カップを洗ってから帰るのが決まり事のようになっていた。
    「なんですか?」
     新田さんはカップを両手で持ったまま私の方に体を向けた。
     私はその顔を見なかった。手元の彼女に集中して、その流線形の体をクロスで丁寧に拭いていく。今日も彼女は美しかった。私が十代の頃から、ずっと。
    「さっき……私はどんな顔でしたか」
    「さっき……? バイオリン弾いてたときですか?」
    「はい」
     私が頷くと、新田さんは首を傾げて少しの間だけ黙り込んだ。
    「うーん……あたしはそういうのわかんないし、上手く言えないですけど、笑ってた……というか。うん……笑ってた? 微笑んでた? なんというか、楽しそうでしたよ」
    「そう、ですか。……ありがとうございます」
     そろそろ時間だった。新田さんがコーヒーを飲み干して、カップを持ってキッチンへ向かった。シンクに水の流れる音がする。
    「じゃあ、今日はこれで失礼しますね」
    「はい。ありがとうございました」
     新田さんを見送ることはしなかった。鍵の閉まる音がしてから、少しだけ詰めていた呼吸を緩める。
     深く息を吐いた。ソファに体を投げ出して吸って吐いてを繰り返しても、高揚感が収まらない。愛しい彼女にもう一度向き合えたことで、私は多幸感に満ち溢れていた。無意識に頬が緩んでいくのがわかる。
     ケースに収まった彼女が笑った気がした。淑女たる彼女が、少女のように笑っている。顧みなかったのは彼女ではない。私だ。私が彼女の問いかけを無視し、呼びかけに答えなかった。だから彼女は私から「弾く」という能力を奪った。
     何度呼吸をしても、息苦しさは変わらなかった。心臓が大きく脈打って、喘ぐように天井を仰ぐ。けれども、全身には重しをつけたような状態から解き放たれたような軽さがあった。
     この高揚を逃してはならない。有頂天と揶揄されようが、私が今のままでいては、彼女にいつまた愛想を尽かされるかわからない。彼女の機嫌が変わらないうちに感覚を研ぎ澄まし、私は――。
    「私は……?」
     なにがしたいのか。表舞台に戻り、異国の地でまた嫌々名器にうつつを抜かすのか。否。それでは意味がない。私は二度と間違えない。彼女を失望させることは絶対にしない。
     興奮で震える手で煙草の箱を手繰り寄せる。とにかく一度落ち着かなければ。
     時計は五時を示していた。空腹感は少しあった。思えば昼食を食べ損ねている。夕食と検索しようとした指が傷だらけなのに気付いて、蕎麦屋のチラシを探した。今日はもう包丁を使いたくない。
     いつも通りに出前を頼んで、受け取る頃にはだいぶ落ち着いてきていた。けれども出前を届けにきた青年が、私を見てぎょっとした表情をしたからには、元通りとはいかないのかもしれなかった。私が問題なく対応し、精算をするのを確認すると、青年は安心したように息をついた。蕎麦の味はいつもと変わらなかった。
     洗濯やら洗い物やらを済ませてから、私はパソコンを開く。メールの受信欄を眺めていると、今朝テレビで見た名前があった。
     それは形式的な入賞報告のようなもので、彼が世話になった他の何人かにも同じような文面が送られているのが想像できた。腹の底に抱えた飢えをおくびにも出さず、私の楽団での指導への謝意と見舞いの意が記されていた。そして末尾には、近いうちに一度帰国するので会って話したい、とも。他の受賞者との写真も添えてられていた。
    「……やめ……っ」
     写真を開いた瞬間、呼吸が乱れる。やめてくれ、と言いかけて言葉が途中で途切れた。声が喉の奥で絡まっている気がした。
     彼らの目。その熱にあてられると、肌の下をなにかが這うような感覚を得る。気が狂いそうなほどに、焦燥感のようなものが私を掻き立てる。
     彼女が言うのだ。もう一度それと向き合ってみろと。
     私が先生の許で見ないようにしていたそれと、もう一度。先生は見なくていいと言った。それは私の輝きを曇らせ、傷をつけるものである、と。先生は私がそれと向き合うのを恐れていたのだ。私が飢えた獣に変わることを。羽など得ることなく、繭のまま変わらずにその一生を終えることを望んでいた。
     その先生はもういない。そして彼女は私が羽を得ることを待ち望んでいる。いつ鳥に啄まれ、蜘蛛の巣に捕われ、ある日唐突に命を落とすかわからない世界へ身をやつすことを、彼女が望んでいる。
     もう一度学び直さなければ。彼女と向き合い、二度と彼女の声を取りこぼさないように学び直さなければならない。先生の影が及ぶところではだめだ。私はもう一度私の音楽を学び直さなければならない。基礎からなにから、まっさらな状態からやり直さなければ。
     メールの画面を閉じ、近くの音楽教室を探す。都会の摩天楼の中には、そんなもの探せばいくらでもあった。私が子供の時分に通っていたのと同じ名前が目に入る。社会人向けの講座に申し込もうと料金体系に目を通したところで、愛想笑いの多い、優秀な彼の顔が頭に浮かんだ。これは経費に入るだろうか。またあの人の手を煩わせては困る。またメール画面を開いて、相談の時間が取れないかメールを送った。
     煙草を手に取ろうと手を伸ばしかけてやめた。そういう気分ではなかった。
     彼からのメールをもう一度開く。返信は――。


    「お時間いただきありがとうございます」
     数日後、帰国した彼と私は都内のカフェで再会した。彼は私の顔を見ると少し眉根を寄せて首を傾げた。が、私が入賞への祝辞を述べると、テレビに映ったときと同じ穏やかな笑顔を浮かべた。
    「ただし、おめでとう、というのは君にとって違う気がします。テレビの中継で君を見ました。悔しい、というのが本当のところでしょうね」
    「あはは……敵わないな、先生には。僕のことをなんでもわかってるみたいで……」
     少し溜め息を漏らすと、彼はメニューに目を落とした。
    「……なにか食べます?」
    「君と同じもので結構です」
    「相変わらずですね。安心しました。少し、雰囲気が変わっていたので」
    「……最近は健康に気を遣ってるつもりなんですが」
     彼は一瞬ぽかんとしたような顔で私を見た。そうしてまた首を傾げると、神妙な顔で声のトーンを抑えた。
    「あの、こういうことはあまり聞いてはいけないのはわかってるんですけど……先生、恋人でもできたんですか」
    「……は?」
     あまりにも神妙な面持ちだった。冗談やなにかではなく、彼は大真面目にそう尋ねているらしかった。
    「恋人……? 私に……?」
    「え、ああ……違うならいいんですけど……なんというか、以前にも増して……艶っぽさというんですか。ええ、あの……簡単に言ってしまうと色気、といいますか……そういう雰囲気が増していたので、てっきりそういう間柄の人ができたのかと」
    「君に私生活をすべて晒す気はありませんが、誤解のないように断っておきます。ありえません。私をゲイだなんだと面白おかしく取り上げた記事があったようですが、まさか信じているんですか」
    「ああ、あれ……あまりにもお粗末な記事で笑ってしまいましたよ。誰か別の人のことかと思ったくらいです。……そうですか、安心しました」
     安心。繰り返すように二度呟かれた言葉が引っかかった。
     彼は気まずそうにもう一度メニューを見る。少し考え込んでから、暇そうに立っていた店員を呼び出してコーヒーとパンケーキを注文した。
    「……お加減はいかがですか」
     私の病のことを言っているのだろう。
    「快方に向かっていると言っていいと思います。復帰は――……未定です。まだしばらく先になります」
    「そ、うなんですね。それはよかった」
    「つけ加えておくと、本当に復帰するかはまだ決めていません」
    「……え?」
    「私が弾けるようになることと、もう一度表舞台に戻るかというのは別問題です」
    「そんな……!」
     彼が弾かれたように立ち上がった。ちょうど二人分のコーヒーを持ってきた店員が慌てて盆を支える。
    「……アオイ。ここは公共の場です。座ってください」
    「す、すみません」
     店員が申し訳なさそうにコーヒーを置いて立ち去る。彼は少しだけ乱れた呼吸を整えてから腰を下ろした。コーヒーを一口飲んだ手は変に力が入って白くなっていた。
    「……先生。今日はお願いがあって先生をお呼び出ししました」
    「なんですか」
    「先生にはなるべく迷惑をかけないようにと思っていたんですが……今回のことでわかりました。僕はこのままではいけないと。ヨハンにも相談をして、自分なりによく考えたつもりです」
    「はい」
    「先生」
     石英の眼差しが私を見た。チリチリと舞った火花が私に降りかかる。
    「もう一度僕を指導してくれませんか」
     私はすぐには答えなかった。私の腹積もりはすでに決まっている。けれども、それを言うことで私が私でなくなることを、私自身、多少なりとも恐れる気持ちはあった。
     コーヒーを口に含む。それを飲み下して、一呼吸置いてから、私は彼の目を真っ直ぐに見据えた。
    「お断りします」
    「――」
     彼の目が大きく見開かれる。絶望にも似た色を覆い隠すように、驚きと戸惑いの色がその目を満たしている。その提案を口にすることを躊躇いこそすれ、断られるなどとは微塵も思っていなかったのだろう。
    「なん……なんで……? なぜですか? できるかぎりの支援はします。先生の希望に沿うように……ドイツに来てくれと言っているんじゃないんです。僕が日本に拠点を移すことも考えています。だから、もう一度――」
    「どう言われようと答えは同じです」
     店員がパンケーキを運んでくる。その顔はわずかに引きつっている。逃げるように厨房に帰っていく後ろ姿を、私はぼんやりと眺めていた。
    「……なぜ、と先ほど君は聞きましたね」
     店員の後ろ姿が見えなくなってから、私はナイフとフォークを手に取った。バターを避けてから、パンケーキをすべて一口大に切り分ける。それから四等分に切ったバターを四つの欠片に振り分けた。
    「簡単なことです。私があなたの指導者ではないからだ」
     シロップを残りの欠片に垂らす。
    「柴田さん」
     彼の口がわなわなと震えるのを見た。コーヒーを飲もうと、震える彼の手がカップを握る。
    「あなたもずいぶんと腑抜けたものだ。仇のように憎んでいた人間に助けを求めるなど」
    「……っ」
     彼の目元にさっと赤みがさす。見開いた目がテーブルの上を彷徨う。
     彼が私に向けていた感情は複雑だった。彼は私を先生、先生と呼んではばからなかったが、彼の心に常にあったのは尊敬などではない。いつ私を追い抜かし、頂点に立ってやろうかという野心と、思うようにいかない歯がゆさからきた憎しみだった。
     彼はじっと黙り込んだ。彼の前に置かれたパンケーキの上で、バターが溶けていく。私はかまわずにパンケーキを咀嚼した。
    「本当に……あなたには敵わない……」
     私が食べ終わる頃、彼は溜め息と共に絞り出すようにそう言った。
    「私はあなたを私の許で学ぶべき人間だとは思わない。あなたは見て、聞いて、自分のものにするのが得意な人だ。もちろん、悪い意味ではなく」
    「……はい」
     コーヒーを口に含む。
     彼は言葉で言って学ぶ人間ではない。目と耳がいいのだ。長々と高説を垂れるよりは、どこかの演奏会の客席に座らせた方が余程有意義だ。私が彼に教えることなどなにもない。
    「……ヨハンは元気ですか」
    「え、ええ……まあ。ミズ・ゾフィーが体調を崩しがちで、彼なりに苦労があるみたいですけど……」
    「ああ……」
     近いうちにゾフィー先生にも連絡をしなければ。そしてその次はドイツに。
    「先生……弦弓さん」
     私が視線を外してそう考えていると、彼がナイフとフォークを持って目線を落とした。
    「もう……もういいです。帰っていただいて大丈夫です。無駄な時間を取らせてすみませんでした。お会計は僕が持ちます」
    「そうですか。お言葉に甘えます。……ああ、柴田さん。最後に一つだけ、お聞きしても?」
    「……はい」
     なんと切り出したものか迷って、彼がパンケーキを咀嚼するのを眺める。
    「あの記事……ドイツの雑誌だったと聞いていますが、出処に心当たりはありませんか。あなたがああいった手合いのことはしないのはわかっていますが」
     彼は少しだけ眉をひそめた。口の中身をすべて飲み込んでから、おそるおそるといった様子で口を開く。
    「あの雑誌は……昔からアジア人へのヘイト記事がひどい雑誌なんです。僕も前に、一度だけ……」
    「そうですか。それはお気の毒に」
    「……弦弓さんもああいったものを気にするんですね」
    「いえ。私がどう言われようがかまいませんが、あの手の記事は私以外にも迷惑がかかります。それは本意ではないので、次は法的に処理してもらおうかと」
    「……そうですか」
     彼は呆れたように口を閉ざした。
    「では私はこの辺で。ごちそうさまです」
    「……はい。今日はありがとうございました」


     その晩、彼からは昼間の非礼を詫びるという旨のメールが届いていた。来週にでもドイツに発ち、心身共に鍛え直すのだという。
     私はといえば、新田さんが書き残したシチューの作り方のことで頭がいっぱいだった。まず野菜の皮を剥くのに手こずっている。レシピには皮剥きができないのであれば、よく洗って皮ごとでもかまわないと手書きで記されていた。その慈悲に甘えて、じゃがいもの芽だけはなんとか取り除いて、他は皮ごと切ることにした。炊飯器はないので、インスタントの白飯を買ってある。
     あとは煮込むだけになったところで、私は仮眠をとるためにソファに倒れ込んだ。ここ数日ろくに寝ていない。音楽教室は体験授業に参加し、そこで教わったことを家で何度も反芻した。今まで使った楽譜をすべてひっくり返し、怨念のような書き込みを無視してひたすら読み込んだ。新田さんは楽譜にかじりつくようになった私を気味悪がっていた。
     妙音さんとは明日会う予定だ。来週には病院で定期面談。経過は良好だと思うが、早寝早起きの課題がこなせていない。あらゆる予定を組み直さなければ。
     瞼が閉じそうになる前に、オーディオの電源を入れる。今日見た楽譜のCDを探し出してセットする。これで寝ていても耳は慣らせるはずだ。
     私は半ば気絶するように眠りについた。
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