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    GofaboCho

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    おじさんと鶴崎が長話する話
    妙音先生にシワ寄せがいく

    ##義高おじさん

    いうてどっちも芸術家肌なので鶴崎もネジは飛んどる話 人生最悪の再会から早一ヶ月。
    「ありがとうございました」
     そう挨拶をして帰り支度をする弦弓を、他の生徒が呼び止める。同じ時間帯に他のレッスンを受けているおばちゃん連中が、しきりに話しかける。そのどれもをすげなくあしらい、弦弓は俺の方を見た。
    「なにかご用ですか」
    「は?」
    「言いたいことがありそうな顔だったので」
     弦弓はときどき、人を見透かしたような目をする。いや、おそらく実際に見透かしている。心底嫌なやつだと思う。
    「……授業のことで、個人的な相談があります」
    「そうですか。……この後ですか?」
    「いや、今日はまだ授業があるので……」
     少し考えてから、余ったチラシの裏に駅前の居酒屋の名前を書いて渡した。
    「八時にここでどうですか」
     弦弓は店名を確認すると、わかりましたと頷いた。


    「……あんた、煙草なんて吸うんだな」
     先に待っていた弦弓の前には、灰皿と、ビールジョッキが半分量を減らした状態で置いてあった。灰皿にはすでに灰が落としてある。細く煙を吐きながら、弦弓は俺が座るのを待った。
    「最近はまったく。この一ヶ月、忙しくてお酒も煙草もやる暇がありませんでした。……失礼、先にいただいています」
    「いや、かまわん」
     とりあえず店員に生を一つと枝豆を頼む。
    「あんたは? なんか食べるか?」
    「……、今は結構です」
     店員が一度奥に引っ込んで、すぐにジョッキを手に戻ってくる。
    「……乾杯って仲じゃないな」
     俺が言うと、弦弓は一瞬俺の目を盗み見た。少し目元が赤く色付いてるのを見るに、酒は得意じゃなさそうだった。
    「……それで、相談というのは?」
    「あんたのことだ」
    「私……?」
    「今年に入って全公演キャンセルだそうだな」
     弦弓の音色に飛びつく奴もいれば、その容姿につられて飛びつく奴もいる。よくも悪くも目立つのだ。今まで傷一つなかった経歴に少し汚れがついた途端、誹謗中傷を煽るようなバッシング記事が何本も出ていた。
     ニュースサイトのコピーを見せると、煙草をふかしていた顔が途端に白けた顔になる。
    「ゲイ疑惑だなんていうのはもはやドタキャンとはなにも関係がないな。大体、ゲイだったとしてなんだっていうんだ」
    「……これ、日本語にまで翻訳されてるんですか」
    「見ての通りだ。最近は機械翻訳なんてのもあるからな。日本語じゃなくても、昔よりかなりとっつきやすくなってる」
    「……くだらない……」
     弦弓は吐き捨てるようにそう言って、初めて嫌そうな顔をした。煙草の灰を落とし、ジョッキを呷る。
    「……困るんです、そういう……先生たちにも迷惑がかかるような記事は」
    「あんたがドタキャンしたのが悪い」
     弦弓がまた俺の方を盗み見る。
    「まあ、俺にとってはどうでもいいな」
     店員が枝豆を運んでくる。俺がニュース記事のコピーを適当にテーブルの端に押し遣ると、弦弓は忌々しそうにそれを裏返した。
     枝豆をかじる。ジョッキを二回呷っても弦弓は無言だった。
    「……で?」
    「で、というのは……?」
    「なんであんたはるばる日本まで帰ってきて、こんなところにいるんだ?」
    「バイオリンを勉強するためです」
    「話が見えねえな。なんで日本に帰ってきた? あんた、拠点はドイツだったろ。勉強ならいくらでもあっちでできるだろうが」
     短くなった煙草が灰皿に押し付けられる。すぐに二本目を取り出して、多少もたつきながら火をつけた。
    「……」
    「だんまりか。ニュースじゃ病気療養だの言われてたが……ネットじゃ仮病だなんだと騒がれてるらしいじゃないか」
    「療養というのは本当です。日本に帰ってきたのもそのためです」
    「だろうな。昔のあんたじゃ考えられないほど腕が鈍ってた」
    「否定はしません。だからこそ、こうしてあなたのところに通っているんです」
    「なるほどねえ」
     病気療養。これは確かに本当らしい。少なくとも、長期間弾くことをやめたのは事実だろう。
     この一ヶ月、やつれた感じはなかったが、焦りのようなものは常にあった。一体どれだけの練習時間を割いてるのかはわからないが、レッスンが終わって一週間が経つ度に、尋常ではない勘の取り戻し方をしている。それでも、大学時代にすら遠く及ばないが。
    「しかしな、なんでわざわざこんな一般人が通うような教室なんだ。あんたからしてれば、この居酒屋みたいなもんだろ。あんたに似合うのは高級レストランのはずだ」
     弦弓が煙を吐いた。それから少しだけ店内を見遣って、その間に灰を落とす。
    「……ああいうお店は息が詰まります」
    「まあ、そうだな」
     しばらく弦弓は沈黙した。テーブルの木目にじっと視線を落としている。何度かゆっくりと瞬きをすると、ふいに片手を上げて店員を呼んだ。
    「すみません、お水をいただけますか」
    「二名様分でよろしいですか?」
    「いや、俺はいい」
    「かしこまりました」
     すぐに店員が水を持ってくる。それを少し呷ってから、弦弓は一度煙草を咥えた。
    「すみません。少し眠気が」
    「酔ったか?」
    「いえ。単純に眠気が」
    「あんた、何時間練習してんだ?」
     弦弓が首を傾げる。
    「手が空いているときは……ずっと……」
    「……ちゃんと飯食ってるか?」
    「たまに忘れます」
     けろっとした顔で弦弓は言った。溜め息が出そうになるのを飲み込んで、俺は店員を呼んで串物を何皿か注文する。
    「俺の奢りだ。目いっぱい食え」
    「あなたに食事の世話をしてもらうほど困窮していませんが」
    「気持ちの問題だ馬鹿。黙って受け取れ」
     枝豆の皿を弦弓の方に押し遣る。一瞬躊躇ってから、弦弓はそれに手をつけた。瞬きをする度に長すぎる睫毛が揺れる。
    「……見られることには慣れていますが、そうも長時間見られると気持ちのいいものではないです」
     慣れない手付きで焼き鳥を食べるのを眺めていると、弦弓が上目遣いにこっちを見た。
    「あー……」
     こいつが男で本当によかったと思う。こんなボケっとした女がただでさえ頭のネジの飛んだ世間知らずが多い界隈にいるのを想像しただけでゾッとする。色恋沙汰の多い声楽界にいたら何度血の雨が降っていたことか。
    「あんた、女に刺されたことあるか」
    「……あの。私が常識知らずなのは重々自覚していますが、女性に刺されるというのは一般的なことですか。それともなにかしら別の意味合いが」
    「いや、俺が悪かった。普通はねえよな」
     手で制して見せる。さすがにないか。運のいいやつめ。
    「……女性に刺されたことはありませんが」
     やや間があってから、弦弓が口を開いた。口の端についた焼き鳥のタレを指で拭う。絶妙にエロい。本当に男でよかった。
    「知らない女性の家のバスルームで寝ていたことはあります、かなり昔ですが」
    「……は?」
    「昔……若気の至り、というんですか。留学生だった頃の話です。よくバーで前後を失うほど飲んでいた時期がありまして」
     マジか。呆気に取られて相槌を忘れそうになる。
    「ちょうど冬頃で。ドイツの冬ですから……日本で言うと冬の北海道をイメージしていただければと思います。まあ、なんというか……前後不覚の状態だったので、自力で家まで辿り着けなかったことがあったんです」
    「凍死……?」
    「ええ、はい。道端で寝ていたらしいので、運がよくなければそうなっていたと思います。その私を保護……というか、連れ込んだと彼女は言っていましたが」
    「危ねえなマジで……」
    「やましい気持ちがあって連れ込んだはいいものの、いざ事に及ぼうとしても私が嘔吐を繰り返しているので、お話にならなかったそうです。今さら外に放り出すわけにも……ということでバスルームに捨て置かれて、起きたそばからそれはもう口汚く罵られました」
    「そんなことしてたのかあんた……」
     昔の話です。けろっとした顔でそう言って、弦弓は水の入ったジョッキを傾ける。
    「それがあってからは、さすがに記憶がなくなるまで外で飲むのはやめました。友人たちにも散々叱られましたし」
    「外で……?」
    「……自宅で飲む分には誰にも迷惑はかけていないはずです」
    「いや、死ぬぞマジで……」
     肝臓が可哀想だ。おまけにこの男、煙草もやる。いつ死んでも不思議じゃない気がしてきた。
    「節制はしろよ」
    「今は忙しくてお酒どころではないので、節制はできています」
    「飯と睡眠をちゃんと摂ってから言え馬鹿」
     面倒だな、みたいな顔をしやがる。ということはこの場も無駄な時間だと思ってやがるな。
    「……無駄な時間とは思っていません」
    「お前やめろマジで。人の心読んでんじゃねえ」
    「顔に書いてあります」
    「書いてあってもわざわざ言うな。本当にやな奴だなお前は」
    「すみません」
     さっと目線が逸らされる。
    「……」
     顔に書いてある、ね。顔に出したつもりはまったくなかった。つまり、顔に出てないと思っていても、こいつにはすべてお見通しってわけか。
    「難儀だな、あんたも」
     授業が終わると逃げるように帰っていくのもそのせいか。よくもまあ今までやってこれたもんだ。
    「……鶴崎さんは、なぜ講師に?」
     気まずい、という感覚があるのかないのか、弦弓はだいぶ慣れた手付きでねぎまを食べる合間にそう言った。
    「……どういう意味だそれ」
    「一ヶ月あなたの許で学んで思い出しました。あなたの音色には聞き覚えがあります。私の記憶に間違いがなければ、その音を弾く人は留学の推薦をもらっていたはずです」
    「とんでもねえ思い出し方してんな」
    「留学はしなかったんですか」
    「まあ……うちは周りに比べて貧乏でな。ちょうどあのタイミングで親父が倒れて、留学どころじゃなくなったってわけだ。俺を不憫がったお優しい先生方のお力添えもあって働き口には困んなかったけどな。で、そんなわけで今に至る」
    「……それは……大変ご苦労されたようで」
    「否定はしねえよ。あ、でも憐れむのはナシな。今の仕事にもそれなりに誇りを持ってるんでな」
    「そうですか」
     どこか安心の滲んだような声音だった。俯いた顔が少しだけ笑ったように見える。
    「……おい。顔上げろ馬鹿。誰も顔見るなとは言ってねえよ」
    「いえ……」
    「たとえ読んだとしても言わなきゃいい話だろうが」
     ちら、と盗み見た目が合う。
    「サトリかあんたは……とことん難儀なやつだな。なんでそんなやつが集団レッスンなんか受けようと思ったんだ」
    「……」
     視線がテーブルの木目に戻される。
    「……楽しかったんです」
    「ハ?」
    「バイオリンを始めた頃の、友達と通っていた頃が……一番、楽しかったので」
    「……今は違えのか」
    「楽しくない、と言えばそれは違います。ですが、どうしても……昔とは違う気がして」
    「そりゃそうだろ。あんたの友達はあそこにはいないんだから」
    「それは、そうなんですが……」
     すみません、冷たいお茶を。そう注文を受けた店員が威勢よく返事をする。
     さっきからしきりに瞬きを繰り返してるあたり、相当眠いか酔ってるんだろう。
    「腹いっぱいになったか?」
    「……かなり……」
     こりゃこれ以上問い詰めても無理そうだ。
    「茶。飲んだら帰るぞ」
    「え? ああ……はい……?」
     今のうちにタクシーを押さえておこう。駅前とはいえ、そろそろ混み出す頃だ。
    「トイレ行ってくるわ」
    「どうぞ……」
     用を足して、手を洗って。ついでに目覚ましに顔を洗って。鏡に写った顔は、まあおおよそいつも通り。酒に強いわけじゃないが、弱いわけでもない。ただ、長々とああいう普通じゃないやつと話すのはそれなりに疲れる。
     入れ違いで弦弓が用を足している間に、会計を済ませる。
    「……すみません、ご馳走になりました」
    「いいけどよ、あんた今日はタクシーで帰れよ。危なっかしくてしょうがねえ」
     凍死寸前、性犯罪ギリギリの武勇伝を聞いたからなおさら。
    「一人で帰れるか? タクシーはもう呼んであるが」
    「たぶん……」
     店を出た弦弓の目は、どこか空を見詰めているようなぼんやりとした目だった。ジョッキ一杯しか飲んでないはずなんだが。
    「……タクシー代、俺の分まで出せよ」
    「……よろしくお願いします」


    「……あんた、弦弓さん?」
     タクシーの運転手がおそるおそるといった感じでそう切り出した。
     肝心の弦弓はといえば、窓の方に首を傾けたまますやすやと寝息を立てている。
    「すいません、寝てるみたいで」
    「ああ、そう。お疲れなのかね。そっちのお兄ちゃんは? お友達?」
    「まあ、そんなようなもんです。知ってるんですか、こいつのこと」
    「一回だけコンサートに行かせてもらったことがあってね。うちの家内がそういうのに熱心で。いや、アタシはそういうの全然わかんないんだけど、いい体験をさせてもらったなあとは思ってるよ」
     ……これは。
     直接、こいつに聞かせた方が。
    「おい、起きろ馬鹿、弦弓コラ」
    「や、いいのいいの、そんな……」
     運転手を無視して弦弓をせっつく。
    「はい……?」
    「起きたか? この親父さん、あんたの演奏聞いたことあるってよ」
    「はあ、それはどうも……?」
     ぼんやりした目は変わらなかった。それでも少し酔いが覚めたのか、バックミラー越しにじっと運転手の目を見ている。あの見透かしたような目で。
    「……なにか、あったんですか」
     運転手の言葉ではない。弦弓の言葉だ。
    「えっ?」
    「いえ……なんとなく」
    「……弦弓さん、あんた復帰はするの?」
     思い切った質問。運転手も自分で言ってから、しまったというような顔をした。
    「……知りません」
    「……おい」
     軽く足を蹴ってやる。復帰に向けて練習してるんじゃないのか。目で訴えると、弦弓はムッとしたように唇をへの字にした。
     俺たちの様子を見て、運転手は少し笑う。
    「これはアタシの私情ね。独り言。家内、とその友達がさ、あんたのコンサートを毎年見に行ってたんだよ。ほら、今頃の時期は日本に来てたらしいじゃない」
    「そうですね」
    「その友達がね、ちょうど去年……癌で死んじゃってさ。アタシがあんたのコンサート行ったのもその友達の代わりってわけ」
    「……お悔やみ申し上げます」
    「ありがとね。それがあってから、元気なくてさ。今年も見に行こうって言ってたんだけど、あんた今、こういう状況でしょ。もしかしたら、もうあんたは弾くのを辞めるかもしれないって……うん。落ち込んでんのさ」
     弦弓は険しい顔をしていた。
    「まあ、人間色々あるよね。こんな仕事やってると、色んな人に会うけどさ。あんた、今の方が楽そうだよ」
    「え……?」
     思わず、聞き返してしまった。当の弦弓はバックミラーから視線を外して黙り込んでいた。
    「アタシもね、ついさっきまであんたには復帰してほしいと思ってたよ。家内には元気になってほしいしさ。……でも、今のあんたにそんなこと言えるほどアタシも鬼じゃないよ」
    「……」
    「人間、他人のことより自分のことだよね。別に辞めたっていいと思うよ。アタシみたいなのはお疲れ様としか言えないけど。……さ、着きましたよ、お客さん」
     背の高いマンションの前で、タクシーが止まる。振り返った運転手の目を、弦弓が真っ直ぐに見据えた。
    「……、ありがとうございました。鶴崎さんも、今日はありがとうございました」
     俺の手に一万円札を握らせて、弦弓はさっさと車を降りた。
    「まいどどうもー。そっちのお兄ちゃんはまだ乗ってくの?」
     運転手が笑いながら俺に顔を向ける。
     いや。
    「お、お釣り……お釣り、いらないです……っ」
     いやいやいや。
     慌てて荷物を抱えてタクシーを飛び降りる。すたすたと歩いていく後ろ姿がマンションのエントランスに消えるギリギリで弦弓に追いついた。
    「弦弓! おい! 馬鹿……!」
     弦弓は無表情でエレベーターのボタンを押す。
    「……鶴崎さん、夜です」
    「わかってんだよそんなことは……!」
     必死に声は抑えてるだろうが。
    「マジでなに考えてんだよお前……っ」
    「……帰らないんですか」
    「帰ってたまるか馬鹿!」
     エレベーターで上の方まで登ってって、弦弓の家の前まで来る。そこまで来てやっと弦弓が俺の方を振り返った。
    「帰らないんですか」
    「だから……!」
    「……別に、辞めはしませんよ」
     鍵を開ける音が廊下に響く。
    「……そうかよ」
    「水くらいしか出せませんけど、入りますか」
    「……そうする」
     本棚とCDラックが並べられた部屋に通される。リビングだろう。テレビを中心にローテーブルとソファ、スピーカーやなんかが配置されていて、中途半端に生活感があるのがむしろ気持ち悪かった。
    「ああ、コーヒーがありました」
     忘れてた。そう言いたげな声音だった。飲みますか? そう問われて、首肯する。豆を挽くところから始めたのか、キッチンの方からバリバリと荒い音がした。
     どこで待ったものか図りかねて、ダイニングの椅子に座る。テーブルの上には大量の楽譜が積み上げられていた。開きっぱなしのそれを手に取る。
    「……鶴崎さん、それ弾いたことありますよね」
     弦弓が俺の手元を覗き込んでいた。
    「あ? ああ……大昔な。つーか……ヤバいなこれ。呪いの呪文じゃねえよな?」
    「ドイツ語ですし、日本語もあります。字は汚いですが」
    「ふーん……」
     懐かしい。率直に言うと感想はそれだった。大学にいたときも金がないのを騙し騙しやっていたから、バイトに時間を割きつつ、練習もしつつ、なんて無理を通すために気付いたことはなんでも書き込んだ。先生たちの話も、周りの人間の技術も、すべて取りこぼさないように。今はそんなもの影も形もないが。
     俺がぺらぺらと楽譜を捲っていると、キッチンに引っ込んだ弦弓がコーヒーを持って戻ってくる。
    「どうぞ」
    「あ、ああ……いただきます」
     可もなく不可もなく。俺にコーヒーの善し悪しはわからない。ただまあ、インスタントより美味しいのはわかる。
    「……復帰、しないのか」
     ソファに座った弦弓に問う。
    「正直、わからないです」
    「じゃあ、なんで……」
    「満足できないから」
     俺を見ずに、そう言った。テレビ台の上に飾られた写真を睨むように見据えている。
    「その写真……」
     バイオリン界の巨匠。早々と演奏者からは退いて、教育に情熱を注いだ名指導者だ。今年に入って亡くなった。
    「……先生は私を手の平の上で転がしていた」
    「あ……?」
    「私はそれでは満足できなかった」
     写真には、マエストロと弦弓、他に数人が写っていた。写真の中の弦弓は笑っていた。笑う、というよりは、花が開くように微笑んでいた。
    「……職業性ジストニアと言われました」
    「は?」
    「私の病名です。脳と体を繋ぐ神経の間で、なにか不具合が起こって体が思うように動かなくなる。おおよそそういう症状です」
    「それで弾けなくなったと?」
    「はい。原因について、これとはっきり断言できるものはないそうですが、一般的には長時間の練習、身体への負担、心理的ストレスなどだろうと言われています」
    「まあ……正直、よくある話だな」
     音楽家に限らず、芸術家肌の人間にはよくあることだ。些細なことでも負担を感じたり、突然体が今までやっていたことを受け付けなくなったり。
     弦弓は黙って頷いた。それから自分のコーヒーに視線を落として、しばらくなにも言わなかった。
    「……先生のせいだと思っています」
     耳を疑った。
     言葉が見つからず、口を半開きにしたまま弦弓を見る。
    「お前……」
     泣きそうな顔をしていた。こんなことは言いたくないのだと、噛んだ唇が物語っていた。それでも口に出した。
    「先生は恩師です。恩人だ。それはわかっています。でもそれとこれとは話が別だ。あの人は……あの人は自分のために囀る小鳥が好きだっただけにすぎない……」
     弦弓の手からコーヒーカップが滑り落ちる。カップはフローリングに転がって、プラスチックの軽い音がした。靴下にコーヒーが染みるのもかまわずに、弦弓は両手で顔を覆った。
    「……どこに行ってもあの人が手綱を握っているんです。私がどこにも行かないように、必ず誰かが私を見ていた。ずっとあの人の手の平の上で……逃げられなかった。逃げようなんて思うことすらしなかった。ずっとこのまま先生の言うことを聞いていれば、きっとすべて上手くいくと――」
    「もういい、わかった」
     コーヒーをテーブルに置いて、弦弓の前でしゃがみ込む。手を退けさせて、目を合わせる。
    「おい、靴下脱げ。洗ってこい。火傷してねえだろうな?」
    「……はい」
     テーブルに置いてあったティッシュで足を拭いてから、弦弓は風呂場の方に行った。水を流す音が聞こえる。俺はその間にこぼれたコーヒーを拭いていた。
     戻ってきた弦弓をソファに座らせる。俺は床に座り込んで胡座をかいた。
    「……あんたはさ、怖いんだろ」
    「怖い……?」
    「ドイツに戻るのが嫌なんじゃねえの。戻ったらまた、あの人の弟子扱いされるだろ」
    「まあ……それは、おそらく……」
    「さっき、辞めていいって言われて、安心しただろ」
    「……はい」
    「無理に復帰する必要はねえよ。それでまた弾けなくなったら本末転倒だ。別にドイツに戻る必要もねえ。でも、弾きたいんだろ」
    「そう、です。弾きたい……弾きたいです」
     根っからの芸術家肌なんだ。その衝動はどうしても枯れない。俺にだってそれくらいはわかる。
    「だったらそれ以外考えるな。他人の目も、他人の感情も、あんたにとっちゃ全部ノイズだ。枷でしかない。せめて弾いてるときまで他人の顔を窺うのをやめろ。いいな?」
    「ぜ……善処します」
     こいつ、レッスン中にまであの目をしやがる。流し目、とでもいうべきか。それで周りの士気が上がるのはいいとして、たまにのぼせ上がるのがいる。正直、いつ刺されるか俺はヒヤヒヤしてんだ。
    「で、だ。個別授業に切り替えるのはどうだ? わかったろ、集団じゃ意味ないって」
     弦弓はすぐには答えなかった。どうすべきか迷ってるようにも見える。
     俺はさっき見ていた楽譜を持ってきて手渡す。
    「弾きたいんだろ。でも俺があんたに指導するとして、集団じゃ限界がある。他に生徒がいる以上、あんたが周りに合わせなきゃ成り立たないんだよ。だから、あんたが本気でやりたいなら個別にしろ。本番も、日本で伝手がないなら、俺がなんとか色々手引きしてやるから」
    「やります」
     食い気味だった。その目は爛々と輝いて、気を抜くと飲み込まれそうだった。
    「手続きはどうすればいいですか?」
    「俺の方でやっとく」
    「ありがとうございます。……ん、待ってください」
    「あ?」
    「お金のことは私一人で決められません」
    「は? ……資産管理、みたいな?」
    「いえ。顧問弁護士の……、……弁護士……べんごし……?」
     名前が思い出せない。そういうわけじゃなさそうだった。
    「色々……相談に乗ってもらっていて……弁護士、というよりは……相談役……というか」
     言葉を選び選び。オブラートに包みつつ。誤魔化しが透けて見える。
    「……おい。弁護士先生になにさせてんだお前」
    「お、お給料はちゃんと払ってます……たぶん……」
     たぶん。たぶんってなんだ。自分で知らねえのか。マジでアホか。
    「おい、その相談するとき俺も連れてけ。お前の世間知らずはマジで洒落にならん」
     その場はそれに頷かせるまでで手打ちにした。
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