青い花とティータイム それはバレンタインデーと名付けられた日に、ハデスがポセイドンの居城を訪れた日のこと。
ポセイドンが待つ部屋に案内されたハデスは、いつも弟と会う時には無い、テーブルの上に飾られている花が気になった。先端に青色の小さな花を数十輪咲かせている花だ。
ソファに隣合って座りながら、ポセイドンの従者が用意したアフターヌーンティーを弟と共に楽しむ。
主人とその兄の貴重な時間の邪魔にならないように、と既に退室済みの従者が用意した紅茶とケーキスタンドに乗せられた菓子は、見た目も味も相変わらず絶品だ。
弟との会話を楽しみながらもハデスの意識は時折、小さなガラスの花瓶に生けられたその青い花に向けられた。
己の知る限りでは、弟には花を飾る趣味など無かったはずだ。
ハデスはティーカップをソーサーに置くと、その優雅な青い花に優しく触れる。
「花を飾るなど珍しいな。庭に咲いてある花か?」
「……いや。それは余に贈られたものを今朝、使用人が飾ったものだと聞いている」
「……お前宛に、贈られたもの? この花がか?」
「そう聞いている」
贈り主の名前は書かれていなかったらしいその青い花からは、特別な呪いなどの気配は一切感じない。
本当に何の変哲もない、ただの花だ。だからポセイドンも飾ることを許したのだろう。
「この花の名を知っているか? ポセイドン」
「……?」
ポセイドンは花に興味が無い。バラやユリなどといった大まかな違いは分かるが、細かな種類の違いには明るくなかった。
なので、贈りものであるその涼やかな青い花の名前を答えることができなかった。
「知らぬ」
「……そうか。なら教えてやろう。これはアガパンサスという名の花で、“愛の花”とも呼ばれている花だ」
「愛の花……?」
青い小さな花弁を指でなぞりながら、ハデスが言葉を続ける。
その名にふさわしく、花言葉にも愛に関する言葉が多くある花。そのためか、アガパンサスは愛の告白や恋人に贈る花としてよく利用されている。
花言葉とは人間が植物に言葉を与え、象徴的な意味を持たせた文化にすぎない。
神々の中には人間が生み出した文化に興味を持ち、面白がって真似をする神々も存在しており、その中でも花言葉の文化は神々の中でも好意的に受け入れられているものだ。
同じく花言葉を好む神同士で知識を比べ合ったり、人間がするように秘めた想いを告げることに利用することもある。
それこそ、今日のようなバレンタインデーという特別な日に花を贈る、といったように。
「どこの神が、どのような想いを込めて、今日という日にお前にこれを贈ったのだろうな?」
ハデスに優しく愛でられていた青い花が、他ならぬハデスの手によってぐしゃりと握りつぶされる。
小さな青い花びらが白いクロスが引かれたテーブルの上に、はらはらと散ってゆく。
「バレンタインデーという日は罪深いな。これがお前が余のために用意したものだと勘違いするほどには、柄にもなく浮かれていたらしい」
「ハデス」
「それにしても名を書かぬなど……その贈り主は随分と奥ゆかしいことをする」
「ハデス」
花を握りつぶした手にポセイドンの手が重ねられたことで、ハデスの言葉が止まる。
視線を花だったものからポセイドンに向ければ、海を思わせる美しい青い瞳がハデスを見つめていた。
不思議なことに、その青を見つめ返しているだけなのに荒れた心が穏やかになっていくのを感じる。
「……すまない、ポセイドン。余はお前のことになると、途端に心が狭くなる」
「……余は花に興味は無い。故に花のことを調べもしなかった。だが……仮にこれがハデスから贈られたものだったとしたら、余はさして興味が無い花に関する書物を読み漁っていただろう」
謝罪を口にしたハデスに対し、ポセイドンは自分の手の下にあるハデスの手をきゅっと軽く握り、そう返答した。
「……何が言いたい?」
「……言わねば分からぬのか?」
「ああ、分からない。……どうかお前の口から、もっと解りやすく教えてくれないか?」
微笑みを浮かべながら、ハデスはポセイドンに握られた手とは逆の手を彼の頬に添えて、そう弟に求めた。
ポセイドンが言った言葉の意味を理解できないほど、ハデスは察しの悪い男ではない。むしろ良すぎるほど察しが良い方だ。
分かっていて敢えて、ポセイドンに胸の内を語らせたいのだ。
「……他者の想いなど知らぬ。余はハデスに愛されていればそれで良い」
ポセイドンがそう言い終わるや否や、ハデスはポセイドンの頬に添えていた手を後頭部に回し、柔らかく弾力のある唇に触れるだけの口付けを落とす。
「もう良いのか?」
「まだ日が高いだろう? 今は“これ”だけで良い」
明日になればまたしばらく会えない日々が続くが、今日という日が終わるまでは、日が落ちてまた昇るまでにはまだまだ時間がある。
「……日が落ちて月が昇ったら、贈るものがある」
「そうか。喜んで頂こう」
冥界の王と海の王の兄弟はお互いに蠱惑的な笑みを浮かべながら、今度はどちらからともなく唇を重ねた。