落陽の空騒ぎ 午後の陽気が心地良い。温かな光の下で、野菜が瑞々しく輝いている。それらを不安定に揺らしながら、私は石畳の上で不規則な足音を鳴らしていた。
「わっ……とと。ふう……」
紙袋を胸元に抱き直し、少し張り切り過ぎたかしらと溜息をつく。気合を入れ直してよたよたと歩みを再開させると、後ろから馴染み始めた声が聞こえた。
「おいおい。何やってんだよあんたは」
「!」
驚いて足を止めた拍子に、ぐらりと林檎が傾く。
「あっ!」
「よっ、と。ほらよ、大丈夫か」
目を丸くして固まっている間にも、骨張った手はぱしりと林檎を片手に受け止めた。
「ヒューゴさん。ありがとうございます」
お礼と共に見上げると、逆光の中で何とも気不味そうな表情を浮かべる彼と目が合った。
「あ〜……まあ、なんだ。養護施設の買い出しか? にしてはちと多過ぎねえか? あの人らしくもねえ」
「養護施設の買い出しの分もありますが……ついでですので、この前の女性にも、と」
私の言葉に、彼も納得したように相槌を打った。
彼らと出会ったあの事件を経て、少しずつだが外の世界を知りつつある。養護施設の仕事もしながら、時には便利屋や自警団を手伝うようにもなった。手伝うといっても、届け物をする程度のことだけれど。先日手伝った仕事は、寿命が近い女性に物資を届けるというものだった。一人で病に耐える彼女のことが気になって、私にできることならと今日も様子を見に行くことにしたのだ。アンクゥさんに与えられた機会を、無駄にはしたくなかった。予想外に多くの荷物を抱えることになってしまったのだが。ヒューゴさんも悩ましい目付きで私を見詰めている。
「……いくらなんでも多過ぎやしねえか?」
「道中、彼女のお兄さんにお会いしまして……」
彼は呆れたような大きな溜息を吐いた。
「あの依頼主か。本当に心配なら、便利屋やあんたに頼まず自分で持って行けば良いのによ。……あんたもあんただ。この国じゃあお人好しなだけの人間なんて、良いように使われて終わりなんだからよ」
責めるような口調に苦笑すると、彼は目を逸らして指の関節で額を擦る。勘弁してくれよと呟くと、無造作に私の腕から荷物の殆どを取り上げた。
「? ヒューゴさん?」
「ったく……ほら行くぞ、働き過ぎのお嬢さん」
そう言って大きく踏み出す彼に置いて行かれそうになるが、気付いたのかすぐにその歩調は緩められた。ヒューゴさんも、十分過ぎるほどお人好しではないだろうか。そう思いながらお礼だけを告げて隣に並ぶ。
「この前言ったばっかだろ。献身も良いことだが、無理をしなけりゃ責められるってわけでもねえんだ…………って、ははっ嫌だねぇ歳を食うと。あんたの好きにすりゃ良いんどけどよ」
今度は彼が苦笑する。長い間イヴの相棒をしてきただけのことはあって、理想と現実を――理想と限界を、冷静に見極める人だ。
「そう、ですね。心配してもらえるのは嬉しくもありますが……申し訳ないですし。それに……」
大事な人達を心配させるなんて。それも、私の身勝手な感情で。
口籠る私に何を思ったのか、ヒューゴさんは明るく締め括った。
「……まあ、こうやって人に頼り頼られってのも悪くねえだろ? アドルフやシスター・サロメも喜んでるさ。ほら、さっさと済ませねえと、シスターがまた心配しちまう」
冗談混じりに急かす声に、私もまた取り繕って頷いた。
あんたはついでと言ったが、それにしては随分と遅くなっちまったな。女性の家を出ると、少しずつ暮れつつある日に彼はそう言った。
「すみません、付き合わせてしまって。先に帰ってもらっても良かったのに……」
「謝るなって。あんたがそう言っても帰らなかったのは俺の方だろ。俺も気にならなかった訳でもねぇし……便利屋としてな」
長居してしまったのは、床に伏した彼女の代わりに家事などを片付けていたからだ。
「あんた、なんつーか意外と頑固なところあるんだよな……養護施設の方は大丈夫なのか?」
「はい。今日は頼まれていたものを買った後は好きにして良いと」
彼女の様子が気掛かりだったことも、マムにはお見通しなのだろう。つくづく頭が上がらない。
「なるほどな。どおりでやたらと荷物が少ねえわけだ」
私が肩にかけた小振の鞄を見て、彼は感心したように顎を指で撫でた。
「ええ、本当に…………敵いません」
私の声に、ヒューゴさんは間を置いてぽつりと言う。
「…………養護施設まで送るわ。これから暗くなるからな」
「良いんですか?」
「イヴ共々、チビ達に気に入られちまってるからよ」
「……ふふ、あの子達も喜びます」
肩をすくめる彼に笑い返しつつ、気になってしまう。彼の予定は大丈夫なのだろうか。私の不安を押し流すように、どこからか陽気な音が聞こえてきた。
「……あれは……庶民区じゃ珍しいな」
ヒューゴさんが呟く。人々の賑やかな歓声も混じり始めると、見たことのない光景がそこにあった。
「……!」
初めて聴く音色は、輪の中心の男性が持つ加工された木の棒から溢れているようだった。思わず足を止めて魅入ってしまう。
「楽器は初めて見るか?」
「がっき……あれが、楽器なんですね。本で読んだことならありますが……」
「ま、外の国の楽器がどうだかは知らねえけどよ。本で見たどっかの暇な貴族が作ったらしいぜ。俺も実家を出てからは初めて見るな。こっちの人間はそんな余裕もねえだろうし」
「なるほど……」
命を繋ぐのに必死な人々が行き交うこの場所で、ひとときの余白が生まれている。それを生み出す中心の彼がヒューゴさんに重なった。こことは違う場所を知っていて、ここで様々な人と生きている彼らは、今何を考えているのだろう。
「ヒューゴさんは……色々なものを見てきたんですね」
「あ?」
「私が知らないことも、助言も、手助けも。与えてもらってばかりです。今だって、私一人ではきっとにこの場に留まっていられませんでした。どうして私に、ここまで良くしてくださるんですか?」
見上げると、彼の見開かれた瞳に反射する夕陽が微かに揺らいだ。
「……ははっ、いきなり何言ってんだよ。あんたは、……俺の親友の義妹で……だから…………」
彼の笑い声はいつだって軽快だ。だがその声はどこか空々しい。
「………………そうだ、なぁ、お嬢さん」
唐突に、彼の手が差し出された。
「あんた、馬鹿騒ぎなんてのもしたことねえだろ?」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑る彼に、首を傾げながらその手を取る。すると力強く引き寄せられて、その勢いに大きく一歩踏み出してしまった。危うく彼の足を踏みそうになるが、流石の反射神経でヒューゴさんは足を引いた。
「⁉ ヒュ、ヒューゴさん⁉」
目を白黒させていると、彼は大げさな笑い声を響かせる。
「なんだ、案外思い切りが良いじゃねえか」
「いっいえ、今のは……! 私、踊ったことなんてありませんよっ?」
「いいんだよそんなの、俺の足を避けて、ほら、今度は踏み返そうとでもしてくれりゃ良い」
繋いだ片手で危ういバランスを保ちながら、彼にリードされるままに体が回る。それと共に思考もぐるりと回されてしまい、先程の答えも勢いに誤魔化されていく。何度も彼の足を掠めてしまい、その度にひやりと肩が上がった。
「わっ、す、すみませんっ」
「気にすんな、こんなの楽しむことだけを考えるんだよ。音楽に合わせて! ほら、聞こえるだろ?」
「……!」
そう言われて、初めて気が付いた。私達を取り囲む煌めきに。子供が駆けるような無邪気な音色。華やかな喧騒。囃し立てる口笛、石畳の上で跳ねる無数の足音。回る視界いっぱいに、人々の笑顔が満ちている。彼らがはしゃぐ輪の中――私も、そこにいた。
「……あ、ひ、人が……きゃっ」
「余計なこと考えるなよ。折角の音楽が台無しだぜ?」
「……そう、ですね」
巡り流れる響きは駆け足だ。私の曇りも追い抜いていく。ただ、今は……どうしようもなく、浮かれてしまいたい自分もいた。奥底から湧き上がる歓喜に、緊張に、心地良く震える足が躍ることをやめられない。
「そう……こうやって……おっ、良い調子だ!」
「ふふっヒューゴさんが……、上手だから、です!」
出鱈目なステップが高揚を加速させる。自分の声が上擦って、それでも体の内側から。笑い声が、次から次へと溢れてくる。
「悪かねえだろ、こういうのも」
「……はいっ!」
橙の夕陽の中で、楽器の旋律が、人々の歓声が、刻まれる足音が、彼と私の笑い声が。ひとつの空間で響き合う。その中で、目の前のヒューゴさんの笑顔が。ただ只管、只管に眩しい。
「……なんつうかよ。ちょいとはしゃぎ過ぎたかな。悪いな、こんな時間になっちまってよ」
「いえ、とても楽しかったです。ヒューゴさんのお陰です」
楽しい時間が流れるのは早いものだ。薄暗い道を二人で歩きながら、未だにふわふわと定まらない足取りを自覚してしまう。
「人の輪の中にいるというのは……あんな気分なんですね」
「………………お嬢さんが楽しめたのなら、俺も足を踏まれた甲斐があったってもんだな?」
「その節はすみません……!」
揶揄うヒューゴさんに頭を下げる。可笑しそうに彼は一度笑ったが、その顔はふと表情を無くした。
「…………なんだ?」
訝しげに眉を顰める彼の視線を辿ると、人々が薄暗い路地の前に集まっている。どこか、不穏な騒めきを含んで。
誰かが振り返る。私に気付いてしまう。そして、怯えた目を――いつもと同じ目を、向けて。
「……し、死神だ。死神が来たぞ」
憎悪が、はっきりと聞こえた。
「……………………………………え?」
――――こうして。悲劇は再び幕を開ける。
私達の仮初の共鳴を。その奥を、暴き立てるかのように――――
……ああ。どこまでも自分が滑稽だ。誰かが俺を嘲笑ってるみてえな気持ち悪さに、胸を掻きむしりたくなりながら荒々しく扉を閉めた。
「くそっ何でよりにもよって今なんだよ……!」
こいつを保護するなんて役目、俺のであるはずがねぇってのに。何で俺がこんなことを、よりにもよってこいつに。
身を隠した場所は、俺が一時的に預かっている小さな酒場だった。昔馴染みの店主がしばらく留守にするとのことで、休業の間の管理を頼まれていたのだ。すぐに養護施設にでもこいつを引き渡したいところだったが、人目を避けて辿り着ける場所なんてここ以外に無かった。
ソファに横わらせた娘は気を失っている。錯乱した誰かがこいつの頭にものを投げつけたからだ。紅潮していた頬は青白く血色を失い、その手は冷たく小刻みに震えていた。
「……………………」
…………今なら。
今なら、こいつを殺せる。
今後に考えを巡らす。アドルフは勿論、イヴも当然こいつを守ろうとするだろう。自分の身を犠牲にして。
「……はっ、我ながら馬鹿げてる」
そう自嘲しながら、ふと指先を彼女の頼りない首元に伸ばした。殺すつもりなんてない。そんな度胸俺には無い。だが……手を伸ばしてしまった、その時。
「……な、さ…………」
か細い声が、絞り出された。
「ごめ……さ…………ゆるさ、ないで……」
「…………!」
はっと息を飲む。弱々しいその声は、俺の頭を強かに打った。
「……許せる、わけが…………」
ふつり。ふつり。糸が切れて。
「…………許せるわけねぇだろ……っ!」
瞬間、激情が俺を襲う。なのにどこか冷静な頭が、強張る指に力が入るのを懸命に抑えようとしていた。
「くそっなんで…………くそっ、くそがよ……!」
首から手を離すことも、そのまま力任せに絞め上げてしまうことも叶わず、ガタガタと震える指先を凝視する。呼吸が加速する。いつまでこんな時間が続くんだと、終わりを願ってぎゅっと目を閉じた、その時。
「……ああ…………そうですよね」
「‼︎」
浴びせられた冷や水に背筋が凍る。弾かれるように視線を向けると、娘が酷く申し訳なさそうに俺を見ていた。
「あっ、あん、た、な、っで」
「………………ごめんなさい」
酷く狼狽する俺に対して、小娘は嫌に落ち着いているように見える。
「やっぱり…………そうですよね。ヒューゴさん…………今まで、ごめんなさい。ずっと、目障りでしたよね」
虚な声が静かに響く。それは俺の感情を引き摺り出した。
「……ああ…………ああ、そうだよ。イヴを二度も殺しかけたやつのことなんて、許せるわけがねえだろ……」
一度、ほろりと零れ落ちると。もう、止められない。
「ずっと……ずっと目障りだった! イヴにあんな傷を残しておいて、なのにお綺麗な、純粋そうな、善人の顔してイヴの隣に並びやがって! 元から、そこに居たみてえによ……!」
感情に操られるままに罵る俺を、娘は透き通った瞳でただ見詰めている。それは俺に続きを促すようだった。
「ああくそ……っなんで、全部受け容れるみてえな顔して、そんな目で俺を見るんだよ! 図々しい癖にお人好しで、今更、今更他人に献身ばかりを捧げやがって、そんなあんたを見てると俺は! あいつみてえに、自己犠牲ばかりしてるあんたを見てると! くそっ……頼む、頼むから…………」
震える手は娘の首から離れ、俺は自分の顔を手で覆っていた。
「頼むから、……掻き乱すな。……これ以上、俺を…………俺達の前から、消えてくれ………………」
「…………………………」
隠れて、しまいたかった。
沈黙がその場に満ちて、どれだけ経っただろう。耐え難いほどに息が詰まる。蹲る俺の前で、彼女は囁いた。
「…………分かり、ました。今まで……ありがとうございます」
「……!」
顔を見上げると、涙を湛えた彼女がそこに居た。
「なんで………………」
「もう、十分です。あんな風に、人の輪の中ではしゃげる日が来るなんて、思ってもいませんでした。ヒューゴさんのお陰です。……あなたが気を遣ってくれるたびに、認められたみたいで嬉しかった。外の世界にも、居場所ができた気がした。だから……」
そう言って。彼女はお綺麗な顔で微笑むのだ。
「……たくさんのものを頂いたから。あなたに、何かを返せるわけではないけれど……」
「…………なんで……そんなこと言えんだよ」
どうやっても、自分の声が震えてしまう。
「あんたがそうやって……、綺麗なふりを、して……あんたを前にすると、俺は! 自警団として、便利屋として、必死で繕ってきた俺が! 自分のためにあんたを消そうとしてる俺自身のことがっ、情けなくて、堪らなくなるんだよ……!」
あんたと違って俺は。利己的にしか動かないから。あいつとは違って、この国の普通を超えられないから。
「あなたは……間違ってなんかいません」
それは聖母が告げる福音のように。俺に降り注ぐ。
「………………は、」
「あなたが私に、献身がなくても嫌われるわけじゃないと言ってくれたように。あなたが私を憎んでいたって……嫌われるわけじゃないんですよ」
冷たく凍えた指先が、俺の手に触れる。強張って顔に張り付いていたこの手が、労わりに包まれてしまうのを他人事のように見ていた。
「……っ」
後悔の念が疼く。誰にも、親友にも、相棒にも知られたくないことを。自分自身が一番、嫌悪している俺を。よりにもよってこいつに、肯定されてしまった。それが……どうしようもなく、惨めで、みっともなくて、頭が焼き切れそうで……もう嫌だ。耐えられない。
「や、やめ……やめてくれ………」
「ごめんなさい……私だって……人に尽くしていたのは身勝手な理由です。ずっと私は人の死に向き合わず、誰かの助けを求めてばかりだったから。償いには、なりませんが…………自己嫌悪から、逃げたかっただけなんです。私の方がよっぽど、情けないんです、ヒューゴさん……あなた自身を、否定しないで……」
穏やかに言葉を紡ぐ、彼女の顔を見ることができない。ああ、こいつはどこまで……お人好しで、卑怯な死神なんだ。
「………………あんたは…………狡い女だよ……」
「…………そう、ですね」
困ったように、その女の声は笑った。
「私は狡いから……今だけは、許してください。ちゃんと、消えますから。今だけは…………」
俺の前に、女は懺悔するように膝をついた。今の俺を一人にする気はないらしい。それが余計に苦しかった。
「……………………ああ…………酷え気分だ…………」
繋がれた手は互いに冷え切っている。いつまで経っても温まることなどないのだろう。削られた精神は縋る何かを求めていて、それでもこの女を許すなんてできるはずも無かった。だが、ぐちゃぐちゃに乱された感情は俺から思考力を奪いつつある。
「………………たのむ…………たのむから…………」
戦慄く唇から漏れる声は掠れていた。
一刻も早く消えてくれと求めながら。自分を慰める何かを願いながら。俺はただ、空虚な懇願を繰り返す。死神だけが、それを静かに聞いていた。