静かな夜の裏側で 今日も山内は平和である。時折猿の生き残りが現れるものの、すぐ鎮圧できており犠牲も少なくてすんでいる。20年前にあった、里一つ分犠牲になるような事件は起きていないし、これからもないだろう。
なんたって、あの英雄である雪斎様とその片腕がいらっしゃるのだ。山内の最盛期はいつかと聞かれれば、今であると自信を持って言える。地震、魔薬等で不安定だった山内に平安を、繁栄をもたらしたのは彼が率いた山内衆だ。あの大戦で命を落とした者も、生き延びた者も関係なく、戦い、勝利を勝ち取った彼らは間違いなく語り継がれるべき英雄である。あの光に照らされたかつての参謀様を見て、幼いながらにああなりたいと思った。買ってもらった綺羅絵はいつでも持ち歩き、山内当世風俗通は擦りきれるまで何度も読んだ。おかげで字だけは覚えるのが早かったと、親に呆れたように言われたものだ。
そんなわけで下っ端ながら、見回りや警護等を業務時間いっぱいやれば後は詰所でのんびり出来る暮らしを送っている。春には仲間内で花見酒をし、水無月にはしとしとと雨が降るのをながめながら花瓶に差した紫陽花を愛でる暇すらある。実に穏やかな暮らしがゆったりと過ぎていく。
しかし暑さが湿気を吹きとばしたころ、突然嵐はやって来た。日の出とともに、鋭く指すような笛の音が鼓膜を貫く。可能な限り全員緊急集令の合図である。驚いたが勁草院でこのあたりは慣れっこであるため、僅か数分で太刀を携え広間に全員が集まっていた。
知らされてはいたが、実際聞いたのは初めてである。自身だけでなくここにいる全員がそうであろう。冷静さを張り付けつつ、緊張と混乱でいっぱいいっぱいな様子である。まあ、実際は初めてでもなく、冷静極まりない者達が居たことは知らなくてもいいし、知るところでもない。
そんな張りつめた空気の中、カラリと障子を開けて入ってきたのは博陸候の補佐を務める治真であった。いつもは博陸候に付き従い、宮中に出入りするため正式な礼服を着込んでいる彼は、今は簡易の羽衣のみの姿である。馬に乗る暇もなく、転身して飛んできたのだろう。
より緊急性が煽られ、緊張する彼らに命じられたのは虫取であった。虫取、つまり子供が蜻蛉やら甲虫を捕まえるあれである。
具体的には「今日日が沈むより前に、中央山全域の蝉を駆除せよ」「特に執務室に声がとどかぬように、聞こえたら足を切る」である。それだけ伝えると、補佐殿は転身して飛び去ってしまい、戻っては来なかった。
正直訳がわからないが、どんな小さなことでも博陸候の命に背くことはあり得ないし、理解しようと考える事自体不敬である。あの方の言うこと成すことに間違いは無いのだから、従えば物事は上手く廻るのだ。
というわけで彼らはせっせと朝から一日中ずっと、虫取に励んでいた。自分は何をしているのだろうかと頭をよぎる者も居るが、それは忠誠心でもってなかったことにして表には出さなかった。
なんとか日の入りまでに終わらせ、一人が執務室に報告に行ったところ、一人で黙々と書類を裁いていた補佐官殿は少しだけ口角を上げたという。あとは静かな夜を願うだけだ。
一仕事が済み気が抜けたのか、皆宿舎で夕食をとるとぐっすり寝付いてしまった。
この日から蟋蟀が鳴き出すまで虫の声が消えたのも、なにやら山内衆が大物狩りをしたらしいと言う噂が流れたのも、全ては夜が明けた先の話である。
日の落ちる頃、完了しました、と短く報告に来た頼斗に治真はただ一言そうか、と返した。この後閣下になんと言われるだろうか、追い出されるかもしれないと言う不安は変わらない。
しかし、あの方が先代陛下の事を思い出す鍵を減らせたことに喜びがわいてくる。おそらく今笑っているのだろうと思うし、彼がほっとした様子からそうなのだと認識した。もう行け、と仕草で示すと彼は音もなく退室する。
あの方は記憶力に優れている。だから無くすことはできなくとも、思い出すことがないようにしたい。
亡くなった人にはもう勝てない、比較することすら出来ないだろう。でも生きていれば増やすことは出来る。公私共に過ごした時間はとうに越えているし、これからも隣にいるのは自分である。
そこだけは誰にも譲らないし、今まで共に過ごした時間は上書きされることのない事実である。
月の光の当たらぬ、狭く暖かい布団の中でしみじみと感じ入る。自分の人生は命は、全部彼のものなのだ。
そして同時に、彼の人生と心の一部は自分の物なのだ、と。