噂話の考察時計の秒針すら眠る、深夜の資料室。
資料を捲る僕の対面に座った黒髪は、そのまま特に言葉を繋げることもなく、呑気にふたり分の珈琲を並べている。
「はい、どうぞ。」
徐に差し出された手には、木製のマドラー。いつもの使い捨ての、安価なもの。
視界の端でその様子を捉えながら、態々それを手渡そうとしていることに若干の違和感を覚えた。
「そのまま並べてくれれば良いだろ。」
資料から目を離さず手だけを迎えに出した直後、此方に向けていたマドラーを押し付けるように持たされ、そのまま手首を引かれる。
「ねぇ。『零落プログラム』って、知ってる?」
机の上で対面方向に身を乗り出す形になっている僕の耳元で、隻眼が囁いた。
「……は?」
そんなことを言う為だけにこんな小細工をしたのかと思うと、疑問を通り越して苛立ちすら湧き上がってきそうになる。
「そのくらい知ってる。それよりこれ、離せ、…って、」
振り払おうとした手が全く動かず、思わず焦りが芽生えた。
「しーっ、駄目だよ。何処で誰が聞いているか分からないからね。」
鋭い目付きの下で柔和に弧を描く口が、今は一層、気味悪く感じる。人を食ったような、とは、こういうことを言うのだろうか。
「…分かった、分かったから。だから一旦……、くそ、全然離れない。」
十数秒奮闘したがまるで勝ち目が見えないので、観念して大人しく会話に付き合うことにする。…多分ちゃんと話が終わらないと、ずっとこのままな気がするから。
「こんな時間にこんな場所で、他に一体誰が聞いてるって言うんだ…」
「………はぁ。…さっきも言った通り、それについては知ってる。と言っても、小耳に挟んだ程度だけど。」
小声で返す僕の言葉に満足気に頷いた黒髪が、僅かに此方を向いて揺れた。
「どう思う?」
「どう思うも何も、……」
伏せるように視線を逸らして、浅く短い溜息を落とす。
「…随分皮肉な言われようだとは思うけど。」
「やっぱり少年もそう思うんだ?…でもさ、」
口元に人差し指を当てるいつもの癖をしながら、こいつは続ける。
「少し違う角度で見てみようよ。…この言葉は、単語は、果たして本当に俺たちに向けられたものなのかな?」
「……何が言いたい?」
「いやなに、この研究所は一体、何を地に引き摺り降ろすつもりなのかと思っただけだよ。」
零落というのは本来、高い地位にいる存在が地に落ちることだからね。と、緑の隻眼が意地悪く歪む。
「そんなことはどうでも良い。僕たちには関係無いし、明確には知らされていないことをあれこれ考えたって仕方ないだろ。……それより、いつまでこうしてるつもり?珈琲が飲めないんだけど。」
「ははは、ごめんごめん。あんまり冷めたら砂糖が溶けなくなっちゃうね。」
「うるさい。」