白昼夢にさよならを「あれ、兄さん。これーー」
「ああ。その箱なら開けておいてくれ。引菓子でバームクーヘンを頂いてきたんだ」
「引菓子……いつの間に結婚式なんて参列してきたのー?」
そういえば、数日前クリーニング店のカバーがかかったスーツがかけられていたと思っていたけれど、その時の為のスーツだったのか。共用ラックにかかっていたものを思い出して納得がいく。
食欲に負けた僕はありがたく中身を頂戴することにした。切り口が年輪のように見えるから末長く夫婦関係が続きますようにといった意味が込められているという話は、いつだかのウエディング撮影の時に耳に挟んだような気がする。
そういうことを言われると刃を立てるのを少しばかり躊躇してしまうのはきっと僕だけではないんじゃないと思うなー。兄さんは今はいらないというから、ひとまず自分が食べるだけを切り分けてそのままぱくりとかぶりつく。行儀が悪いなんて言われても、ここにいるのは僕と兄さんの二人だけなんだからいいでしょ。
コーティングされた砂糖と香ばしいバターの香りが口の中一杯に広がった。美味しい。きっとそれ用の、いいものを取り寄せてるんだろう。バームクーヘンなんて、前に食べたのはコンビニで売っている小さなものを手に取った時のような気がする。
どうやら、兄の高校時代の同級生が結婚したらしい。同じように上京した仲間だったから、帰省をせずに済んだおかげで参列することができたという。そのまま式の内容をかいつまんで話し始めた幸せの一小節は、僕の耳を通り抜けていった。
……そっか、兄さんはもう、結婚を意識してもおかしくない年なんだ。
自分より五つ上の兄。毎日残業に追われ、時には帰ってこない時もあるほど多忙なこの人は、一度体調を崩して病院に運ばれたこともあった。きっとあれだけ忙しいだろうから彼女なんて作る暇もないだろうし、浮いた話の一つも耳にした事がない。それでも、出世街道まっしぐらな兄のこと。顔だって悪くないし、いつかきっと素敵な女性と隣に並んでバージンロードを歩く日が来るのだろう。
――じゃあ、雨彦さんは?
気がついてしまった。僕のほぼ一回りも年上の恋人は、とっくに適齢期というものを迎えていることに。
うちの事務所では前例がないだけで、男性アイドルが結婚しながら活動を行なっているという話を耳にしたのは一度や二度のことじゃない。いつかきっと先輩たちの中からそういう人が出て来ても、正直おかしくはないと思う。うちの事務所は、恋愛感情を理由に(ましてや真剣交際ならば尚更)解雇なんてする所じゃないはずだ。ことがことだから公にしていないだけで、もしかしたら今もそういった覚悟を決めた上で素敵な女性とお付き合いをしている先輩だっているのかもしれない。
僕は、まだ二十歳にもなっていない未熟なこどもだ。一応、成人という括りにはなったけれど、まだまだ一人でできないことの方が多い。恋愛だって、一時的なものとしか見たことがないし、将来のことだって何もわからない。今が幸せなら、それでいいと思っていた。淡い、白昼夢のようなひとときを過ごせたら、それだけで嬉しかった。結婚なんて、夢のまた夢のようだ。いつか、いつかの未来にする日が来るのかもしれない。でも、今はまだそんなこと考えもしていなかった。
……でも。雨彦さんは違う。良く考えれば、もう将来を見据えた相手を探し始めてもいい年齢だ。あんないい人を周りの女性だって放っておくわけがない。あの人の家柄、僕に隠しているだけで縁談なんてものも来ているのかもしれない。僕が、まだ大人になりきれていない、ほとんどこどものような僕が。こどものわがままで、おとなの雨彦さんを縛り付けては、いけない。だって、僕は。――雨彦さんにとっての重たい、ただの足枷にしかなれないのだから。男の僕には、雨彦さんを幸せにすることはできない。
「……ら、想楽?」
「あ、えっと」
まずい。考え込んでいたせいで兄さんの話、全然聞けてなかった。
「お前、顔色悪いぞ。体調でも崩したのか?」
「え、あ、うーん。……ちょっと、疲れが溜まってたみたいー。食べ終わったら、すぐ寝るよー」
アイドルなんだから体調管理には気をつけろよ、なんて。自分のことを気にかけてから言ってよねー、とは今はいえなかった。
手元にあった中途半端に封を切ったままの箱を奪われて、手の中の欠片はそのまま自室へ押し込まれる。夕飯の時に一度声かけるから、と言われて扉を閉められて、あっという間に暗い部屋にひとりぼっちだ。
長い間持ったままだったバームクーヘンは、外側が溶け始めて手がべとついてしまった。慌てて残りを口の中へと押し込む。口の中に無理やり詰め込みすぎたせいで喉に詰まって苦しい。口の中の水分を欲しているはずの体は、息苦しさに目尻から一滴の雫を落とす。ゲホ、ゲホ。何度か咳き込みながら無理やり唾液と共に喉の奥に流し込む。一度美味しいと思ったはずのそれは、すっかり味がわからなくなっていた。
ぱさぱさに乾いた口の中を嘲笑うように、生温い水滴が頬を伝っていく。静かに垂れていくそれが苦しさを紛らすためだったのか、それとも違う理由だったのか。
頭の中に思い描く、背の高い優しい瞳をした恋人。でも、その目を向けるのは僕じゃない。隣に並んだ誰とも知らない女性と、そしてその間に立つ小さな子供に。僕と一緒にいては、決して手に入らないもの。……はやく、解放してあげなきゃいけない。僕のわがままで付き合ってもらって、最後の最後まで我儘を強いるなんて。いっそ嫌いになってくれた方が楽だと思った。
――おもむろに取り出したスマートフォンの、見慣れたメールの未送信画面。暗い部屋で白く光るそれが映し出す、静かに入力されたその文章が答えだった。
『雨彦さん。僕と別れてくれませんか』