不思議な〝彼〟が突然、私の部屋の窓辺に現れたその日の夜は、今でもよく覚えている。
これは、私の中の宝物のように大切な、遠い昔のお話。
時代はゴールドラッシュの真っ只中、一攫千金を狙って、人々が西へ西へと大移動を繰り返した時代。
例にも漏れず、その流れで私達家族もそこへ越したばかりだったけれど、この周辺は比較的静かで暮らしやすいはずだ、という父の言葉通り、比較的穏やかな日々を過ごしていた。
平凡な私の日常とは裏腹に、外の世界では毎日色々なことが起きているらしかったけれど、耳に入ってくる限られた情報が私にとっては全てで、どこか物語の中のお話ように、私の中では現実味を帯びてはいなかった。
そんな退屈な日常のどこかに、ワクワクするような〝何か〟を求めていた、そんな私の気持ちが〝彼〟として目の前に現れたのかもしれない、と今では思う。
うつらうつらと、ベッドの中で微睡始めた夜更け、いつもより騒がしい気配に目を開けた。
「…なにか揉め事かな…」
少し何かを期待するような、ドキドキするような、ちょっとした高揚感が眠気を醒まし、窓辺に足を進ませ、カーテンを少しだけ開ける。月の光がとても綺麗で、その光に照らされる人影が見えた。
「こんな時間に、お父さんのお客様かな…」
ぼうっと窓の外の人影を眺めていると、その人が振り返り、目が合った。
きらりと光る夜のような青い瞳が、とても綺麗だったのをよく覚えている。
「ねぇ、あなたこんな所で何してるの?」
自分でも声が弾んでいるのがわかった。
この人が何者か、なんてこの際どうでも良かった、ただ、私の知らない世界を知っている人だ、と言う直感に近い何かと純粋な好奇心が、窓を開き、彼に声を掛けさせた。
その人はまさか声を掛けられると思っていなかったようで、一瞬面食らったような表情をして、歩き去ろうとした足を止めた。
人差し指を唇に当てて、〝静かに〟とジェスチャーをする。
「はじめまして、こんな夜更けに騒がせてしまってごめんよ、もしかして起こしちゃったかな?」
彼の第一声は、こんな謝罪から始まった。
それから彼は、時折窓辺に現れるようになった。
会いに来てくれるのは、必ず夜の帳が降りた頃、合図は窓に小さくノックを三回。
綺麗なバターブロンドの髪と、キラキラ光る夜の色の瞳、夜更けにしか会えない星屑の人、私だけの秘密。
私の思った通り、彼は物知りで、私の知らない世界の話を沢山してくれた。
ここより西はもっと暖かいこと、興奮した牛を大人しくさせるコツ、馬と仲良くなる方法、雨が降り出す時の雲の流れ、鉄道の乗り心地なんて言うのも教えてくれた。
「名前は教えてくれないの?」私がそう訊くと、彼は決まって「僕にはいくつも名前があって、今はもうほんとの名前を忘れちゃったんだ」なんて言う。
凄くおかしな人、でもそれでも良かった。私にとっては名前が分からない、なんてことは些末なことで、こうして会いに来てくれて、お話をしてくれるだけで嬉しかったから。
色々な事を教えてくれる彼は、同時にとても忙しい人でもあったようで、ひと月現れない日もあれば、二日続けて顔を見せてくれることもあった。
会いに来てくれるときはいつも笑顔で、お話をしてくれる時に移り変わる豊かな表情は全部素敵だった。特に声を出して笑う時の笑顔はとても可愛らしくて、つられて笑ってしまうことも沢山あった。
今日は会いに来てくれるのかな、そう考えて、毎日少しだけ夜更かしをしてしまう習慣が付いてしまったのは、きっと彼のせい。
それから、そろそろ夏が終わろうかという頃、笑顔が可愛いあの人は、ぱったり現れなくなった。
どこか別の遠い遠い場所に行ってしまったのだろうか。お仕事が忙しいのかな、もしかして嫌われてしまったのだろうか。答えの出ない事をぐるぐると考えるだけで、何もすることが出来ない自分の無力が嫌になった。名前も知らないようでは探しようもない、きっと名前を言えない理由があったんだ、そう思うと両親に相談することもはばかられた。
あの時はまだ恋を知らなかったけれど、彼がもう二度と現れないことを無意識に悟った日の夜は、少しだけ初秋の肌寒さが堪えた。