父の残影「ほら」
大きな父の手が握らせてくれたのは、鮮やかな色が目を引く玩具だった。薄い木の皮をひねった羽根が四枚、ついていて、風が吹くとくるくる回った。
気になって見ていたのを父はどうして気づいてくれたんだろう。慕情は嬉しくなって、ありがとう!と大声で言った。それから息を吹きかけてみたり、傾けてみたり、すぐにそれに夢中になった。
「情儿、なにか食べるか?」
父は穏やかにそう言って、立ち並ぶ屋台を見回した。湯気の上がる蒸篭、炭の匂い、風に舞う煙。
「白糕がいい!」
慕情は迷わずそう言った。真っ白で、ふわふわして、甘い。こんな屋台で、この菓子を食べたことがあったと覚えていた。
「ああ、じゃあ、店を探そうか」
「おかあさんにも、おみやげにしよう」
慕情がそう言えば、温かくて大きな手が、頭を撫でてくれる。
「お前は優しくていい子だなあ、情儿。かあさんのことは、いつまでも大切にするんだぞ」
うん! と慕情は一際大きく頷いた。
「なにかの間違いだ! 私はやってない! 私は……!」
「黙れ! この期に及んで口答えするつもりか! これが証拠じゃないか! これは国王陛下のためにつくられた一点ものだ! なぜここにあるのか!? さあ、連れていけ!」
男の低く大きく煩い声が響き渡った。
「やめて! やめてください!」
縋る母の声はいくつもの声に掻き消され、伸ばした手は届くどころか、父の姿は遠ざかっていく。
引き摺られるように連れられるその姿がふり向いて、確かに慕情と視線が合った。
「……情儿!」
しっかりしたその声が、微かな笑みとともに慕情の名を呼んだ。
慕情の父は、反物を扱う商人だった。その目利きは定評があり、彼が見立てた上等な反物に、妻が美麗な刺繍を施したり、仕立てを行うこともあった。店構えは小さなものだったが、時折皇宮に出入りして品物を納め、商売としては成功しているといってよかっただろう。
しかしある日彼は国の役人に捕らえられる。
その妻の言い分によれば、彼は運悪く、皇宮から盗まれた反物を仕入れてしまったのだという。本当の盗人は見つからず、彼らの抗議虚しく、言い渡された罪状は、皇族への冒涜、強いては国家反逆。
処罰は重く、刎首刑だった。
彼は皇城の城壁の前で帰らぬ人となり、その家族の暮らしは日向から日陰へと反転した。
「オイ罪人の子!」
そう呼ばれて、すぐにふり向くほうが間違っているだろう。
なにかが肩にべちゃりと当たり、ふり向いた頬にまた、鈍い痛みとべとべととした感触と甘い匂い。
再び数人の子供の笑い声と共に次に投げつけられたのを、次は慕情はうまく掴み、しかし手の中でやはりぐちゃりと潰れた。赤いほどによく熟れて、腐りかけともつかない柿だった。
「アハハッ、お似合いだよ!」
そう笑って、小綺麗な衣を着た少年たちは笑いながら逃げていった。
残された甘い香りに、喉が鳴る。指先を舐めると、その甘さは慕情の脳を痺れさせるようだった。
なんと言ったら母は心配しないだろうか、そんなことを考えながら、慕情は掌に大事に柿を載せて歩いた。
いまではもう朧げな、ただ確かに最後に名前を呼んでくれたあの声、あの記憶。それは温かいあの日々を、母を大切にするといったあの約束を、慕情に繋ぎ止めてくれるものだった。
***
「東方の一部で、仙楽国の文化を模した祭りをする地域を見つけたんです。行ってみますか?」
その祭りはすぐだという。郎千秋からそう聞かされたから、行ってみたいけど、きみたちもどうだろう。
通霊陣越しのその誘いに、風信も慕情も断る理由などなかった。
「……あいつは来ないんですか?」
神出鬼没、ただしいつも謝憐の傍にいる、同じく仙楽に馴染みのある男。会いたくもないが、その姿を探して慕情は辺りを見回した。風信もきょろきょろと見回しているが、物陰にも銀蝶の姿も見つからない。
「うん、忙しいみたいでね。やっぱり気になっているんだろうけど。良かったら来年案内して欲しいと言われたよ」
なるほど外野は邪魔だと言わんばかりに。
いないのはこの上ないことだが、慕情はうんざりとため息を吐いた。風信も無言で眉を寄せている。
「うわあ、お店がたくさんだね千秋兄ちゃん!」
先頭に立った郎千秋の隣で、谷子が跳ねんばかりに浮き足立って、にこにこと辺りを見回していた。腰に下げた袋もつられるように揺れる。
祭りを彩るようにどこかから聞こえる笛と琴の音は、どこか懐かしい旋律だと慕情に思わせた。しかし故郷に良い思い出があっただろうかと、慕情は自嘲気味に唇を歪ませる。
立ち並ぶ露店を眺めながら、一行はだらだらと歩みを進めた。
途中、花冠武神の木像を売る店を見かけ、慕情は一瞬肝を冷やした。その掌ほどの像はどれも美しく造られ、それは昔もそうだった。花冠武神、はその響きから、像も廟も、繊細に美しく造られたものだった。
「まあ、きれい、縁起がよさそうねえ」
露店に立ち寄った婦人たちは、その木像を囲んで賑やかに、嬉々とした声をあげている。泡のように消えた信仰も、憎悪の対象であったことも、もう彼女たちは知らないのだ。
本当に長い長い年月が経ったのだと、その様子を気にも留めない謝憐を横目に、慕情は思う。そして最後尾からこの奇妙な一行を眺めていると、ふとなにかに目を奪われた谷子が足を止めた。なにか話している郎千秋と謝憐はそれにまだ気づいていないようで、二歩遅れた谷子に風信が追いつこうというところだ。
そこからの滑稽な様子は見ものだった。
風信は谷子の視線を追い、気づいたのだろう。しかし風信が声をかける前に、谷子は再び前を向いて、郎千秋と謝憐に追いつこうと早足になる。風信は谷子とその視線の先にあったものにきょろきょろと忙しく何度も視線を遣り、ついには小走りで列を外れた。
「ほら」
そう言って風信が谷子にそれを差し出すと、谷子はひどく驚きながらも満面の笑みで、ありがとう!と跳ねるような声を上げた。
風信が手にしてきたのは、鮮やかな色が目を引く、薄い木の皮をひねった羽根が四枚ついたかざぐるまだった。風に吹かれて、くるくると回る。谷子は息を吹きかけてみたり、傾けてみたりして、嬉しそうに遊んでいる。風信はそれを眺め、また襟足を掻くものだから、結った髪がほつれていくつか髪の束が流れていた。
「なにか食べようか。なにがいいかな」
謝憐がそう言って、また通りの露店に目を向けた。ちょうど食べ物を扱う露店が立ち並ぶあたりに差し掛かり、温かい匂いが漂ってくる。
なにやら盛り上がり始めた前方を、慕情はどこか遠くに見ていた。不意に、風信がふり返る。
「慕情、なにが食べるか?」
違う。
たぶんどこも似ていない。
しかし慕情は気づけばぽつりと口走っていた。
「……白糕」
「え? なんだって?」
眉を顰めた風信の表情が、慕情を引き戻す。
「……べつに。なんでもないし、なんでもいい」
慕情はそう吐き捨てるように言うと、風信はムッと更に深く眉を顰めた。
「クソッ、お前って奴は……」
風信は首をふって、再び前を向く。慕情はその一行の最後尾を更に遅れて、他人の心地で彼らを眺めた。
謝憐と風信が露店を見ながらなにか話している。谷子は道端の大道芸に気がつき、郎千秋と一緒に立ち止まる。謝憐はそれをふり向いて、自分を指差してみせ、谷子は喜び、郎千秋はどこか苦い表情を浮かべている。しばらく立ち止まっているうちに、包みを抱えた風信が戻って来て、謝憐が懐の財嚢からいくらか谷子に握らせて、谷子は腰袋を跳ねさせながら大道芸人の元に駆け寄っていく。
ふと謝憐が慕情をふり返って、ひらひらと手招きした。
慕情は足取り重く、近寄っていく。風信が慕情のほうを見て、眉を顰めた。まるで呆れているかのように。
「お前、なに拗ねてるんだ?」
それを聞けば慕情は自然と眉を寄せ、唇を尖らせるが、あまり顔を動かさずにそうなることに気がつく。つまりはずっと、仏頂面だったわけで。それでもそうだなんて慕情は認めたくはない。
「拗ねてなんかいない。人聞きの悪い」
「…………ほら」
しばし黙って、風信が慕情に差し出したのは、白くて、温かくて、柔らかくて、甘い匂い。白糕だった。
「お前もあまり食べないんだろうが、甘いものはこう……悪くないぞ。お前みたいにすぐ苛々する奴には特に」
「なんだっ…」
「ほらな」
勝ち誇った風信の顔に、慕情は掌の白糕を投げつけたくなるのをぐっと堪えた。
「はいはい、子どもの前でつまらない喧嘩はしないで」
謝憐がそう言ってふたりの間に割って入り、ふいと顔を逸らした先で、慕情の視線が見上げる谷子とぶつかる。
慕情は無言のまま手にした白糕を半分に割って、片方を谷子に差し出した。
「ありがとう!」
弾けるように笑った谷子に頷いて、ひとくち齧る。
柔らかくて、甘い、心の奥まで温めるような、やさしい故郷の味がした。