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    qa18u8topia2d3l

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    qa18u8topia2d3l

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    ジムトレーナーAU!
    かきたいとこだけかいている

    それを不運と呼ぶべきかDay1

     ――正直、かなり厳しいです。でも、約束された美はなにより彼が体現してくれる。信頼しかありません!
    『新規予約は数ヶ月待ち⁉︎ 稀代のパーソナルトレーナー 慕情』
     
     その雑誌の特集記事で涼やかに微笑む男の姿は、『フィットネス&トレーニングジム Heaven's』の入口で毎度いやでも視界に入ってくる。
     実際にはそんな笑顔を見たことは一度もない、せいぜい人を小馬鹿にしたような嘲笑くらいだ、と風信は思った。
     スタッフ用のロッカールームに向かう途中に通り抜けたラウンジの一角で、カメラマンと記者とモデル、のような人とオーナーの姿を見とめる。早番だろうが遅番だろうがほとんどの日に一番に来て、電源をつけてまわるような風信が出勤するより早い時間だ。
     その中心にいるのはやはり慕情で、手にしたファイルを覗き込むようにしている。
     彼はいわばこのジムの稼ぎ頭で、継続もスポットも彼の予約枠はいつも埋まっていると聞く。ある程度歩合制でもあるから、一番の高給取りだとも。担当のほとんどが女性で、人気の理由のひとつはその整った外見だと思われるが、結果に対する評価も高い。文句なしの実力で話題になり、時折こんなふうに雑誌の取材なんかが訪れる。
     風信がいつものように残りの電源をつけ、ロッカールームで着替えを済ますと、同僚たちが次々と出勤してきた。
    「おう、おはよう風信」
    「おはよう」
    「……なんだ浮かない顔じゃないか?」
     ひとりがそう首を傾げると、風信は思わず苦笑いした。図星なのだ。
    「ああ……あれだろ今日は売れっ子パーソナルトレーナーから指導を受けるって」
    「ああ、その日か! そりゃあご苦労だな」
     同僚たちからの憐れみの視線に、風信は再び苦笑いを返すしかない。
     このジムで慕情と親しい人はいない、と囁かれるほどには、彼は敬遠されている。風信をはじめとする主に男性向けのトレーニングを担当するスタッフからは特にそうだ。慕情は人当たりが悪すぎるのだ。
     


    『お前も売れっ子トレーナーになる日も近かったりしてな!』
     その同僚たちの揶揄いを思い出し、「クソ、冗談じゃない……」と思わず風信は小さく声に出した。視線の先ではふわりとウェーブのかかった髪を揺らす女性が、慕情に笑顔で礼をしている。それを見送る慕情の表情は、風信の瞳にほんのすこし柔らかく見えた。手にしたファイルになにか書き込んで、ぱたりと閉じて、水筒を手に、時計に目を遣る。クリップボードを確認して――ふり向いた。
     その眼差しは冷たく、風信も思わず眉をひくつかせる。それから重い足取りで近づいた。
     男性向けのトレーニングを担当するより、パーソナルトレーニングのほうが予定が詰まりやすいため、歩合給の度合いも大きい。なのでパーソナルトレーナーを兼務しないかというオーナーの勧めは、風信への厚意と配慮なのだろう。それと割合見目を褒められるほうである風信に期待をかけた、策略。
     風信にしてみれば、確かに給料があるには困らないが、予定が詰まって空き時間に自分のトレーニングをする暇がなくなるのは、素直に喜べない。しかしオーナーの勧めも無碍にできないので、今日いちにち、慕情から指導を受けて向いてないと却下されるのを期待していた。
    「……よろしく」
     そう言うと、慕情は睨むように風信を見て頷いた。いちいち感じが悪い。
    「……まずは。パーソナルトレーニングはどういうふうにやるか知ってるか」
     慕情は風信の答えに期待していないらしく、すぐに話を続けた。
    「まずなりたい姿を聞き取りして、それを叶えるためのプランを立てるんだ」
    「……なりたい姿?」
    「ただ漠然と筋トレしたい男と違って、聞けばどんどん細かい要望が出てくる。痩せたい、腰痛予防にしたい、とかいうのは表面的で、痩せたいけど筋肉はつけたくないとか。ウエストを細くしたいとか、胸は落としたくないとか」
     風信は最初でまずわずかに苛立ち、最後には耳を疑った。
    「なんだって? お前にそんなこと言うのか⁉︎」
    「……言う」
     風信はそれを聞いただけでも無理だと思う。別に色恋沙汰をしてこなかったわけではないが、最近では女という生き物は極力避けて通りたい。やっぱりやめようと風信は言い出したくなった。
    「そういう細かいプランを立ててプログラムを組んで、あとは食事管理」
    「食事管理」
    「ほら実践だ。昨日の食事をここに書く」
     クリップボードを半ば押しつけるように渡されて、風信は渋々ペンを手に取った。思い出せなくて揶揄われるという失態は免れ、さっと書き込んでボードを押し戻す。
     慕情は冷たくそれに視線を走らせたあと、わかりやすく唇と眉が曲がる。
    「……指導のしがいがあるひどい有様だな。まず、プロテインが万能だなんて思ったら大間違いだ。筋肉にしか興味がなかったとしても、ビタミンやミネラルが効果的に働くことを知ってるか? 野菜や果物が圧倒的に足りてない、カップラーメンを食べるなとは言わないが、どうせお前のことだ、どうせ毎日変わり映えしない内容だろう?」
     慕情は捲し立てるように言いながら、赤いペンで線を引いたり文字を書き込んだりしていく。男の字と思えないほど整ったきれいな筆跡。隣に並んだ自分の文字と、雲泥の差というのはこのことかと風信は思い知らされる。
    「おい、聞いてるのか……」
     そう顰め面で覗き込まれて、風信は聞いてる聞いてる、と返した。ちらりと腕時計を見遣って、まだものの十分も経っていないことに絶望しながら。



    -



     鮮やかな野菜や果物をじっと覗き込んで吟味してから、手に取ってふり向いて風信の持つ買い物カゴに入れていく。
     見覚えのある光景ではあるが、風信を妙な気分にさせるのは、そうやって前を歩くのが慕情だということだ。
    「……なあ、まさか客にもこんなことをしてるわけじゃないんだろ?」
     風信がそう言うと、慕情は明らかに不服でうんざりとした表情を浮かべてふり向いた。
    「当たり前だ」
     それからカゴの中に小切の西瓜を入れながらつけ加えるように言う。
    「たまたま方向が一緒で、スーパーがあって、お前の家のほうが近くにある、それだけだ」
    「……そう、か」
     風信の返事を聞くと、慕情は再びくるりと背を向けた。風信に食事管理を教えるために、今日は夕飯を用意してくれるのだという。風信は何度も耳を疑ったが、聞き間違いでもないし本気らしい。通り向かいだから、という理由だけで寄ったことのないスーパーで、風信の見るちぐはぐな光景は未だに現実味がないままだった。



    **



     風信の部屋は、物は少ないくせにどこか雑然としていた。不潔な感じはないのはせめてもの救いだと思うが、慕情が気になるところならいくらでも見つけられそうだった。例えば、本棚の中で倒れた雑誌だとか、端がすこしめくれたシーツだとか、中途半端に開いたカーテンだとか、ハンガーから半分ずり落ちたウインドブレーカーだとか。
    「それ、まだ着てるのか?」
     慕情は驚きと呆れを隠さずに零す。そして懐かしさも。
     ウインドブレーカーには掠れたSENRAKUの文字。高校時代、慕情も同じデザインのそれを持っていただなんて、同僚たちの誰に想像がつくだろうか。
    「……ああ、小さかったお前と違って、俺はそこまで体格も変わっていないし」
    「……お前はセンスなんて持ち合わせていないもんな」
    「…………」
     風信はなにか言い返したいようだったが、生憎今日は慕情が彼の夕食が侘しいかそうでなくなるかを握っているようなものだ。噛みつかなかったのは懸命な判断だと慕情はほくそ笑む。
    「ほら、教えに来たんだから、手伝え」
    「……わかってるよ」
     風信はキッチンに買い物袋を下ろし、中から食材を取り出していく。
    「まずは自分の手を洗って、そこの野菜も洗って水にさらして、人参は洗って、おろし器……はないだろうな、ピーラーは?」
    「あー……そこの抽斗に入ってるかも」
     風信は言われた通りに手を洗いながら、顎で慕情のそばの抽斗を指し示す。慕情がそこを開けると整然と細々した調理器具が並んでいて、風信が手をつけていないのは一目瞭然だった。
     タオルで手を拭く風信の左手の薬指には、日焼けした肌にまだわずかに白く残る跡がある。きっとこの夏のうちには、消えるだろう。
     慕情は抽斗からピンク色のおろし器を取り出して静かに閉めた。


    Day2

     レタスに水菜、プチトマト。珍しげもない野菜だったが、どういうわけか品よく山盛りされたそれに、焼いた牛肉。サラダチキンでもいいと言っていた。その上に乗ったすりおろした人参のドレッシングが美味かったなと、風信はベンチプレスを上げながらぼんやりと考えていた。
     それにあれが美味かった、西瓜の――グラニテ。ビニール製の保存袋の中で西瓜を潰して、砂糖とレモン汁を混ぜて、冷凍庫で冷やす、あれなら難なくできそうだと、風信はあのひんやりとした舌触りを思い出して、そして、満足げな慕情の微笑みも。
     バーをゆっくりと下ろして、はあ、と息を吐く。トレーニングによるものだけではきっとない。
     ざわりと視線が動く気配がして、風信もつられるように身体を起こした。
     その視線の先は、慕情だった。
     トレーニングエリアのトレーナーたちは、まるで自分たちの群れに別の肉食獣が接近してきたかのように警戒している。
     だからなのか、慕情が視線を合わせたのは風信で。苛立っているような不機嫌な相変わらずの表情で慕情は言った。
    「……空いてるところは」
     慕情は珍しく空き時間でこのエリアでトレーニングをしに来たのだと風信はやっと理解した。トレーナーたちは勤務中も空き時間で自由に自分自身のトレーニングを行うことができる。エリアの行き来は自由だが、多忙な慕情の姿を見るのは稀だろう。
     風信は辺りを見回して、ついでに同僚たちの苦い表情も見回して、自分の隣にあるアブローラーを指差した。
    「……これとか?」
     慕情は眉を寄せて、視線を落とす。
    「……どうやるんだ」
     風信は台を降り、床に敷いたマットの上に跪いてみせた。アブローラーは取手のある車輪のようなシンプルな器具だが、そこそこに鍛えている風信でも案外楽なものではない。車輪についた取手の両端を握り、膝をついて、遠くへ、近くへ、体重をかけながら移動させる。それをやってみせてから、慕情に視線を遣って場所を空けた。
     慕情は促されて、風信に倣うように器具を掴んだ。
     ゆっくり体重をかけて動かすのも、案外つらいものだ。ものの数分で、慕情の白い肌には赤みが差す。ウェアの裾がめくれて、細く引き締まった背と腹の、筋肉の隆起が露わになる。
     よく鍛えられたきれいな身体の線は、一朝一夕の賜物ではないとよくわかる。多忙なくせに、努力しているんだなと褒めたくなるなんて、と風信は自分の思考に驚きを隠せなかった。
     もしやこれが胃袋を掴まれるというやつか、とも。
     風信は慕情とは高校を出て以来まともに会った記憶もなく、偶然職場で再会しても、それに盛り上がるような間柄でもなく、互いにまるで他人のような付き合いをしてきたのだ。
     そんな相手だったというのに。
    「……っ、……」
     慕情から漏れる引き攣った吐息、染まる肌。
     風信は慌てるように慕情から目を逸らし、とにかくとても厄介だと思った。
     


    Day3

    「五回目」
     耳打ちするように言われ、風信はハッと顔を上げてふり向いた。
    「ため息!」
     通りすがりの同僚が、ふり向きながら歯を見せて笑っている。
     風信は苦笑いを返すしかなかった。そんなにため息を漏らしていたとは思わなかったが、気分が浮かないのは確かなのだ。
     午前のうちに、パーソナルトレーナーの研修が再びあったのだ。二度目があるとは思っていなかったうえに、慕情からは課題を突きつけられた。
     前回の復習を兼ねて、今日の夕食を報告すること。
     指導を教えられているのか、指導されているのか。風信にはどちらかもわからないしどちらも憂鬱ではあるが、あれから慕情が作ってくれた料理を思い浮かべるばかりで、なにを作ったらよいのかなんて風信には考えつかないのだ。

     ジムに併設のカフェで出くわした謝憐に相談すれば、『自分で考えなくては意味がない』とにこやかに正論を突き返された。

     オーナーに首尾を問われ何気なく聞いてみても、『僕に聞くな』とあからさまに興味がないと突き返された。

     結局なにも決められないまま、ため息は積み重なるばかり。
     そして閉店後のシャワールーム。
     熱いシャワーを浴び終えて、風信は磨りガラスのドアにかけたバスタオルを手に取った。最近はジムの備品も非日常感を演出するとかで、タオルもこだわってふわふわでいい匂いがする。顔を拭いながらその香りを吸い込んで、目を開けるとドアの向こうに人影があることに風信は気づいた。
     ドアはブースの半分ほどしか覆っていないので、磨りガラスの向こうの白いシャツのほかに、色白で引き締まった細い足首、風信と高さの変わらないくらいの濡れた黒髪が覗いて誰だかわかってしまう。
    「おい、早くしろ。今日当番なんだ、早く出るか掃除を代わるか」
     そんなことを言ってくるのも慕情くらいだ。風信は湯上がりの気分の良さもすこし削られた心地になる。
    「わかったよ、だからそんなとこに立つな!」
     風信はドアに掛けたシャツと下着を取って、手早く身につけた。
    「俺がやるよ。ほら寄越せ……」
     言いながら風信はまたシャワーを今度は冷水で出し、片手はドアを押し開けて慕情から掃除道具を受け取る。
     片手で、ブラシと一緒に持ったまま洗剤を吹きかけて、洗剤をどこかに置こうと身体を捻れば、不意にぐらりと身体が揺らいだ。
     掴むところを探して、同じように壁を頼って指が触れた。
    「地震……」
     慕情がそう呟いて、まだふわふわとした感覚のまま、風信は声につられるように彼を見た。眉を寄せたその表情を風信が見たのはほんの一瞬。
     急に視界が闇になる。
     ゴン、と大きな音。
    「ぅわッ」
     急に冷水を浴び、一拍の空白ののちに風信は手に握ったシャワーを落としたことに気づく。
    「冷た……おい、なにやって……」
     停電だろう、真っ暗闇で、勢いよく冷水を放つシャワーを捕まえようと風信はもがくが、洗剤を撒いたことを思い出した時にはもう遅い。
    「わ……」
     掴んだところも間違いだった。
     とにかく今日はツイていない。


    -



     冷たいものが唇を掠めた。
     それに意識を引き戻されれば、自分が暖かくていい匂いを抱き締めていることに気づく。冷たくて滑らかなところを、指先が撫であげ始めていることにも。それがびくりと痙攣する。
     痛い、冷たい、重い――ぼんやりと、ひとつずつの感覚が戻ってきて、自分がぴたりと抱き締めている存在にも気がついた。
    「え⁈ うわ、悪……」
     がばりと風信が身を起こすと、腕の中からその重みと暖かさが転げ落ちた。
    「痛っ、馬鹿……」
     くぐもったその声を、まだざあざあと降りかかる水が霞ませている。
     風信は怖いほどに理性が及ばなかったのは、暗闇の所為だと押しつける。風信の身体だって無知ではないのだから、突然の人肌に無意識が働いたとしても仕方がない、思いの外溜まっていたんだろう、と思いたい。
     風信がそんなことを悶々と考えているうちに、冷たいものが頬に触れた。
     と思ったのも束の間、再び冷たいものが唇を、今度はしっかりと覆う。それは表面は冷たくも、じわりと芯は温かくて、柔らかくて、滴る水が入り込んで、ぬるりと滑る。
     髪をぐしゃりとかき混ぜられて、考えるより先に伸ばした風信の手は空を切り、いつの間にか唇の感覚は消えていた。
     視界を全く奪われて、それが幻覚でなかったと、確かにはいえない、けれど。
     パチ、という音と共に一気に視界が明るくなった。
     眩しさに眉を顰めながら、風信はやっとのことでシャワーを止める。それでもまだ止まない、と思えば、いつの間にスイッチを押したのか、非日常感、の演出のために備えられた海外ドラマに出てくるような天井からのシャワーがふたりを頭から濡らしていた。それも止めて互いに目を向ければ、どうしようもないくらいにずぶ濡れだ。
    「なにしてくれるんだ、馬鹿……最悪だ」
     慕情は濡れた前髪をかきあげて、呆れたように言い放つ。
     身につけたゆったりしたシャツはぐっしょりと濡れて、その素肌にぴったりと沿っている。身体の凹凸を浮き立たせるように、薄桃の肌の色を映し出すように。
    「う、わ、悪い……大丈夫か」
     風信はなぜかざわつく胸の音に気づかないふりをして、膝を立てて座り込んだままの慕情に手を差し出した。そんな動作で、自分自身もかなり身体が痛いし寒いし頭を打ったかぼんやりすると思いながら。
     慕情は流れるように手を浮かせ、おそらく風信を掴もうとしたはずなのに再び下ろし、ほのかに染まったような顔を逸らす。
     その青褪めた唇を目にして、風信は一気に目が醒めたように彼に詰め寄った。
    「さ、さっき……」
     慕情はふり向き、その表情は非難するように不機嫌だ。
     考えるより先に、はよくない癖だと風信もわかってはいるが。
     あ、と思った時には引き返せず、慕情の輪郭に触れて唇の感触を確かめた。
     ほら、やっぱり、同じだ。
     突然、どん、と胸を押されて、風信は単純に驚いた。
     目の前にある慕情もその黒曜石のような瞳が溢れ落ちそうに目が見開かれ、唇はわななき、頬がみるみるうちに朱に染まる。
    「な、にす……」
     その姿を見れば、風信も思い出したように体温が上がる心地がした。
    「なにって、お前が先にしたんだろ!」
     狭いシャワールームに、声が響き渡る。
    「は⁉︎ してない! お前がこんな狭いところで間抜けにひっくり返るから、頭を打って勘違いでもしたんじゃないのか⁉︎」
     慕情は風信を押し退け、ドアの外へと逃げようともがく。
    「そうかと思ったけど、確かめたら間違いなかった! あ、おいッ」
    「っ――!」
     今度つるりと足をとられたのは慕情で、咄嗟に腕を伸ばした風信は、次の瞬間には濡れた感触に額を当てていた。ドクン、ドクンと波打つ鼓動が、そこから伝わってくる。
    「痛……」
     ふたりぶんの重みを受け止めて、下敷きになった腕がじんと痛み、風信は呟いた。クソッ、と吐き出したのは慕情で、風信はなぜかポスターに映る微笑みを思い出してすこし可笑しくなる。その間もずっと身体をくっつけたままで、やっと起き上がろうとした風信の頭上で慕情がぶつぶつと言った。
    「最悪だ……お前が……あまりに間抜けだから、魔が差したんだ…………ずっと、す……だった」
     風信が身体を起こすと、慕情は腕で顔を覆い、出来うる限りに顔を逸らしている。
     風信はそれを呆然と見つめた。
    「まさか再会して、その間に結婚して離婚してただなんてどんな気持ちだと思う? くそ……早く逃がしてくれ」
     成り行きで風信と床の間に収まっている慕情は、狭いブースの中で両脚は風信の胴を挟んでばたばたと落ち着かない。
    「逃がす? なんで逃げるんだ? それにそんなずぶ濡れで無理だろ」
    「誰の所為だ!……どうせ叶わないって知ってた! お前にはその気がないんだから、こんな恥ずかしい思い、いつまでもしたくない! 早く立ち去らせろ!……ハッそれともこのままヤるか? 無理だろう? お前の無駄にデカいそれも男相手じゃ役立たずだろ!」
     慕情はそう捲し立て、最後は嘲笑を吐き捨てた。風信は腹立たしくなって、慕情を睨む。
    「そんなこ……いや待てなんでそんなこと」
     そこまで言って、風信の脳裏に急に蘇る映像があった。
     ギラギラと太陽が照りつける、あれは夏休み、部活の合宿だったか。緑が生い繁り蝉の鳴き声が響き、小川のせせらぎがせめても涼やかに聴こえていた。ジャンケンに負けて、冷やしていた西瓜を一緒に取りに来た。うっかり流れていきそうになったひとつを追いかけて、足を滑らせて。
     いまみたいに、薄いTシャツとハーフパンツがぴったり身体の線に沿うほどずぶ濡れになって、別に仲良くもなかったが、あの時は大笑いしたかも知れない。
     その後ふたりで着替えたような気もする。学生時代のしょうもなさと悪ふざけで、なにがあったかなんてほとんど憶えていないけれど。
     風信の眉間からは力が抜け、必死に逸らされている横顔をただ眺める。
     慕情がそんなふうに思っていたなんて、微塵も気づかなかった。
     色素の薄い肌は紅く熟れて、長い睫毛、ひき結ばれた薄い唇。
     最近よく見ていた気がする、と風信は気づく。きっと知らず知らずのうちに、目で追いかけていた。
    「……正直、まだ……よくわからない、けど」
     熱が集まるのを感じて、風信はぐいと身体を慕情に押しつけた。
     慕情の脚がびくりと一度空を掻く。
     もうとっくに熱を持って主張する肌に掌を滑らせれば、吐息が熱く、震えた。



    **



     シトラスとムスクが香るタオルが慕情を背後から包んだ。それは冷えた素肌に柔らかく、ジムの貸し出し品としてはセンスがいい、と慕情は思う。
     それからタオルごと慕情を引き寄せる腕の温度も、好きだ。
    「腹が減った。……お前からの宿題、まだなにも決まってないけど……」
     風信は困りきったように弱々しくため息を吐く。
    「西瓜のあれ、食いたい。……なあ、その、だから、……もう一回」
     歯切れの悪い懇願に、慕情は身を捩ってふり向いた。
    「……なにを、もう一回だって?」
     内心は半分不安を抱えながら揶揄えば、その風信のわかりやすい表情に、慕情は声もなく肩を震わせた。
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