お題箱より 歌声/褒美【歌声】
その鼻歌に、慕情は驚愕の眼差しでふり向いた。
その主は、まるで気づかぬようにーーいや、気づいて鼻歌をやめ、視線を寄越したが、心当たりは皆無といったように呆けた表情をしている。
「お前……」
「? なんだ?」
慕情は取り合うのをやめ、ため息を吐いた。
腹の底に響くようなその低い声は悪くないのに。
「このあと、玄真殿に来い」
「え? あ、ああ、……わかった」
風信は眉を顰め訝しんだ後、大きくまばたきをし、期待と疑惑が入り混じったような表情で慕情を見ている。
慕情はそれを見て我に返らないこともないが、揶揄するような気持ちで唇に笑みを浮かべた。
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慕情の細く長い指先が、古琴の弦をはじく。
睨むような視線を浴びて、風信は喉を震わせた。
「啊ー……」
慕情はぐるりと白眼を剥く。
「ちゃんと聴け、啊ー、だ」
「啊ー……」
「……さっきよりはましだ」
そしてまた違う弦をはじき、先程とは違う音色がのびやかに慕情の私室に響いた。
それから風信はその音を思い浮かべながら、同じ音になるように、啊、と声を出す。こうして聴き比べると、思い描いたかたちにするのは存外に難しく、矢の軌道を思い描いたそれに合わせるほうが何倍も簡単だ。
突如始まった慕情からのこの指導の意味は風信にはまるでわからないが、暇をみつけては慕情が玄真殿に呼んでくれるようになったのだから、ここは大人しく従っているのが得策だろう。
これだけで追い返される日もあれば、口づけを許される日も、その先の打診が成功する日も、そのまま朝を迎えられる日もあるので、それが目当てだと非難されれば風信には弁解の余地もないが。
弦を辿る時、伏せた睫毛が影を落とすのを眺めるのも一興だ。
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「啊ー、啊…」
すこし眉を顰め、そしてなぜかすこし瞼をおろして斜め下に視線を遣り、開いた口から犬歯をのぞかせる。
なかなかめげずに練習を積む風信は、弦の音に合わせて声を出しながら慕情を窺う。
「……ああ、いいだろう。次は言葉をのせてみろ。世上一切…」
「世上、一切…」
途端に崩れる音律に、慕情は怒りたい気持ちを通り越して噴き出してしまう。
「はっ……、散々だな……」
風信は眉を吊り上げてむきになっている。
「くそ、いまに見ていろ……世上、一切…? もう一回弾いてくれ」
慕情はまだ笑いを噛み殺しながら、弦をはじいた。
しかし元来風信は負けず嫌いで、しかも微妙な調整をして筋肉を動かすことについては長けているのだ。肺活量もあるので音に震えもない。
「世上一切幸福的祝愿、一切温暖全都属于你……」
深く、重く、どこか優しく、喉のしっかりとした震えが届くような。
慕情はその歌が終わったことに気がつくのに一瞬遅れ、得意げにふり向いた風信と視線が合う。
「どうだ、上手くなっただろう」
まるで褒めてもらうのを待つ幼子のように瞳を輝かせ、歯を見せる風信に、慕情は首をふった。
「もう一回」
それを聞いて風信は眉間に皺を深く刻んだが、負けず嫌いに火を灯し、再び口ずさむ。
「世上一切幸福的祝愿、一切温暖全都属于你……」
慕情は自らの功罪を褒めるべきか責めるべきか悩む。
--こんな気持ちになるなんて。
再び窺うように向けられた風信の視線に、慕情は古琴をがたりと遠ざけた。
風信が密かに求めている褒美に、今夜は躊躇なく応じてしまうかも知れない、いやきっと、そうだろう。
**
「…あれはなんの歌なんだ?」
ごろりと寝返りをうってふり向き、風信は敷布に広がる慕情の髪を指先で弄びながら問い、同じ旋律で鼻歌をうたう。
「おい、気を抜くな」
そのやや外れた音律を慕情は揶揄し、風信は、ははっ、と笑い声を弾ませた。
すこしののち、慕情は気怠げに答える。
「……子守唄」
「……子守唄? そんなの覚えてもどうしようも……」
風信は相変わらず慕情の髪の先を指に巻きつけたり梳いたりしながら、わずかに眉を顰める。
が、言い終わる前にがば、と身を起こした。
「…そ、……」
絞り出されずに喉の奥で声が潰れ、なにやら風信の喉が鳴る。
「気色悪いことを考えるな、思考回路が単純な馬鹿が」
慕情はそう言い放って、腰のあたりから掛布を引き上げ、背中を丸めた。
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お題は「(中の人がいい声で歌がうまいので)風信の歌声にキュンとしちゃう慕情」(確かそんな感じ)でした!
ありがとうございました!
【褒美】
玄真殿の裏口の蝶番が壊れたから、直して欲しいという。
いや、正確には、『裏口の蝶番が壊れた。早く直しに来い』だ。
それくらい、玄真殿の小神官なりにやらせればいいものを、と風信は思うが、まあ拒絶する理由も風信にはない。
そもそもはその慕情の寝所に近い裏口は風信が玄真殿に出入りするためのものなのだから、責任を問われれば否定もできず、誰かに任せるのも気分がいいとはいえないかも知れない。
そういうわけで、仮にも長年東南地方を任されるれっきとした武神、南陽将軍が秘密裏に大工仕事に勤しんでいるのだ。
「できたぞ」
風信がそう声を掛けると、慕情はなにか言いたげに、皮肉の笑みを唇に浮かべて風信を見る。
それから幾度かその扉を開閉してみて、慕情は平坦な口調で告げた。
「ああ……まずまずだな」
頼んでおきながら、失礼な言い草は慕情なのだから仕方ない、と諦めるくらいの忍耐は風信は身につけたつもりだ。
風信がため息を噛み殺していると、突然、胸ぐらをぐいと掴まれた。
均衡を失い傾いだ身体、唇に柔らかくほの暖かい感触。
「褒美だ」
慕情は唇の端を吊り上げ、殊勝に微笑むと、くるりと風信に背を向け、その扉から颯爽と去っていった。
「っ……!……」
唇に残る不意打ちの感触に、風信は声にならない声を漏らす。そして掌で顔を覆うと、脚から力が抜けて立っていられず、座り込んだ。
「くそ……なんなんだ……」
どくどくと大きな鼓動の音が、鳴り止まない。
開け放たれた扉の先、去っていく慕情の髪の隙間から覗く、耳の端は真っ赤に染まっていた。
八百年以上相容れなかったいけ好かない喧嘩相手が、いまはこんなにも可愛い恋人になるなんて、誰が想像したことだろう。
「畜生……!」
風信はどこに向けたかもわからない悪態を呟いて、小さくなっていく背を追いかけ走り出した。
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お題は「ご褒美をくれる慕情」でした。
ありがとうございました!