フィガロは臍を噛んだりしない 開け放された窓から、湿度の低い風が魔法舎の廊下を吹き抜けていく。中庭に面した窓という窓が片っ端から全開になっている理由は、モップで床を擦るヒースクリフと目が合った瞬間にフィガロは理解した。
「お疲れ様、ヒースクリフ」
「フィガロ先生、おはようございます」
手を止め、魔法舎きっての美丈夫が寝起きのフィガロに優しく微笑む。正午手前の太陽はほぼ頭の真上だったけれど、寝癖頭のフィガロを見てもヒースクリフは何も咎めたりしなかった。
「寝不足ですか?」
「ちょっと飲みすぎちゃって。ミチルには内緒にしてね」
人差し指を唇に当て肩を竦めるフィガロに、ヒースクリフも同じように口元に人差し指を運んだ。
「ところでヒースクリフ、君ひとりで掃除?」
「えーと……、はい。……今はひとりです……」
歯切れの悪い返事と、壁に立て掛けられたもう一本のモップ。
「またケンカ?」
わざわざ誰と、と言わなくてもヒースクリフは言い当てられた気まずさから誤魔化すようにモップの柄を握り直した。ヒースクリフとシノのケンカに今更慌てる者はこの魔法舎にはいない。それくらい日常茶飯事で、彼らだけのコミュニケーションの取り方なのだと誰もが思っているくらいだ。
「ケンカというか……時期ブランシェット領主に掃除なんてさせたら旦那様に申し訳が立たないなんて言うから、アーサー様だってきちんと掃除当番には掃除をされているって言ったんです」
魔法舎の掃除は基本的にカナリアが行っているが、彼女ひとりでは間に合わない場所を月に一度国ごとの当番制で清掃をしている。
「そしたらシノのやつ、主君に掃除をさせて平気な顔をしているカインがどうかしてるんだって言うから、俺もついカッとなってしまって……」
「うんうん、それで?」
「例え主従関係でもどんなときでもアーサー様のお考えを尊重できるカインの方がいい従者だ、と……」
「あー、それはそれは……」
シノのプライドを粉砕するには充分すぎるセリフのチョイスに、フィガロはさすが幼馴染だねと言いかけたが、今のヒースクリフにとっては嫌味でしかないだろうとぐっと飲み込んだ。
「他人のことを思いやるのって難しいよね。……傷つけるほうがよっぽど簡単だ」
何だって手に入ると思っていたし、事実手に入らないものに出会う方が難しいくらいだった。差し出されるものは何だって受け入れてやったのに、煌めくものたちは指の間から零れ落ちて暗闇から連れ出してはくれなかった。
誰も自分を選ばない。フィガロはそれを知っていた。
緩やかに麻痺する感覚は時間だけじゃなく、思いやりとか良心とか親切とか、フィガロにとっては生ぬるい感覚から姿を消していった気がする。気紛れに拾った猫には愛想を尽かされ、今じゃ撫でるどころか視界に入っただけで逃げられる始末だ。
世界だって、捨てた猫だって、手を伸ばせば、きっと今でも何だって手に入れられるだろう。そう願えば全てを叶えられる魔法使い、フィガロとはそういう男だ。
「フィガロ先生? どうしました?」
ヒースクリフに呼ばれて、ぼんやりしてたよ、とフィガロは笑顔で取り繕う。心配そうに自分を覗き込む青い瞳は、まだ本物の絶望も孤独も知らないのだろう。彼らの師匠だった魔法使いに騙されるように交わした『お互いを守る』という約束が、ヒースクリフとシノを縛り付けている。けれどふたりが四六時中一緒にいる理由は果たしてそれだけが理由なのだろうか。
「ねえヒースクリフ、君の代わりにシノを守ってあげようか」
強さへの執着が激しいシノは貪欲で、フィガロから見ても秘めた魔力は相当なものだった。このふたりはきっといつか互いのせいで終わりを迎えるだろう。
「え、フィガロ先生? 何を言って……」
美しい顔を歪ませて、青い瞳が怪訝そうに揺らめいている。
「フィガロ先生がシノをもらってあげる。多少は長生きだから君よりちょっとは強いよ。俺がシノを守れば、ヒースクリフは自分のことだけに専念できるでしょ?」
ほら名案だ、とフィガロが両手を差し出した。ヒースクリフの表情があからさまに困惑しているのにも関わらず、フィガロはわざと朗らかな声色でヒースクリフを揺さぶった。
「だってほら、シノって無鉄砲だしすぐ怒るし、ヒースクリフとは合わないんじゃないかな。君はカラクリを弄ったり読書したりする方が好きでしょ? その点フィガロ先生は色んな患者さん見てきたからああいう子の扱い方も」
「あのっ!」
まだ幼いテノールが、張り詰めた空気を切り裂くように響く。ヒースクリフにしては珍しく大きな声だ。
「えっと、確かにシノはバカで短気で我儘で、滅茶苦茶なヤツなんですけど……でも、あの……大丈夫ですから!」
「大丈夫って、何が?」
「その、なんていうか……俺が弱いのはわかってるんです。でも、ええと、俺もシノに頼りにされるくらいには強くなりたいって思ってて……それで、だから……」
金色の髪の隙間から覗く耳朶がほんの少し紅く染まっているのは上手く言葉が紡げないからではないことくらいフィガロはとっくに知っている。
「俺に、シノが必要なんです」
ヒースクリフが捻り出すように選んだ言葉に、フィガロは吹き出しそうになるのを必死に耐えた。
――じゃあ俺がひとりぼっちになったのは誰も必要としてくれなかったからってこと?
胸の奥がぎしぎしと軋み出す。
オズが最強なら、きっと自分は最凶だろう。フィガロは自身をそう評価していた。世界征服も、弟子を育てたのも、頼られるのは気分がいいからだ。自分が強者である証明、弱いものが縋り付く存在。必要とされるのはフィガロにとって生きていてもいい理由に等しかった。南の国で町医者ごっこをしているのも結局は同じ理由だ。
それでもフィガロは孤独だった。必要とされるのは魔力だけ、フィガロ・ガルシアではない。
「ごめんごめん、冗談だよ。全部フィガロ先生のお茶目な冗談。真に受けちゃって可愛いね、ヒースクリフ。先生は眠気覚ましのコーヒーをネロに強請ってくるついでにシノを見かけたら、ヒースクリフがシノに愛の告白があるらしいって伝えておくよ」
「えっ!? フィガロ先生、なんのことです!?」
茶化すようにひらひらと掌を揺らし、フィガロはくるりと白衣の裾をはためかせた。
あの気弱なお坊ちゃまがあんなにはっきりとシノが必要だと言い切った。本人がまだ自覚をしていないだけで、こんなの約束だの主従だの所詮は言い訳の、そういう体ってだけじゃないのか。フィガロはもうずっと迷子のままの爪先を睨みつけ、小さく舌打ちをした。
「強い魔法を教えるって?」
キッチンでカナリアと並んで昼食の準備をしているネロに頼んで淹れてもらったコーヒーを飲み干し、フィガロはもやもやとすっきりしない胸の内を忘れようと中庭に向かっている最中だった。バケツを片手に魔法舎の中へ入ろうとしていたシノと鉢合わせし、フィガロは思わずシノを引き止めてしまった。
「うん。シノにだけ特別。誰にも内緒にできるならね」
ふうん、と満更でもないシノの口角がわずかに上がる。けれどその目線は目の前に存在しているはずのフィガロを通り越して、その先の「なにか」を捉えている。その仕草ひとつが、フィガロを苛立たせるには充分だった。
「ファウストも教えられないやつ、俺はシノに教えてあげられる。だから、俺のところに……」
「やめておく」
じわりと掌が湿った。強さを見せつければ簡単に手懐けられると高を括っていた安易な思惑を、踏みつけられたような屈辱だ。
「おまえは南の先生だろ? ミチルに教えてやれ」
「え、いいの?」
「いいもなにも、もしフィガロに特別扱いされてるってバレたらヒースがキレ散らかすしな」
「内緒にすればいいじゃない?」
「フィガロ、オレはヒース以外とは約束をしない」
じゃあな、とシノは入口を塞ぐように立つフィガロの横をすり抜けて魔法舎の中へと入っていく。遠ざかっていくシノの足音を背中に聞きながら、彼が誰の元へ向かったか聞くまでもないことがフィガロは腹立たしくてたまらなかった。
誰もフィガロの元には残ってくれない。擦り寄ってくるくせに、一緒に生きてくれる奴はひとりもいなかった。
「おい」
鼓膜が記憶している元弟子の声色は、ひどく不機嫌そうにフィガロを呼び止めた。
「君が俺に声をかけるなんて珍しいね」
「僕が声を掛けるところまでが、あなたの筋書きなんだろう?」
自惚れも大概にしておきなよ、と言いかけてフィガロは口を噤んだ。だってその指摘がこの瞬間にやっと気づいた図星だったからだ。
「うちの子が世話になった……と、言うとでも思ってるのか。若い子を揶揄って楽しむなんて随分と悪趣味だな」
「揶揄ってないよ、じれったいなーって思って」
「フィガロ」
自分の名を呼ぶその声からは、親愛と尊敬と信頼はもう微塵も色めいていない。ファウストの瞳がちらつかせる信仰のような目映い残像を捨て去ったのは他ならぬフィガロ自身の手だ。今更、彼が大切にしている孵化寸前の卵を叩き割って、この手に残るものがないことだってフィガロはとうに知っている。
「僕はもう世界なんて興味ない。けれど、この掌が触れてしまったモノたちだけは出来うる限りなんとかしてやりたいと思ってはいる」
鼓膜が覚えている声よりも、随分と落ち着いた話し方だった。淡々と響くその音域だけは昔と変わっていない。フィガロよりも少し高くて、掠れる手前の危うさを孕んだ甘い音色だ。
真っ直ぐに自分を見ていたファウストの瞳から目を逸らしたのはフィガロ自身で、そうしたのはフィガロの意思だった。
なぜ、どうして、理由なんて後付けで言い訳にしか過ぎない。ただその時、そうしたかったから。
――踏み台になる前に、傷跡になりたかった。
見捨てられる前に置き去りにした。枯れないように開く寸前の蕾を手折った。壊してしまう前に捨ててきた。それでも自分を選んでくれるモノを待っていたけれど。
半身のはずの片割れの時間を止め、半身のはずの片割れに魂を繋ぎ止められた双子の師匠たちが羨ましかった。
約束に雁字搦めにされながらも決して奪われない思い出があるミスラも、過去に縛られて柄でも無い呪い屋なんかやってるファウストも、処刑された英雄を諦めることなく何百年も探し続けたレノックスも、身勝手な大人に騙されて結ばされた約束を後悔してないと言い切る若い幼馴染の魔法使いたちも、何もかもが今のフィガロには眩しくてたまらなかった。
「ヒースクリフとシノ、死ぬまで一緒にいられるといいよね」
フィガロの言葉に「縁起でもないことを言うな」とファウストは呆れたように溜息をついた。
おわり
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おさはな4開催おめでとうございます!
大遅刻すみません!!
そしてこれはヒスシノなのか!?
ヒスシノなのか過去一あやしいヒスシノ小説だ!!
いろいろ端折ってしまった部分があるので
そこんとこ加筆したらpixivにぶん投げようと思っています…
そのときにはもうちょっとヒスシノっぽくなってるといいな…
読んでくださりありがとうございました。
最後になりましたが主催の由良さん!
今回もおさはなを開催してくださってありがとうございました!
2022/09/11幼馴染に花束を4 むりか