19 鍾魈予定に予定が重なって、その日の鍾離は久しぶりに多忙な一日を送っていた。往生堂での打ち合わせから始まり、商人たちとの情報交換や素材採取、そして旅人から引き受けた依頼がダメ押しとなり、さすがに表に疲労が滲み出てしまったようで、心配した旅人が洞天での休憩を勧めてくれた。
その言葉に甘えることにして、用意された部屋で茶を淹れようと茶器に手を伸ばすも、今すぐ横になりたい欲求が色濃く出て、嘆息してからベッドに横になる。普段からあまり疲労が溜まらないよう管理しているつもりだが、油断していたのかもしれない。凡人になってからというもの、神であった頃とは背負う責任の重さが違って、なんでも気軽に手を付けてしまう癖がついたせいで、最近は以前より睡眠時間も減っていた。今回の疲れも原因はちょっとした睡眠不足だろうと踏み、人間よりは頑丈で体力もあると自負はしているが、あまり酷使するのも良くなかったと一人反省する。
目を閉じようとした時。控えめに扉が叩かれて、一枚板の向こうから「鍾離様」と訊ねる声が聞こえてくる。名前を聞かずとも声の主がわかった鍾離は「入っていいぞ」と返した。
予想通り、室内に入ってきたのは魈だった。両手には果物と、薬に使われる草花、それと小瓶をいくつか抱えている。
起き上がって「どうした」と首を傾げると、おずおずとしながら魈は口を開いた。
「あまり体調がよろしくないと、旅人から伺ったので……何か出来ることがあればと。こちらの果物などは旅人が持たせてくれたものです。それから、栄養ドリンク? なるものも一緒に」
「はは、ありがとう。わざわざすまなかったな。後で食べるから、適当に置いてくれ」
言うと、魈は頷いてから近くのテーブルへ持ってきたものを広げる。旅人にはまた後日改めて礼をしなければとぼんやりしていると、再び魈が近づいてきて不安そうに琥珀を揺らした。
「あの……何か、我にできることはありませんか?」
「そう気遣わなくても大丈夫だ、少し休めば回復するから」
「ですが、何もせずにはいられないのです。……ご迷惑だというのは重々承知しているのですが」
「迷惑なんて思っていないさ、その気持ちだけで嬉しい。……ふむ、そうだな。なら、一緒に横になってくれないか? 一人でいるより、お前を抱きしめていた方がよく眠れそうだからな」
ベッドの中央からやや左にずれた鍾離は、空いた右側のスペースに魈を誘う。やや狼狽えた魈だったが、心を決めたような顔をして「失礼します」と潜り込んでくる。
そんな魈を、鍾離はゆっくりと後ろから抱きしめた。正面からとも考えたが、せめて魈が呼吸をしやすいようにと、薄い腹部に腕を回す。
ぴくりと魈の肩が跳ね、深緑の草原にぴょこりと見えた耳の輪郭が、淡く赤色に染まっていくのが分かる。
ああ、愛おしい。たったこれだけの抱擁に、今も新鮮な反応を示す腕の中の最愛に、心から癒されていくのを感じる。
「鍾離様、あの……」
「ん、どうした?」
「いえ、その、……本当に、これであなたのお役に立っているのでしょうか?」
「十分なほどにな。役立っている、という言い方は少し違うな。なんと言えばいいか、……いや、すまない、もう少ししたら調子も戻るだろうから、今は少し、このまま……」
待っていて欲しいと、魈を背中から抱えた鍾離はつぶやいた。僅かに強く、自身へと魈を引き寄せて。
「……はい。鍾離様の、望むままに」
あまりそのようなことを言ってくれるな。どんどん要求が膨らんでしまうだろう。お前は俺に甘すぎる。こんな時、もっと凡人である自覚を持てと叱ってくれてもいいのに。とは、思いこそすれ唇は動かなかった。
安心したせいか、気が抜けて強い眠気が襲ってきたせいだ。抗うには少し、気力が足りない。
重たくなった瞼を閉じる。抱えたぬくもりと匂いを吸い込んで、鍾離は静かに、眠りの海へと入っていった。