37 アル空空の成人祝いにワインを開ける。芳醇な葡萄の香りがたちまち広がって、グラスに注がれた深い赤に、空はうっとりため息をこぼした。
「はあ……やっと飲めるんだ……」
アルベドは自分のグラスにもワインを満たして、ボトルをテーブルに置く。ラベルが空にも見えるように向きを整えて、首を傾げた。
空と暮らし始めたのは、彼が十八歳を迎えてからだった。高校を出て大学生になる空を、一緒に暮らそうかと誘ったのはアルベドの方だった。
二人は幼少の頃から育ってきたいわば幼馴染だったが、アルベドの方が三つ年上で、中学以降は同じ校舎ですれ違うこともできなかった。互いの家を行き来することはあっても、共有できる時間は減っていたし、付き合い始めても清い交際のまま……身体の関係になることもなかった。欲求不満になる一方の空が精一杯の色仕掛けをしても、アルベドは何もなかったように振る舞うため、空は勝手に「もう俺のこと好きじゃないの?」と悲観的になっていた。が、同棲が決まるとあれだけなにも進展のなかった関係は一気に加速した。
歳の差もあり、まだ子供でもある空に手を出すのは憚られるからといった理由を一貫して伝えていたアルベドにも、ようやく春がきた瞬間だった。今ではほぼ毎晩、互いの体温を貪り合うようにまでなっている。
そうして暮らしていたら二年の歳月が経ち、空もお酒を飲めるようになった。成人のお祝いは何がいいかとアルベドが訊ねた時に、真っ先に挙げられたのが「ワインを飲みたい」というもので、「それだけでいいの?」と聞きかえした。空は大きく頷いて、後のことはまた考えるからと朗らかに笑っていた。
リクエストを確認した時から不思議に思っていたことを、アルベドはそのまま言葉にする。
「そんなに飲みたかったのかい? てっきり君はアルコールの類に興味はないと思っていたけど」
テーブルに並べられた食事は、すべて空のリクエストで構成されていた。ケーキは明日の昼にバイキングに行く約束をしているため不在だが、自家製ドレッシングを使ったサラダ、香ばしい匂いのスモークチキンと、アルベドがよく作る魚のバター焼きが丁寧に皿に載っている。デザートにはミントゼリーを用意しているが、今は冷蔵庫で待機中だった。
「んー、そうだな……お酒を覚えたいとか、そういうのはまだないんだけど。……アルベドがたまに飲んでるでしょ? それ見てたら、俺もはやく飲んでみたいなって思って」
グラスを持ちアルベドの方へ傾ける空の表情は、初めて口にするワインに期待が募るのか、無邪気な子供のようで可愛らしかった。
「そっか。……それじゃあ、乾杯しようか。空、誕生日、おめでとう」
「うん、ありがとう」
かつん、とグラス同士が音を立てて、赤色の液体は二人の喉を通過していった。
「…………あんまり美味しくない」
空のワインに対する最初の感想だった。
舌がきゅっとして、なんだか苦い。もう一口飲んだら変わるだろうかと続けて飲んでも評価は変わらず、「美味しくない」で止まってしまう。
「最初からワインを美味しいと思える人もそういないと思うから……」
気にしなくていいよ、と言ってアルベドは席を立ち、キッチンからボトルをもう一本持ってきた。
「ぶどうジュース?」
「もしキミがワインを飲めなかった時用に準備しておいたんだ。こっちに切り替えようか?」
新しいグラスも二つ揃えたアルベドの提案に、空はぶんぶん首を横に振る。
「それじゃあいつもと変わらないじゃん! せっかくお酒飲めるようになったのに!」
「なら、ふたつを交互に飲めばいい。それなら多少、苦味は緩和されると思うよ」
「アルベドはそんなのしてなかったでしょ」
「ボクは……もう慣れてるからね」
「ほら! そうやって一人だけ余裕綽々でいるし! ……俺だって、アルベドみたいになりたいのに」
俯く空の声音がどんどん小さくなる。励まそうと、アルベドは元いた席ではなく、空の隣に腰掛けて軽く肩を叩いた。家にいるときは簡易に纏められているはちみつ色の髪がまとまって揺れる。空の双眸がゆっくりアルベドを捉えると、三つ年上の青年は穏やかに微笑んだ。
「そんなに焦らなくていいよ。今日はキミが二十歳になって最初の日だ。ワインの味も、これから〝美味しい〟に変化するかもしれないだろう?」
「それは、そうかもしれないけど……」
歯切れ悪く答える空に、アルベドはぶどうジュースを注いで空に手渡す。それは普段からストックしている定番のジュースで、空がいちばん気に入っているものだった。
まだ子供のままだな、と再び落ち込みそうになる空に、アルベドは自分のグラスを寄せる。中身は空に渡したのと同じ、ぶどうジュースだ。
「ワインは逃げないよ。それに、ボクもキミがワインを美味しいと思えるまでずっと待ってるから。少しずつ慣れていけばいい。だから今夜はこっちで乾杯し直そう」
「……、……わかった」
かつん、ともう一度グラスが鳴り合う音がする。口に含んだジュースはすっかり馴染みの味で、空は自然と頬を緩めていた。
普段の調子に戻れそうと踏んだアルベドは、内心でほっとしつつ元いた席に戻るため腰を上げようとする。しかしそれは空に阻まれてしまい、再び着席することになった。
「空?」
「と、となりが、いいから。……だめ?」
アルベドの裾を摘んで、恐る恐るといったふうに上目遣いに訊ねられる。少量でもアルコールが入ったせいか、それとも別の要因か、空の頬はうっすら紅潮していて、淡い色のそれが愛らしく思えた。
「……だめ、なんて、ボクが言うと思うの?」
空の仕草は計算してやっているのか、それとも全く無自覚なのかを、いつも測ることができない。まだ一口程度しか含んでいないアルコールで酩酊しそうになっているのは、果たしてどちらなのか。
空の顎を持ち上げて、アルベドは目を細める。ふわり、芳醇な葡萄の匂いが、互いの呼気から漂っていた。