45 鍾魈「人間。起きられないのか」
私を見下ろしてくるまさに「美少年」という言葉がぴったりな誰かが、「起きられないのかと聞いている」とやや苛立った声で訊ねている。
璃月港に向かう道中で、ヒルチャールの群れと鉢合わせしてしまった私は、すぐ方向転換をして大急ぎで逃げ出した。しかし、かつて近所の子供たちとの間でかけっこをした時に、だれにも追いつけなかった脚の速さだ。程度が知れている。すぐにやつらに追いつかれ、ああもう無理だ死ぬしかないと思った矢先。現在もこちらを見下ろしている彼が疾風の如く舞い降りて、殺気を放っていたやつらを瞬時に一掃してしまった。
驚きと、安堵と、まだ残る恐怖で声が出ない。しかしこのままでいては美しい眉をさらに歪ませてしまうだろう。私はひとまず抜けてしまった腰を叱咤して、木の幹に寄りかかりながら起き上がった。
無我夢中で逃げていたから今どの辺りにいるかわからなかったが、少し離れた場所に竹林をとらえると、来た道を逆走しただけで済んだのか、と脳は判断した。璃月港に向かうまで迷う確率が減ったことにほっと息をつく。
「魈。こちらにいたか」
そんなところに、今度は背の高い男が現れる。魈、と呼ばれたのは私を助けた美少年だ。すぐさま男の元に駆け寄り最敬礼をしている。
知り合いだろうか。どちらかというと小柄な彼を、男は朗らかに見つめている。
「お前の姿を見かけたと思ったら、すぐ別のところに移ったから、少し気になってな。……彼女を助けていたのか?」
視線がこちらを向く。その男も非常に整った顔立ちをしていた。傍の少年よりも琥珀を凝縮させたような双眸、すっとした鼻梁に、風にそよぐ長い髪。服装は全体的に落ち着いたカラーで纏められていて、落ち着いた品の良さを感じる。
「ええ、ヒルチャールに追われていたので」
「そうだったか。怪我などないか?」
「……! は、はいっ、ございません! とても、無事です!」
近所の子供たちより応答の仕方がひどい。慌てて口を開いたせいで声もへんに上擦るし、選んだ語彙もこの年齢の人間が選ぶものではなかった。ああ、冷静な私はどこに行ってしまったのか。まだ混乱と恐怖を引きずっているのか。
並んだ二人の身長はかなりの差があって、これは少年の方は見上げるのに首が痛くなりそうだなと、ひと目見て思う。男の方もある程度は腰を折らねばならないだろう。長時間続くなら身体をぎしぎしさせてしまいそうだ。せめて座ってもらった方が視線も合うだろうし互いの負担も減りそうだ。と、どこまでもどうでもいいことが過ぎる。
「それなら良かった。必要なら、途中まで送っていこうか?」
「なっ、鍾離様⁉︎ あなたがそこまでするようなことはございませぬ!」
「しかし、まだ混乱が見て取れる。このままにするのは……」
ああ、私のことを話しているのか。と、気づいたときに「お気になさらず」とも「大丈夫です」ともこの口は紡がず、かわりに、
「お二人とも、少し腰掛けてはいかがでしょう? 会話をするにも視線の高さは近い方がいいかと思いますので……――」
などと、直前まで考えていたことをそのまま形にしてしまう。
ヒルチャールに追われている時はとにかく逃げなければと必死で、人間ここまで心臓を動かせるのかと感動する程度には、死に物狂いで全身の熱を感じていた。
今は、まったく反対で。血の気が引いて、心臓は動くことを放棄したように全身から体温が削げていく。
何を言ったんだ……ここで寛げとでも言わんばかりの発言だ……何を言ったんだ私は……どう見てもこんな雑草の生える地べたに座ってもいいような二人ではないのに……。
ただなんとなく、この二人が並んで会話している光景をまだ見ていたいと思ってしまったのだ。美しい人と美しい少年が同時に視界に収まるなんてこと、この先の人生で(しかも舞台や演劇のような観客としてではなくただの通行人として)また訪れることはないかもしれない。
それに……稲妻に向けて送り出そうとしている私の新刊……その続刊のインスピレーションが今、猛烈に湧き上がっている。
「……お前、何を」
「もっ、申し訳ありません! 忘れてください、ついうっかり……!」
「ははっ、そう慌てるな。魈もそんなに目を吊り上げずともいい。そうだな……折角だ。ここで、というのはさすがにできないが、近くに美味しい団子を出す甘味処がある。三人で休んでいこうか」
「鍾離様⁉︎」
「宜しいのですか⁉︎」
私と美しい少年の声が重なると、鍾離と呼ばれた長身の男はまた破顔して「ああ」と頷く。
「最近、魈とも顔を合わせていなかったからな。それに……俺の記憶が間違っていなければ、貴女は璃月の誇る作家だろう。俺としても、どんな物語を描いているのか興味がある」
緑の髪の美少年はこちらをじっと睨め付けて、「鍾離様の大切なお時間を……」と敵意を剥き出しにしている。それについては本当に申し訳なく思って平謝りするしかなかった。それから、なるべく時間がかからないように致しますのでと頭を下げる。
「団子はいくらでも頼んでください! モラでしたらいくらでも出しますので!」
人間離れした美貌を持った二人に深々と礼をして、私たちは最寄りの甘味処に腰を落ち着けた。それから、走っている最中失くさずに済んだメモ帳に、二人が繋げる会話によってびっしり文字が埋められていく。
それは甘味処が店を閉めるため、のれんを仕舞うまで続くのだった。