泣き疲れ、食事をとり、ノワールは草臥れたようだ。食べ終える頃には、その身はうっとりとリーズニングの胸へ寄り掛かるようになっていた。
口元をナフキンで拭ってやると、リーズニングはその体躯をそうっと抱き上げた。不安げに顔を擡げるノワールの、その背を優しく撫でながら寝室へ向かい、扉を開く。シングルベッドの上に抱えていた身を横たえれば、後は部屋から出て、ひとり煙草を燻らす予定であった。
けれども予定は失われる。それはひとつの手であった。小さく、赤く腫れており、ナイフさえも握り続けることのできない手。それが、リーズニングの服の裾を必死に掴んだのだ。どうやら無意識のことだったようで、リーズニングが振り返れば、ノワールはぼんやりとしていた目をまた不安げに揺らし、慌てて手を離す。そうして咄嗟に謝ろうとするより前に、リーズニングは見慣れたシングルベッドへと体を潜らせたのだった。
「狭いだろう。すまないな」
「い、ぇ…ぼくの、せいだから…」
「子供が夜を怖がるのに理由はない。君のせいではないよ」
不安で縮こまる体を抱き寄せ、先ほどと同じように幾度も幾度も背を撫でてやる。徐々に弛緩していく体は暖かく、リーズニングは何かを思い出すようだったが…それが何かはわからなかった。
「…あの……」
「どうした」
「おなまえ、きいても…いいでしょうか」
ノワールの辿々しい言葉は怯えているためか、はたまた眠りにつき掛けているのか、もはや定かでない。青い瞳はうっとりとした瞬きを繰り返し、体はいっそう穏やかな熱を孕んでいる。瞼を閉じれば今にも眠れるだろうその体を引きずりながら、子供は名を知りたいのだという。体罰に抗えないほど、素直で行儀のいい子だ。律儀でもあるのだろう。ホワイトにそっくりだと…感慨を抱きながら口を開く。
「リーズニングだ」
「りぃずにんぐ、さん」
しかし子供の口には、リーズニングという名は難しいようだ。眠気の為でも、怯える為でもない口振りに、リーズニングは思案する。ここで眠れば、夢から覚めるだろう。なんとなしに、そんな予感がする。この夢の間だけの子供に、何もここまでする必要はないのだろうが……この子供を無碍にすることは憚られた。
「ナワーブだ」
「え?」
「ナワーブと呼べ。その方が呼びやすいだろう」
ノワールは目を丸めてリーズニングを見遣る。その頬を桃色に染め上げていきながら、少し俯いた。胸に額を擦り寄せ、いじましい様を晒しながら、くぐもった呼び声が聞こえる。
「…なわー、ぶ」
「そう、いい子だ」
久方ぶりに聞こえた名前は、存外過ぎるほど暖かな色を持っている。その音を鳴らした黒い頭を優しく撫でると、いっそう胸に顔を擦り付けられる。結果的に、随分懐かれたようだ。名を呼ぶだけで嬉しがるとはよくわからないものだが、先ほどの青い顔よりは幾分かいい。リーズニングはそう思いながら、頭を、背中を撫で続ける。
「…なわーぶさん、ありがとうございます」
「…俺は何もしていないぞ」
「いっぱい、してくれました。ぼく、忘れません。ずっと」
無垢たる子供はそう言って、リーズニングに身を預ける。呼吸は徐々に穏やかに移ろっていき、背中の浮き沈みも同様だ。眠りが近いのだろう。随分暖かな身を抱くリーズニングも、それは同様だ。久しくないほど穏やかな眠りが来ようとしている。夢の中で眠るなど、不可思議なことだが。
「おやすみ、ノワール。お前に良い夢が続くように」
寝息を立て始めた子供にそう囁いて、目を瞑る。紡いだ言葉は正しく、リーズニングの願いに他ならない。どうかこの無垢でいたいけな子供が、自分の作り出した夢の存在であるように。そうでないなら、少しでも優しい夢を見続けるように。
そう願いながら、意識を深くへ沈めて行った。
「先生」
「先生は心配性ですねこんなところにまで、私を探しに来てくれた」
幼い体躯が起き上がり、横たわる男を優しく撫でる。夢の中でも隈が目立つ目元はどうにも痛々しく、どうしようもなく愛おしい。
「私の過去はもう変えられないけれど、先生が願ってくれて嬉しかったです。ありがとう先生。でも、もういいんだ。いいんですよ」
大人の体を撫でる手は小さく、赤く腫れている。懐かしい、懐かしいという感情さえ忘れていた記憶。
「先生、どうかよい夢を。あの子供のことは…私と同じように、忘れていいですから」
今一度身を横たえて、彼の胸に顔を寄せる。聞こえる鼓動は暖かく、触れる体も仄かに暖かい。包まれる感覚に、意識が遠のいていく。こうされたかったという願いと共に。
「おやすみノワール」
どうかよい夢を。