「…………」
たった一階のみの移動であった為に、エレベーターはすぐに動きを止めた。ものの数分とて経たぬ内に今一度開いた扉へ、イライは足を踏み出す。足があまりに重い。エレベーターから出るだけでもひと苦労を要した。その感覚は胸部から来たもので、実のところ不確かなものだとイライは認識する。ここは駅からそう遠く在る店ではないし、階段だって使ったのはほんの少しだ。疲弊を得ることなど本来は何もない。ただ、思い煩いが体に重いという錯覚を起こす。こんなにも鼓動を忙しなくさせ、やけに明確な錯覚まで起こすほど患ったことなど今までにあったろうか。握り締めたキーに記される数字を辿り、等間隔に並んだ扉を過ぎて行きながら考える。そして、有る、と思い至る。もう砕け散った愛情の記憶がある。粉々になり、欠片になった心にも、それでも美しく映る姿。今でも大切だと思い、幸せを願うあの子。親友というには熱すぎて、恋しいというには諦めが強く、惜しむにしては大切になり過ぎた。あの子と別れざるを得なくなったあの日も、同じ様にひどい心地に苛まれていた。砕けた心は元には戻せない。だからだろうか。一度あまりの諦念を抱いた心は、今度こそと縋る様に思う。彼を思う気持ちは熱く、深く、どうしようもない。こんなところに来てしまうくらいには。
それにしても、と、イライは思考の隅にある何処か冷静な箇所で言葉を作る。首を左右に振り、浮かんだ印象を改めて確かめる。この廊下は静かだ。物音ひとつしない。そう思うのは、兼ねてから抱いていた偏見のためでもある。こういった店だ。老若男女とは言わずとも、様々な声が漏れ出てくるものかと予測していた。しかし現実は、イライの足音ばかりが聞こえてくる様だ。こういった店だからこそ、防音は厳重なのだろうか。過ぎゆく扉をぼんやりと見つめながら向こう側の景色を想像しかけて……青褪めた心地で目を眼前へと戻す。それらはまさに今、イライが浴びようとする行為だ。生々しい実感が這い上がり、足元を、心臓を冷やす。錯覚がいよいよ幻じみているのに程度は殊更に酷さを増す。苦々しい酸っぱさが舌に乗り始めて、その唾液を嘔吐感ごと飲み下しながら、イライはとにかく歩き続けた。立ち止まりたいと身体中が願っている。錯覚は全てその激しい叫びから生じるものだ。それでももう、止まりたくはなかった。あの熱い掌が欲しくて堪らないのだから。
号室。目線の高さに記された数字を前にして、イライは手元へ目を落とす。握りしめていたキーには同じ数字が記されている。何度目に映せど変わらない事実だ。握りすぎて白んだ肌が徐々に赤みを取り戻していくのをまんじりと見詰めて、重い息を吐いた。本当に錯覚なのかと疑う程に重い首を擡げたとき、青い瞳は熱情を奥に秘めながら揺れていた。
キーを差し込み、ドアノブを握って、捻る。押し開けるまでに数秒も要して、そうして緩慢と開かれていく扉が恐ろしくて、イライは誰に取り繕う訳もなく瞬くふりをして瞼を閉じていた。
それだから、扉を開き、ゆっくりとした瞬きを終えた後、眼前に映った光景に虹彩を丸くした。まさしく、瞬く間に世界が変わったのかと。そう思った為に。
「よォ」
声が届く。鼓膜を揺らしたその音によって、イライはこれが現実なのだと認識した。どうやら緊迫と不安と懇願のあまり気絶してしまったなどではないらしい。否、夢なのかもしれない。足は震え、喉は皮膚と肉の裏でいやにひくつき、鼓動はもう音も聞こえないほど激しいが、しかし、それ以外何があり得るのだろう?
部屋の真ん中。室内にひとつしかないベッドの上。そこに、愛しい人が座っている。
「待ってたぜ。こっちに来いよ、ダーリン」
口に咥えていた煙草を手に傾け、煙混じりに言葉を紡ぐ。赤と黒の目に映る惚けた自分がくにゃりと細められて歪むのを見て、彼の目が笑みを作ったのだと知れた。そして、彼が怒っていることも、よく、よくわかった。