ビデオテープの影ビデオテープの影
2023年6月4日(日) 16:41
「あっ」
夏の終わりかけ、まだ夕焼けは空を彩っている。学校から帰って、お母さんからのお使いをした帰り道、ストリートコートからボールの音がした。もしかしたら、リョーちゃんかも。そしたら荷物を持ってもらっちゃお。なんて思いながら、音の鳴る方へと足を進めた。
ちらり、と覗いたコートの真ん中。そこにいたのは兄よりも背が高く、髪の短い男の人だった。ゴールから遠く離れたところに立つ姿は、なんだか懐かしさを覚えた。
指先から放たれ、吸い込まれるように網を揺らしたのはバスケットボール。リングに当たることなく真っ直ぐ、綺麗な線を描きながら。そして、地面に何度かバウンドする音。
綺麗だな、すごいな。バスケの練習は時々、リョーちゃんがしてる姿を見るけど、ドリブルばっかりだからなぁ。ビデオテープの小さな時でも、腰を低くしろって言われてるその姿に。
私だけ、兄との思い出が薄いことを感じてしまう。
「……ん?」
ぱぱん、と落ちたボールを拾い上げれば、こちらと視線が合った。薄茶色の瞳、夕焼けが入り込んでてなんだか燃えてるみたい。でもすごく優しい、熱くなさそう。
垂れた目尻と、顎についた傷。低い声、凛々しい眉毛。頭の中でぐるぐる、見たことある人だったから。しかも、つい最近。
顔を合わせて数秒後、ようやくリョーちゃんの知り合いだと導かれる。
「ミツイ、さん?」
そう、ミツイさん。湘北高校のバスケ部で、リョーちゃんのセンパイ。この間、雑誌を借りに我が家へ来たのだ。お客さんなんて滅多に来ないから、記憶に残ってたんだ。
「あー……お前確か宮城の……」
「アンナね、宮城アンナ」
「はいはい、アンナ、な」
植垣越しの会話、不思議な距離に嫌な感じはない。指先でボールをクルクル回してる、リョーちゃんもたまにやってるなぁ。勢いがなくなって、指が倒れ、手のひらにまたボールが収まる。その動作の丁寧さに、ほんの少しだけ目を奪われた。
かちかち、と頭の奥で点滅する何か。片方だけ刈り上げたあの人の影が通り過ぎる。なんで今、瞬いたのだろう。自分でも理由が分からない。
「部活は?」
「あー……今日はサボりだ」
「バスケしてるのに」
「色々あんだよ、ジュケンセイってのは」
「へぇ〜」
やっぱり、高校とは違うのかな。大学ってすごい大変そうだもんね。遠い未来で全然想像できないけど、来年には同じ立ち位置になる人が我が家にもいる。
「買い物?」
指差した先は、私がさっき花壇の端に置いたビニール袋。冷蔵品はないから、寄り道したって平気。だけどジャガイモとにんじんは少し重い、食パンが軽くて良かった。
「うん。お使い」
「ちょっと待ってろ。送っていく」
「え、でも」
よく分からないけど、サボりじゃなくて部活に行きにくい理由があったんじゃないのかな。だから、こんな遠いコートで一人、汗だくになってまで———。
「こんな時間に女の子が一人でいたら、普通に心配だろ」
遠慮すんな、にっこりと笑う表情が夕陽に照らされている。大きな手のひらは迷うことなく、私の頭の上へ。ほんの少しだけくしゃり、と動いてあっという間に離れて行った。ベンチに置かれたスポーツバック、ボールを入れてチャックを閉める音。
乱れた前髪を直す自分の指先が、なぜか暖かかった。心臓、少しだけ早くなってる。変なの、ミツイさん。
もう、頭の中に影はいなくなってた。代わりに、暖かな陽だまりが胸の中へ宿っていく。
***
「え、三井さんと?」
「うん。荷物持ってもらっちゃった」
「あぁ、そう……」
お夕飯の後、珍しくテレビを見ていたリョーちゃんに今日のことを話した。そしたらあからさまにバツの悪そうな顔をしてて。あー、ミツイさんが部活サボったのって、リョーちゃんのせいだったんだ。すぐ分かってしまった、顔に出やすい兄だ。
「……なんか、言ってた?」
「ううん。なぁんにも」
「ふーん」
ぱきん、と気持ちいい音がした。折れた片方を渡せば小さな声でありあと、と。全く、可愛い妹がわざわざ半分にしたアイスなのに。
割った先を口に含む、赤色だから多分いちご味。かき氷にかけるシロップみたい。
「アンナ、ってちゃんと覚えてくれたよ」
「は?」
「へ」
「『宮城妹』じゃなくて……?」
こくん、と頷く。ちゃんと覚えてくれたし、親切にしてくれた。玄関先まで運んでくれたんだもん。
『またな、アンナ。ちゃんと戸締りしとけよ』
その言葉になんだかお兄さん、って感じだなって思ったのは内緒だけど。だって、リョーちゃんも同じことよく言うから。
「……明日、絶対にシメてやる。目の上のたんこぶが」
上機嫌の私とは真逆に、なんだか物騒なことを言ってたけど。きっと関わりのないことだ。
テレビに映る流行りのアーティストの歌詞を、覚えているところだけ口ずさむ。まだ蒸し蒸しする夜、ビニールがボロボロになったのはリョーちゃんが咥えていた方だけ。
後日、ミツイサンが訪れた時、私の名前を呼んだことに、胸ぐらを掴む兄を今はまだ知らない。