【web再録】夜更かしの歌 はぁーっと大きなため息をつく。そのまま勢いよくもたれかかったソファは自分には小さすぎて、後ろの席が見えるほど仰け反ってしまった。誰も、座ってなくてよかった。
メンバーと話し合って今回の曲のテーマは決まっている。先に出来上がったデモ音源をスマホに入れて何度も聞いたし、何となく「こんな感じ」っていうイメージも自分の頭の中にある。
だけど、それを具体的にする肝心の歌詞が、出てこない。目の前のノートの上には「夜」の一文字と、それを書いたっきり転がされたままのボールペンだけ。
「ねぇ、どんなの書いたら良いのかな……」
頬杖をついてアマンダに聞いてみるけど、残念ながら何もアドバイスは返って来ない。ただ「頑張って」って、見守ってくれるだけだ。
軽くスマホの画面をタップして時計を見ると、午前二時十八分、いわゆる「丑三つ時」だ。ニホンでも外国でも「よくないもの」が動き出す時間って言われている。
店の中は、こんな時間だからか店員さんはフロアにはいなくて、キッチンからカチャカチャと音が聞こえる。お客さんは、自分とアマンダ、あと、奥の方の席で、ノートパソコンでなにか作業しているぼさぼさ頭の男の人が一人だけ。窓の外も、誰も歩いていないし、明かりは街灯と、信号、時々通る車のライトぐらいしか見えない。
外は暗いけど店の中は明るいし、お皿の音やキーボードを叩く音、控えめなBGMのおかげで静寂には程遠い。それに、今ここにいるのは自分たった一人ってわけでもない。なのに、なんだかこう、絶妙に中途半端な感じが余計不気味で、思わずアマンダをギュッと抱きしめる。
「ナゴヤ青少年保護育成条例第十七条、『保護者は深夜にみだりに青少年を外出させないようにしなければならない』」
後ろから突然、低い声が降ってきた。びくっと大きく肩が跳ねて、咄嗟に目をつぶる。
(じょう、れい…自分逮捕されちゃうんすか?夜遅くにファミレスにいたってだけで…?)
ちょうど「オバケが」「悪魔が」っていうのが頭をよぎったタイミングだったのもあって、心臓がバクバクいってて,すごく痛い。
「まあ、ここでいう『青少年』ってのは『十八歳未満の者』のことだから、お前はセーフ、だがな」
「ひ、ひとや、さん……?」
「何やってんだ、こんな時間に、一人で」
そろりと目を開けると、そこに立っていたのは、ひとやさんだった。上はオーバーサイズのナイロンジャケットに、インナーは黒のハイネック、細身のデニムに、バイク用のブーツを履いている。髪型は、トレードマークのリーゼントじゃなくて、前髪を横に流している。全部がいつもとちょっと違ってて、一瞬、ひとやさんって分からなかった。
「歌詞を……」
「歌詞?」
スーッと大きく息を吸って、胸の鼓動を落ち着かせる。痛いのは治まった。ただ、まだちょっと、うるさい。
「今度出す、新曲の歌詞を考えてたんっす。ただ、家じゃ全然進まなくて、環境を変えてみようと思って……」
「こんな夜中にか?」
「自分、夜型だからこれぐらいの時間に書いた方が捗るんっすよ。それに曲のテーマも『夜』だから、外に出たら何か浮かぶかなぁって思って……」
「なるほどな」
「ひとやさんは、なんでこんな時間に?」
「俺は、眠れなくてな」
自分の向かいの席に座ったひとやさんは、手に持っていたグローブをテーブルの端に置いて、そのまま注文用のタブレット端末に手を伸ばす。
「ベッドには入ったんだが、妙に目が冴えちまって。適当に読み始めた本も全然頭に入ってこねぇし、酒を飲む気分でもなくてな。まぁ、明日は休みだから少しバイクで走ってこようかと」
ああ、だからいつもとちょっと違うんだと合点がいった。服装も髪型もいつもみたいにビシッと決まってない。本当にただバイクで一人、気分転換をしに外に出てきただけなんだ。
ひとやさんは目線を注文用タブレットに落としたまま、何度かスワイプを繰り返す。
いつもは鋭く感じる目元は、しっかりと上がっている眉が今前髪で隠れているせいでタレ目が強調されて、これを言ったら多分怒られるんだけど、なんだかいつもより若い、いや少し幼く見える。下ろされた前髪から覗くグレーが混ざったエメラルドの瞳が左右にきょろきょろと動いて、ちょっと、かわいい。
もしかして、ひとやさんが普段からリーゼントで前髪を上げているのは、弁護士さんとして「強い」「かっこいい」っていう印象を与えるためなのかもってちょっと思った。
「適当に走って、たまたまそこの信号で止まったら店の中にお前がいるのが見えたんだよ」
そこ、とひとやさんが指差す窓の外を少し立ち上がって見てみる。ちょうど座っている席の真横が、停車線だった。
「よく自分って分かりましたね」
「その頭、目立つからな。俺もまさかこんな時間にと思って思わず二度見した」
「ドリンクバーしかねぇのか」と小さく呟いて充電ポートに戻された端末には「ご注文承りました。ドリンクバーはセルフサービスとなっております」という文字が表示されている。
「自分、飲み物入れてきますよ。ひとやさん、コーヒーでいいっすか?」
「ああ、悪いな」
アマンダ、お願いしますっす。そう言って、抱いていたアマンダをテーブルに載せて、自分はドリンクバーへ向かった。
中学の時からずっと好きだったひとやさん。自分から何度も告白して、最近やっと恋人になれたけど、お泊りとか「そういうこと」は自分が二十歳になるまではダメって約束になっている。デートもまだ数えるほどしか行けていない。
だから、こんな夜中に会えるのも、お仕事の時とは違う感じのひとやさんが見れるのも、すごく新鮮だった。
たまたま眠れない夜にバイクで出掛けたひとやさんが、たまたまそこの赤信号に引っかかって、たまたま見渡した先にこの店があって、たまたま自分がそこから見える席に座っていた。ドミノ倒しみたいに次々重なった偶然でひとやさんに見つけてもらえたことに、なんだか運命みたいなものを感じる。
「ラフな格好のひとやさんも、かっこいいなぁ」
こんな言葉が勝手に出ちゃうぐらい普段とはちょっと違うひとやさんにドキドキして、勝手に顔がにやけてしまう。
トレーに載せた二人分のカップを出来るだけ波立たせないようにゆっくり慎重に運ぶ。ひとやさんはコーヒー、もちろんブラックで。自分は、さっきまではジュースだったけど、せっかくだからとあったかい紅茶を入れた。二つのカップに意識を集中させ続けるのはちょっと大変で、何歩か歩いて、ふーっと一息ついて立ち止まる。
ふっと顔を上げると、ひとやさんがスマホを見ていた。
真面目な――ひとやさんの事務所に遊びに行った時と同じ――目をした横顔。多分お仕事のメールを確認しているんだと思う。見慣れたひとやさんのはずなのに、「いつものひとやさん」なのに、なぜだか胸がズキリとした。なんだろう、なんかちょっと、寂しい。
「お待たせしたっす」
「おお、ありがとな」
スマホから顔を上げたひとやさんの目の前にそっとコーヒーを置く。ひとやさんのは無事に運ぶことが出来たけど、自分の紅茶はさっき立ち止まった時に、少し、零れてしまった。
「で、進んでんのか?」
「え?」
「歌詞」
コーヒーを一口飲んだひとやさんの眉間にしわが寄る。小さくため息をついてすぐにカップを置いたので、多分、ひとやさんの口に合わなかったんだろう。
「それが、全然で……ねぇ、ひとやさん、一緒に歌詞、考えてくれないっすか?」
「は?なんで俺が」
「だって、何も浮かばなくって、このままじゃ締め切りに間に合わないかもしれないんっす!助けてくださいっす!」
パンっと両手を合わせてお願いをする。まさに神頼み。でもそんな自分にひとやさんは、「あのなぁ」とさっきよりも大きなため息をつく。
「いいか十四、俺には我慢ならんモンが二つある。一つ、無差別なセールスの電話。二つ、金にならない業務外業務だ。俺は弁護士であって何でも屋じゃない。法律が絡まない事は請け負いかねる」
「そんなぁ……」
人差し指と中指を立ててお決まりの構文とともに自分の「お願い」は見事に一蹴された。あまりにもバッサリだったものだから、最後の頼みの綱が、とがっくり肩を落とす。
確かにひとやさんは弁護士さんだから、自分が随分、オカド違いなお願いをしているっていうのは分かってる。でも、困ってるのが恋人なんだから、ちょっとぐらい助けてくれたって……
上目づかいで、うーっと口先を尖らせて恨めしそうにひとやさんを見る。色気も、かわいさもないけど、今の自分の「異議あり」を一生懸命訴える。
「歌詞を書くのも歌うのもお前の仕事で、ファンが好きなのはお前たちが考えて作ったものだろ?」
腕を組んだまま、ひとやさんはテーブルに肘を乗せて向かいに座る自分の方へ少し身を乗り出した。事務所でお仕事をしている時の、「いつものひとやさん」が、自分を見ている。
「そこに何の関係のない奴の意思が加わったものは、たとえそれが表面化されなかったとしても、これまで好きで追いかけてくれた人たちに不誠実だと思わねぇか?」
「それ、は……」
ひとやさんの言葉がすとんと胸に刺さる。目の前の「いつものひとやさん」から逃げるように少しずつ視線を下に向けて、顔いっぱいの「異議あり」を取り下げた。
怒るでもなく、呆れるでもない、だからといって突き放すわけでもない。的を射た言葉がジワジワ響いてきて、ギュッと喉の奥が締まる感じがする。下を向いた顔からポタポタと、雫が落ちた。
「だから、そうやってすぐに泣くんじゃねぇよ。確かに、『金にならない』は言いすぎたかもしれんが……」
「そうじゃ、ないんっす……ただ、自分、いろいろすごく中途半端だなって……バンドも歌詞書くのも、ひとやさんの言う通り、自分の仕事で、なのにすぐにこうやって頼っちゃって……」
ひとやさんの言ってること、何も間違ってなくて、なのになんで助けてくれないのって勝手に拗ねた自分が子どもみたいで、恥ずかしくって、情けない。
「あの約束も、やっぱり自分がまだこんなんだから……」
喉の奥から絞り出す声は震えてて、鼻の奥もツンと痛くなる。
十八歳。夜中に一人で出歩いても怒られなくって、最近のホウカイセイで「成人」になって、でも、まだお酒は飲めないし、タバコも(吸うつもりはないけど)ダメ。正直、今の自分って、大人なのか子どもなのか、よく、分からない。
「そうじゃねぇよ」
え?と、まだじわりと歪む視界でひとやさんを見る。ちょっとぼんやりしてるけど、まっすぐこっちを見てくれているのは分かった。
「二十歳になるまでは寝泊りも、そういうことも、って言ったのは、別にお前のことを子どもだとか、中途半端だとか思ってるからじゃねぇよ。……その、『俺が』、もう少し時間が欲しいだけだ」
「ひとやさん、が……?」
「バンド、立派にやってると思うぜ。オリジナルの曲書いて、ライブして、あれだけファンがいてさ。全然、中途半端なんかじゃねぇよ。ただ――」
ひとやさんが一瞬、言い淀む。
「お前のこと、中学の時から見てるから、まだ俺の理解が追いついてねぇんだよ、いろいろと。四年なんて、俺の歳になると誤差みたいなもんだから」
少しずつはっきり見えてきた目の前のひとやさんは、笑ってるような、少し困ったような、そんな顔をしていた。
自分の四年とひとやさんの四年って、同じだと思ってた。いじめのこととか、ばあちゃんのこととか、バンドを始めたこととか、DRBのこととか、自分の人生の中で一番いろんなことがあったから。すごく長い四年。そんななのになんで自分は、って思ってた。
でも、ひとやさんにとってはあっという間の四年で――
「すまないが、もうちょっとだけ時間をくれないか。俺が、お前のことをちゃんと、『そう』見れるように」
ひとやさんはさっき後ろから自分に声をかけた時と同じくらい低く、でもゆっくりと優しい声でそう言った。「いつものひとやさん」じゃない、少し困ったような、でもすごく柔らかい瞳で自分を見てる。
「ただ、もしお前が歌詞を書くのに『夜の海が見たい』とか、『山からの夕焼けが見たい』とかっていうなら、いくらでも付き合ってやる。それぐらいは、恋人だから、な」
ひとやさんの手が伸びてきて、そっと涙をぬぐってくれた。皮膚の硬くなった親指が目の下をなぞったとき、微かに、煙草の匂いがした。
前髪から覗く甘い視線、触れた指先、大人の香り。今、ひとやさんが自分に向けてくれている全部に、胸が、痛痒くなる。
「お前、また」
「これは、嬉しいから、っすよ……ひとやさんが、自分のことそういう風に言ってくれたから……」
勝手にあふれてくる涙と鼻水を袖でグイッとぬぐう。今はメイクしてないから汚れるのを気にしなくていい。ひとやさんは、「そうか」とだけ呟いて、自分の頭をポンと軽く叩いた。それにまた、じわっと目頭が熱くなる。
「歌詞、もうちょっと、自分だけで頑張ってみるっす」
「おう」
ひとやさんは口をつけたカップをまたすぐに置いた。なみなみ残ってる自分の紅茶は、多分もうすっかり冷めてしまっている。
「十四、今日は朝からなんか予定あんのか?」
「今日っすか?夕方からバンドの打ち合わせっすけど、それまでは特に……」
「だったら、ちょっとだけ付き合えよ」
「え?」
「バイク。ここでじっと座っていろいろ考えてるより、外に出たほうが何か浮かぶかもしれないだろ。それに、もうそろそろ日の出だ。夜から朝の移り変わりってのも、何かヒントになるかもしれないぜ」
「約束」があるから、二人でこの時間を過ごせるようになるのは、まだ少し先の話。だからこそ、ひとやさんからの「お誘い」が、なんだかちょっとだけズルをしているみたいで、でもすごく魅力的だった。
腕時計を確認するひとやさんを見て、自分もスマホを軽くタップする。まだ午前四時半。窓の外はまだ暗いけど、空はさっきよりは明るく見える。夜が明けるまであとちょっとって感じだ。
残っていたコーヒーを一気に飲み干したひとやさんが、カシャンと小さな音を立ててカップをソーサーに置いた。口に含んだ瞬間にまた少し眉間にしわが寄ったのが、ちょっとだけおかしくて、それを隠すように自分も冷たくなった紅茶を飲み干す。
「じゃあ、そのあと一緒に朝イチでモーニング行かないっすか?ひとやさんも、美味しいコーヒー、飲みたいでしょ?」
「そう、だな」
自分からの「お誘い」を、ひとやさんはフッと笑って快諾してくれた。
ひとやさんがタブレットを数回タップすると、「ご来店ありがとうございました」の文字と、会計を促す画面が表示される。自分は、急いでノートとペン、それからアマンダをバッグに入れて、先にレジに向かって歩くひとやさんを追いかけた。
ふと頭の中で新曲のメロディが流れる。これから向かう夜と朝の境目で、何かこう、うまくはまる言葉に出会えそうな、そんな予感がした。