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    @m73_925

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    「涙」をテーマにしたひとじゅしの話⚖️🌔
    (アンソロへの寄稿文だったのですが、アンソロの発行自体が無くなってしまったのでweb公開いたします)(主催様承認済)

    ・付き合っている、が、まだ日の浅いひとじゅし
    ・違法マイクネタ(あまり深く考えずお読みください)

    涙色 普段なら一段一段登る長い石階段を、出来るだけ脚を高く持ち上げて数段飛ばしで駆け上がっていく。次第に強張ってくる太腿に、獄は頭の片隅で明日の筋肉痛を覚悟した。
     頂上の境内に辿り着いたとき一呼吸分だけ手を両方の膝上に乗せて立ち止まったものの、その手で雑に首元のネクタイを外すとそれを握ったまま再び走り出す。
     砂利の敷き詰められた参道を駆け抜け、ようやく辿り着いた本堂の扉を無遠慮に力強く引き開けた。
    「おい! 無事か!!」
     扉を開けると同時に中へと呼びかけた声は、天井が高く広い本堂によく響いた。
    「おう、やっと来たか」
     息を切らし、乱れた髪も滲む汗もそのままに駆け込んできた獄と対照的に、本堂の奥から現れた空却は随分と落ち着いていた。
    「ンな慌てる必要ねぇだろ」
    「あんなメッセージ送ってきて、慌てるなっていう方が無理だろ」
     獄は握ったままだった赤いネクタイを適当に丸めるとポケットに突っ込む。
     
    『十四が、違法マイクの攻撃を喰らった』
     定時直前、唐突に空却から送られてきたメッセージ。
     すぐに返信するが既読が付かず、電話にも応答しないため、獄は定時と共に事務所を飛び出した。
     獄と十四は、恋人同士だ。
     きっかけは十四からの告白で、獄の方が半ば押し切られるような形で二人の新しい関係が始まった。
     とはいえ呼び名が変わった以外は何か大きな変化があったわけではなく、空却を交えた「家族」との差も曖昧な状態だった。
     道中心配で仕方がなかったのは確かだが、息を切らしながら走る獄の頭には、「恋人が」というよりも「家族が」ということの方が強かったほどだ。
     
     ここに来るまでに随分と崩れてしまった前髪は、もう修復不可能だと、手櫛でぐしゃぐしゃとその形を自らさらに崩してそのまま後ろへとかき揚げる。
    「十四は?」
     ん、と顎でしゃくった空却の後ろをついて行く。
     本堂から客間へ続く廊下に差し掛かると、西陽で一面染まっていた。
     今日の西陽は赤みが強く、廊下が血に染まったように見えて、逸る鼓動とは逆に足取りが僅かだが重くなる。
    「十四、入るぞ」
     返事がない襖を空却が開けると、十四が膝を抱えて座っていた。二人が来たことに気が付いていないのか、畳の上に座らせたアマンダの顔をじっと見つめている。
    「獄が来たぞ」
     その声にようやく顔を上げる。
     しかし、こちらを向いたその顔を見て、獄の背筋にスーっと冷たいものが走った。
     目立ったような怪我もない、綺麗な顔だ。
     だがその顔に一切表情がないのだ。
     獄たちを見る目に光が一切感じられず、見つめあっているはずの視線が通り抜けていく。
    「じゅ……」
     獄が声をかけようとすると、その光を失った瞳からポロリと一筋の涙が流れた。
     それは頬を伝い、落ちる。
     雫に差し込んだ西陽が反射して一瞬光った。様子のおかしい十四に戸惑いながらも、頭の片隅で「まるで宝石のようだ」と獄が思ったのも束の間、ボトッと畳の上に落ちる少し重みのある音がする。
    「な……」
     涙が落ちた先に、小さな光る結晶があった。
     さっきまでそんなものなかったはずだがと、自分の見たものを信じられず獄はピントを調整するように強めに親指と人差し指で目頭を揉んだ。十四の目から落ちたもの、涙の結晶? いや実は自分が見逃していただけで元からそこに落ちていたアクセサリーの一部か何かなのかもしれない。
    「残念ながら、錯覚とかじゃねぇ」
     我が目を疑う素振りをする獄に空却が言う。
    「どういうことだ。それに十四は一体」
    「昼間に寺に上等こいてきた阿呆どもがいてな。そいつらの違法マイクのせいだ」
     十四に歩み寄り、空却は床に落ちた結晶を摘み上げ、光に透かす。
    「笑うことも、怒ることもしねえ。感情が一切表に出てこなくなっちまった」
     獄はもう一度、十四の方を見やる。こちらをじっと見てはいるがその顔には読み取れる感情が一切ない。まるで西洋人形のようだった。
     違法マイクの攻撃。ということは精神の、感情を司る部分に何かしらの影響が出ているということだろうか。
    「じゃあそれはなんだ」
     繁々と空却が眺める十四の瞳からこぼれ落ちたものに獄は視線を移した。
    「唯一泣くことだけは出来るみたいでな。だがいつものようにピーピー喚くことはしねぇ。ただ一筋、一滴分だけ涙を流すんだ。で、なぜだかその一滴がこんな風に色のついた石ころに変わっちまう」
     空却に渡された結晶を獄も光に透かす。僅かに淡い緑色が滲んでいる。
    「会話は、出来るのか」
     ふるりと空却はその頭を左右に一度だけ振った。
    「こっちの声は聞こえているが、頷くぐらいの反応しかない。ロボットとか人形と喋ってる気分だぜ」
     そう苦々しげに言う空却とのやりとりを光の無い瞳で見つめるだけの十四。
     陽が落ちて薄暗い部屋で、確かに目の前にはいるのだが、気配が全く感じられないほど静かなのが余計にゾッとする。
    「つーか、それ、色が違うな……」
     空却はスカジャンのポケットをまさぐると、中から一つ小さな結晶を取り出した。
    「これは、攻撃を喰らったあと最初に泣いたときのやつだ」
     ほら、と差し出されたもう一つを獄は受け取る。少し黒ずんだ色をしていて、お世辞にも美しいとはいえなかった。
     獄の手のひらの上で見比べる二つの結晶は共に小指の爪ほどの大きさで、少し歪だが涙の形、いわゆるティアドロップ型をしている。
     異なるのは色だけ。
     よくないものを連想してしまう黒色と、淡い緑色。
     そういえば緑は安心だとか、癒しの印象を与える色だっただろうかと、いつかのクライアントか事務員との雑談を思い出す。
    「とにかくこんな十四をこのまま家に帰すわけにはいかねぇ」
    「そう、だな」
     第一、十四の両親にどう説明すればいいのか。違法マイクの被害はさほど珍しいものではないとはいえ、感情を一切見せなくなった十四を「あとはお願いします」なんて無責任にもほどがある。
     獄は、一度家族を喪くした四十物家を見ている。そんな経験をしている家に、今の十四を帰すなんてとてもではないができなかった。
    「獄、こいつのこと頼めるか?」
    「俺、か?」
     思わず言い淀んだ獄に空却は怪訝そうな目を向ける。
     獄が思わずそんな態度を取ってしまったのは、まだ空却に自分と十四の関係についてきちんと話をしていなかったからだった。
    「いや、見捨てるとか、嫌なわけじゃねぇんだが……その、お前じゃダメなのか?」
     言いにくそうに返した獄に、空却はまた赤髪の頭を左右に振る。
    「まだ付き合って日の浅い拙僧に、少し涙を流す程度の十四の感情の機微は完全に読み取れねぇ。だが縁ってヤツは共に過ごした時間の長さ、濃さに比例してその結びつきが強くなる。――お前なら、出来るだろ」
     鋭い金の双眸には、しかし、普段あまり獄には見せない信頼と、弟子を想っての懇願の色が滲んでいた。
     まだ話していないとは言え、自分たちの関係について何か察するものはあったのかもしれない。腐っても坊主である。
    「わかった。こいつの親御さんになんとか上手く言っておく」
    「頼む」
     すると空却は獄に深く頭を下げた。
     それにギョッとして、いつもの不遜な態度はどうしたと思わず嫌味が口をついて出そうになるが、弟子を巻き込んだことを悔やむ、まだ年若い師匠としての精一杯の誠意なのだろうと、獄は言葉を飲み込む。
    「十四、しばらく俺の家にいることになるが、いいか?」
     獄は十四の瞳を覗き込むが、視線は交差せず、ただすり抜ける。
     反応はなく、聞こえているのかいないのかわからない。
     もう一度、と獄が短く早く息を吸う。
     すると、十四がこくんと小さく頷いた。
     獄はそれに思わず息を止める。同時に十四の瞳から涙が溢れ、落ちた。
     畳の上に落ちると同時に結晶化したその色は、淡い黄色だった。
    「また色が違うのか?」
     獄が拾い上げた結晶を、空却が覗き込んでくる。
     黒や緑に比べて、はっきりとした色をしている。獄はその色に信号機を思い出した。
    「何か伝えようとしてんのか?」
     そう試しに問うてみた獄だったが、十四の瞳は変わらず空(くう)を見つめるだけだった。
     
     ◆◆◆
     
     自宅に十四を連れ帰った獄は、一先ず食事をさせることにした。
    「座って待ってろ。すぐに用意するから」 
     十四は黒い革張りのソファに静かに座る。
     初めて家にあげた時から、十四は好き勝手に家の中を動き回っていた。恋人同士になってからは入り浸ることも増え、図々しさにも拍車がかかっていたが、そんな生活にいつの間に慣れてしまっていたのだろう。
     今はただじっと向かいの壁を見つめ続ける姿に獄は侘しさすら感じている。
     アイランドキッチンから伺う十四の一切感情の浮かばない横顔は、整いすぎている美しさのせいでこの世のものではないようだった。
     一瞬でも目を離したら、次の瞬間には消えてしまうのではないか。そんな不安で十四から目を離せず、夕食を準備する獄の手は若干覚束ない。
     夕食は帰り道に買った惣菜だった。唐揚げやナポリタン、そして彩り用に少しのサラダ。気が付けば十四が喜びそうなものばかりになっていた。
     温め直してから皿に盛り付けて十四の前に置く。
    『わぁあ! パーティみたいっす!』
     そんな声が聞こえた気がして、獄は顔を上げる。だが今、目の前にいる十四はじっと出された皿を見つめるだけだった。
     その顔には喜びも、ましてや不満も浮かんでいない。
     ただひたすらに無、だった。
    「冷めないうちに食え」
     ほら、と獄に促されてようやく十四はフォークに手を伸ばす。
     全く同じものを盛り付けた皿に獄が「いただきます」と手を合わせたのを見て、十四も黙ったまま手を合わせた。
     かちゃかちゃと皿とフォークが擦れる音だけがリビングに響く。
     獄は十四と、こんな静かに食事をするのは初めてだった。
     味が濃いものばかりを食べているはずなのに、その味がわからない。目の前のものを口に運んで、咀嚼して、飲み込むだけの作業を皿が空になるまで繰り返す。ただ胃の中に何かが溜まる感覚がするだけだった。
     味気ない、とはこういうことをいうのだろうか。
     
    「ゼリーもあるが、食うか?」
     十四がすべて食べ終わったのを確認して、獄は声をかけた。
     十四の小さな頷きに立ちあがり、冷蔵庫へ。カップに入ったゼリーを二つ手にして戻ってきた獄は一つを十四に差し出す。静かに伸ばされた十四の手に持っていたうちの一つを乗せて、もう一つは自分の前に置いた。
     ゴロリと大きめの果肉が入ったゼリー。これも気が付いたら買い物カゴの中に入っていたものだ。
     十四が手渡された桃のイラストが描かれた蓋のセロハンシートを剥がすのを見届けて、獄もみかんのイラストが描かれた蓋を開ける。
    『やっぱりいつ食べても甘くて美味しいっすぅ! このゴロゴロの実がお得感あって大好きなんっすよねぇー!』
     静かにゼリーを口に運ぶ目の前の十四に、大きな口を開けて一口頬張りながら満面の笑顔と声ではしゃいでいた姿を勝手に重ねてしまう。
     すべては獄の記憶、妄想に過ぎないのだが、小ぶりのスプーンの先端に少し掬って、ちまちまとゼリーが運ばれていく口が開くたびに、あの明るい声が出て来るのではないかと淡い期待を抱く。
     喧しいから黙って食べろと諫めていたやり取りさえもどこか遠い過去のように感じてしまう。
     なにか、何か言ってくれとまるで祈るように獄は手に持ったスプーンを強く握っていた。
     すると十四の口元に集中していた視線の端で、相変わらず虚な瞳が微かに揺れた気がした。
     獄がそちらに目を向けると、一度だけ瞬きをした十四の瞳からすーっと一筋涙が溢れた。
     頬をつたい、顎下で一度止まったその涙は一滴の小さな雫となって落ちる。
    「おっと」
     咄嗟に手を伸ばした獄が、その雫を空中でキャッチした。
     握った手のひらの中に水滴で濡れた感触はなく、代わりに小さな硬いものを感じる。
     そっと開くと、そこにあったのは空却の寺で見たものと同じ、指先ほどの小さな結晶だった。
     天井のLEDライトに透かすと、暖かなオレンジが滲んでいる。
    「十四、それ、美味いか?」
     試しに尋ねてみた質問に十四が小さく頷く。その頷きは、これまでより少し大きい気がした。
    「そうか」
     獄は一口ゼリーを口に含む。小さな粒を口の中で潰すと、柑橘系独特の甘酸っぱさが広がった。
     
     ◆◆◆
     
     夕食後、すぐに眠ってしまった十四を寝室に運び、獄は書斎へと向かった。
     デスクの引き出しの奥へとしまい込んでいた名刺を取り出して、その身を革張りの椅子へと預ける。
     暖色のデスクライトの下で、取り出した名刺の裏と表を何度も何度もひっくり返す。
     こうしていればいつかそこに書かれた名前や番号が別のものに変わる、というわけではないのはもちろん分かっていた。だが、捻くれたプライドが素直にその名刺の人物に頭を下げることを拒もうとする。
     十四のこの症状の対処法と、どれぐらいまで続くのかという専門家の診断はどうしても必要だ。だが、違法マイクによる被害は症例がまちまちで、正しく診断できる医者は限られている。
     獄の内なる天秤が、この状況を打破するための最善且つ最短の選択と、凝り固まった自尊心でグラグラと揺れる。
     そんな風にうだうだと悩みながらその為人を体現したかのような名前を睨みつけていると、五つの漢字が次第にゲシュタルト崩壊を起こし始める。
     急かすような時計の音に舌打ちし、獄は漸く名刺に書かれた個人番号をスマホに打ち込んだ。
    『もしもし』
     受話器越しにテノールの、落ち着いた声が聞こえてくる。
    「寂雷、俺だ」
    『獄か? どうしたんだ、急に』
    「医者としてのお前に用がある」
     不服だと言わんばかりの物言いで唐突に切り出す獄。片方の膝が絶えず小刻みに揺れる。
    『何か、あったのか?』
     だが寂雷はこちらにも落ち着くように促す声色で獄に語りかけた。
     たった一声でも、かつての友からの突然の連絡に、のっぴきならない事情であることを察したのだろう。その察しの良さはありがたくもあるが、若干癇に障る。
     対面でないのを良いことに獄はあからさまに眉間の皺を深くした。
     一つ深く息を吸ってから、獄は十四の身に起きたことを淡々と説明し始める。違法マイクの被害にあったこと、泣く以外の感情表現がなくなってしまったこと、そして、流した涙が色のついた結晶に変わること。
     寂雷は適度に相槌を打ちつつ、獄の話をほとんど黙って聞き続けた。
    『四十物君の感情が、泣く、以外に消えてしまったということだね』
    「そうだ」
     ふむ、と受話器越しに寂雷の思案する声が聞こえる。
    『話を聴く限り感情を失ったというよりは上手に出力できなくなっていると考えるのが自然だろう。ヒプノシスマイクはその名の通り言葉で相手や自分に暗示や催眠をかけるものだ。効果が切れる、つまり催眠状態から目覚めれば四十物君の感情も元通りにはなると思うが』
     寂雷の見解を聞きつつ、獄は目の前に並べた十四の涙を見つめる。
     最初の黒、獄が駆けつけた時に流した緑色、空却の提案に対する黄色、そして食後に溢れたオレンジ色。
    「どれぐらい続くもんなんだ? 何か、対処法とかねぇのか?」
    『類似の症例は記憶にないから、確実なことは言えない。期間も数日のものもあれば、昏睡状態から数年目覚めていないという事例もあるしね――』
    「寂雷……?」
     それまで淡々と語っていた寂雷の声が少し揺れた。
     その事例とは寂雷の担当する患者のことなのだろうか。そう気になりつつも、今の獄は十四の症状が、寂雷の語る「数年」になってしてしまうのではないかと、そちらの方が恐ろしかった。
    「このまま、黙って見てるしかないのか?」
     獄はデスクの上の左の拳を歯痒さに強く握る。
    『私の見立て通り、四十物君の感情がただ表に出て来れていないだけだとしたら、少し強引だが、力づくでその感情を表に出してあげるのはどうだろうか?』
    「開かないドアをこじ開けるってことか?」
    『そういうことだ。あと、四十物君が流す涙は色が違うということだが、悲しみに限らず、感情が昂ると涙を流す人がいるだろう? その色は、状況に応じて昂った感情が表れているんじゃないかな』
     最初の攻撃を受けての黒い涙は「恐れ」、獄がやってきたことでの緑の涙は「安堵」、黄色は獄の家に行くことへの「緊張」だったのだろうか。そして、さっきのゼリーを食べたときのオレンジ色の涙。あの頷きから、これはきっと「喜び」の色だったのだろう。
     獄は悔しいながらも寂雷の仮説に同意するしかなかった。
    「だとしたら、その力づくっていうのはどうしたらいいんだ? 治すためとはいえ、今のあいつにこれ以上辛い思いは……」
     獄や寂雷の半分しかまだ生きていない人生で十四はいろんな傷を負ってきた。そんな十四を、治療のためだとしても傷付けるようなことは獄はしたくない。
    『別に悲しい思いをさせる必要はないよ。四十物君が最も心が大きく動くことをしてあげればいいんだ。心を揺さぶるとでも言えばいいかな? 嬉しいこと、楽しいこと、感動すること、なんでも構わない』
    「十四の心が動くこと……」
    『獄は彼のことを昔から知っているのだろう? だったら、それがわかるんじゃないのかい?』
     そうは言われても思い浮かびそうで、すぐに浮かんでこない。もどかしさに獄の指が机を叩く。
     だが専門家の言葉で、ある程度の安堵が得られたこと、そして獄が十四に何をしてやれるのかの光明が差したのは収穫だった。気に食わない旧友だが、頼ってよかったと獄は電話越しに小さく笑う。
    「寂雷、ありが――」
    『ところで流れた涙が結晶化する、というのは実に興味深いね。マイクの催眠・暗示がどう関わっているのか……もし君たちがよければ一度診せてもらいたいのだが』
     獄は口を開いたまま固まった。そして、電話のマイクに乗るか乗らないかの微かな音で舌を打つ。
    「……お前の診断を受けるかどうかは、少し様子を見てからにさせてくれ」
     一度は緩んだ眉間の皺を再び深くした獄の返すその声色は、一呼吸おいたものの苛立ちを隠し切れるほどでは残念ながらなかった。
     腕は確かだが、やはりこの悪癖には辟易する。
     言いかけた礼の言葉は飲み込んで、「助かった、また、連絡する」と短く告げて、獄は電話を切った。
     
     獄はテーブルに並べた小さな四つの結晶をじっと見つめる。
    「十四の心が大きく動くもの……」
     自分に、それが分かるのだろうか。
     大きく凭れかかったデスクチェアが、ギッと大きな音を立てた。
     
     ◆◆◆
     
     何が十四の心を大きく動かせるのか、日々思案しながら、獄は思いつく限りの手段を講じた。
     食べ物や映画、音楽、時には外に連れ出して、視覚や聴覚など五感に訴えかけてみたが、時折涙を流すことはあっても期待したほど十四の心を動かせるものはなかった。
     こんなに近くにいるのに何も響かない、届かないものなのか。
     寂雷の言っていた数年目覚めていない症例もあることを考えると時間が解決してくれるようなものだとも思えず、なにか、何かないのかと獄の焦りだけが日に日に募っていった。
     
     その日は雨が降っていた。
     テレビをつける気にもなれず、ソファに先に座っていた十四の隣に並ぶようにして、獄は腰をかけた。
     普段ならもう少し距離を取るか向かいに座るところだが、獄がそうしなかったのは、万が一があった時に――それが何なのかはわからないが――すぐに手を伸ばせる場所にいたかったからだ。
     獄は、今のこの人形のような十四と、自分たちの間に流れる沈黙に慣れつつあることに危機感を抱いていた。そのうち「いてもいなくてもいい」、そんな感覚になることが恐ろしかったのかもしれない。
     そんな獄に、窓を打つ雨の音は何かを急かしているようで鬱陶しい。
     獄は、湿気のせいでうまくまとまらず、今日はもうセットすることを諦めた髪をガシガシと掻きむしる。
     大きなため息を一つ吐き、立ち上がった獄は部屋の奥にあるキャビネットの扉を開いた。
     取り出したのはレコードプレイヤー。重さのあるそれを両腕で抱え、テーブルに載せる。
     しばらくしまい込んでいたせいか、アクリルの蓋に僅かに埃が積もっていた。それが舞ってしまわないように拭き取って、蓋を持ち上げる。
     音楽は、寂雷に相談した後、最初に試した方法だった。
     サブスクリプションで十四が敬愛するユメマガの曲や、ヴィジュアル系の曲を探して聞かせてみたが事態を好転させるほどの効果は表れなかった。
     なので、今こうしてレコードプレイヤーを取り出したのは獄が鬱陶しい雨音から逃げるための、沈黙を埋めるための手段に過ぎない。
     獄は針先や、ターンテーブルの動きに不具合がないかを確認し、ケーブルをスピーカーに差し込んだ。
     次に、肝心のレコードだが、とコレクションを見繕っていると、ある一枚で指が止まる。そっと指をかけて手前に引くと、出てきたのはスーツにポンパドールの男性が、アコースティックギターを抱えて微笑んでいるジャケット。
     ロカビリーの王の不朽のラブソングだ。
     この曲は十四がギターを練習し始めた頃、獄が弾いて聴かせてやったこともあった。
    『すごく、優しい曲っすね』
     初めて聞いた時、十四はそう言った。
     獄は両手でアナログ盤を袋から取り出し、ターンテーブルに載せる。電源を入れて回り出した円盤は、部屋の明かりが反射して黒い艶めきを放つ。
     トーンアームを人差し指で持ち上げたところで、獄は視線を感じて目だけをそちらへ向ける。相変わらず十四の表情は変わらないが、その目の焦点はしっかりとその針先に注がれていた。
     獄は十四の目が追えるようにゆっくりとアームを移動させ、レコードの上にそっと乗せた。小さなダイヤモンドが円盤上の溝を滑り始めると、特有ノイズが聞こえ始める。
    『針を落とした瞬間とか、曲中でもたまに聞こえるあのパチパチってノイズ、なんか良くないっすか? レトロ感があって、音楽ってずっと残るんだなっていうロマンを感じるっす』
     レコードを見つめ、物珍しさに輝かせていたあのときの瞳はまだ戻って来ない。
     爪弾かれるギターにのせて、ゆったりとした歌声が流れ始める。ギター一本で奏でられるメロディに、最低限のコーラス。そして鼓膜を心地よく揺らすバリトンは「優しく愛してほしい」という曲名にピッタリだった。
     シンプルな歌詞の衒いのない言葉たちは、聞いているこちらが恥ずかしくなってしまいそうだが、今の獄にはむしろそんな言葉を聞ける方が羨ましく思えた。
    「なあ、十四。やっぱり物足りねえよ」
     羨ましさからか、そんな言葉が獄の口からポロリと零れる。
    「お前がびーびー泣くのも、そのでけえ図体で俺の周りをちょろちょろするのも、『鬱陶しい』って思ってたはずなんだが……いざそれが全部なくなるとこんなにも静かで、物足りないもんなんだな」
     そう語りかけるが、十四はやはり黙ったままだ。
     獄は片手を伸ばし、隣の十四の右の手を取った。雨のせいなのかその指先が少し冷たいのが、十四の心まで冷えてしまっているように思えて、獄は握った手を少し強める。
     この手を握り返してほしいと切に願ったのはあの屋上以来だった。
     十四が心を閉じ込めてしまってから獄はいかに十四の表情や声が自分の生活に彩りを与えていたのかに気が付いた。
     半ば押し切られる形で始めた交際だったが、今思えば獄は十四にはっきりとした想いを伝えた覚えがなかった。
     今、十四の声が聞こえない、表情が見えないのは獄にとって静けさというよりむしろ無に等しい。
     あんなに心を向けてくれていた十四に、自分も同じようなことを感じさせていたのではないだろうか。
     雨音をかき消してくれていた音楽が終盤へと向かっている。これが終わると、またあの静寂に逆戻りだ。
     獄は十四の手を温めるようにもう一方の手も添える。
     そして曲に合わせてワンフレーズだけ口ずさんだ。
     王のような歌声はさすがに出ない。
     しかしその歌詞に負けないだけの想いは、その声と、握った手と、そして十四を見つめる瞳に篭っていた。
     ギターが最後の一音を奏で、再生を終えたレコードから自動的にアームが上がる。そしてゆっくりと定位置に戻っていった。
     再び雨音が聞こえ始める。
     だめか、と獄は力なく項垂れる。吐いたため息は落胆からか、少し震えていた。
     そのまま握っていた手の力を緩めると、僅かにだがその手を引き留めるように握り返す感触があった。
     獄が顔を上げると、目の前の十四の瞳が微かに揺れた。
    「十四、どうした?」
     十四がその長い睫毛を震わせながらゆっくりと瞬きをすると、涙がひとつ零れ落ちた。頬を伝ったそれは結晶となる。
     獄は片方の手を離してそれを拾い上げた。
     新しい涙の結晶はピンク色をしていた。十四の瞳の浮かぶ色よりはずっと淡いが、これまでのどの結晶よりも鮮やかで、そして美しかった。
     すると、ぽたりと獄の手の甲に何かが落ちてきた。手の甲には一粒の水滴。
     まさか雨漏りか、と獄が顔を上げる。だが、それは天井よりももっと獄に近いところからこぼれたものだった。
     目の前で十四が涙を流していた。
     それもたった一筋ではない。
     あふれて止まらない涙がぼろぼろとその頬を伝い落ちる。しかもその涙は固まることなく、握った獄の手や十四の服、ソファの上へと雨のように降り注いだ。
    「じゅう……」
    「っ、ひ、ひとやしゃ……」
     それまで表情を崩さずに一筋の涙を流すだけだった十四が、獄の目の前で徐々に顔を歪ませ始める。
    「ひ、ひとやさ、自分、じぶん……」
     ダムが決壊したかのように十四の瞳から大粒の涙がこぼれて止まらない。
     うまく言葉が紡げないほど泣きじゃくり、目元をぬぐい続ける十四の両方の手首を獄は優しく掴み、その顔を覗き込んだ。
     目元は擦りすぎたのか少し赤くなり、ズルズルと鼻を啜りながら口元は嗚咽に歪む。その顔に獄の頬が自然と緩んだ。
    「笑、わないで、っく、くださいっす」
    「笑ってるわけじゃねぇよ」
     恥ずかしいのか顔を背ける十四の目元から新たに溢れた涙を、獄が親指でぬぐう。色も形もない、ただ親指を濡らす感触が愛おしくて仕方がなかった。
    「嬉しいんだ、お前がやっと泣いてくれて」
     獄は十四の手を引き、胸元へと引き寄せる。
     そして先ほどの一節をもう一度、今度は抱き寄せた十四の耳元で口ずさんだ。
     
     外から聞こえる雨音は、もう気にならなくなっていた。
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