3月9日 少し長い式典を終え、教室に戻ってきた十四は窓際の席に座るとぼんやりと外を眺めた。式典の間に高く上った陽の光は温かく、少しひんやりした風が頬を撫で、胸元の手作りのコサージュを揺らす。
教壇に立つ担任からの最後の言葉とそれに鼻を啜る音が聞こえるが、それらは十四の耳を右から左へと抜けていく。
青い空を仰ぎ見ながら、頭の中はこの後のことでいっぱいだった。
「それでは、委員長」
その言葉に委員長が鼻声で起立の号令をかけ、一斉に椅子が床を引っ掻く音からワンテンポ遅れて十四も椅子を引いて立ち上がる。
「ありがとうございました!」
この一年で一番気合の入った礼の声にクラスの全員が続いて頭を下げる。今度はタイミングを合わせて十四も頭は下げたが、少し開いた口からは「ありがとうございました」の言葉は声になって出ることはなかった。
写真撮影にボタンや名札の交換に興じる人混みから逃げるように十四は足早に玄関へと向かう。
バンドを組んだ同級生とは明日以降も会えるのだ。別に今日学生服でわざわざ写真を撮らなくても良い。
校門前には自分の子どもを待つ保護者が集まっていた。卒業式にも関わらずギターケースを担いでいるせいかチラチラと向けられる視線から十四は少し顔を下げ、足早にその中をかき分けて進む。
ようやく抜けた先で空を見上げると雲ひとつない空に薄ぼんやりした月が浮かんでいるのが一番に目に入った。
すると背後で他の卒業生が出てきたのか少しざわつく声が聞こえる。だがそれには一切振り返らず、十四はもう一度、見上げた先の月だけを見つめた。
――もうここに残したものは何もない。
一つ深呼吸をして、背負ったギターケースのベルトを握るとしっかりとした足取りで十四は歩き出した。
『三月九日?』
『ハイっす。ひとやさん、夕方、お時間あるっすか?』
ぱらりと分厚いシステム手帳を開く獄を見つめる。トントンと手帳を叩く指に合わせるように心臓がハッキリとした音を立てる。
『一七時以降なら、大丈夫そうだ』
手帳から視線だけを上げたその顔にほっと胸を撫で下ろして、十四は学生鞄の中から白い封筒を取り出して獄に差し出した。
『これは?』
『えっと、チケットっす、ライブの。ひとやさんに是非来てほしくて』
『へぇ、誰のだ?』
そう言って封筒を開ける獄を十四はじっと見つめる。取り出したチケットからすっと視線を上げたその顔にゴクッと喉を鳴らし、アマンダを強く胸元で抱きしめた。
『へぇ……』
右手でチケットを持ったまま左手で顎髭をさすり、交互に十四とチケットを見やる獄に十四の心臓は早くなる。
『あの、どうっすか?』
意を決して出した声は裏返ってしまった。恥ずかしさと緊張で十四は抱きしめたアマンダの柔らかい身体に顔を埋めた。
『行くよ。必ず』
そう言って獄は口端を上げてひらりとチケットを振ると、再び封筒へとしまい、デスクの一番上の引き出しへと入れた。
『初ライブ、楽しみにしてる』
こうして獄を誘ったのが一週間前。
いつかバンドとしてライブに招待できたらとは夢見ていたが、ある日、自分がこれまで漠然と抱いてきた獄への様々な想いを代弁したかのような曲に出会い、偶然にも十四の卒業式の日がタイトルになっていて歌うならその日しかないと決意した。
予約したレンタルスタジオへ入ると、腹ごしらえに途中で買ったおにぎりを頬張りながら十四は早速目の前に譜面を広げる。
獄の前では教わるという形で何度かギターを弾いてきたが、きちんとした形で弾き語りを披露するのは初めてだ。
今日のためにバンド仲間やその知り合いに頼んで弾き語り用に譜面をアレンジしてもらった。キーもオリジナルでは十四にとっては低くすぎたのでちょうど良いものに調整してもらっている。
よく失敗しがちな箇所は赤、それとは別に十四が大事にしたいと思った箇所は青、そしてそれ以外にもいろんなメモがあちこちに書き込まれていて、もはや十四以外には解読不能な譜面になっている。
眼で譜面をなぞるだけで自然と手がコードを抑えるように動き、それに合わせて頭の中で自然とメロディが聞こえてくる。
何度も練習した。バンド練習の合間に聞いてくれた仲間たちも「良い」と太鼓判を押してくれた。
あとは届けるだけ。
チラリと壁の時計を見ると約束の時間までまだ十分時間があるが、だからといって悠長にしていられるほど心の方に余裕がない。
譜面に視線を落とすと、赤い印が異様に目についた。ここも、あそこも、と気になり出すとキリがなく、低くゆっくりだが心臓の音が身体の中から骨を伝って全身を震わせるように響いて、おにぎりを口に運ぶ手が止まる。
できるだけ、通しておきたい。
そう思って無理やりおにぎりを口に押し込んでお茶で流し込むと、ギターとアンプの準備に取り掛かった。
◆◆◆
突然ポケットの中が振動して、スマホを取り出す。
『もうすぐ着く』
メッセージの差出人は獄だった。
いつの間に時間が経っていたのだろう。液晶の左上を見れば、約束した時間が迫っていた。
最後にもう一度ぐらい通しておきたかったが、これ以上練習をする時間の余裕は残されていない。
声も、ギターを弾く指もいつもより調子がいい。だがいざ本番が近づくといろんなことが急に不安になってくる。
十四は獄からのメッセージに「了解」の意を示すスタンプで返信する。だがそのスタンプのポップさとは裏腹に、焦りからあまりにも時間ピッタリなことを少しだけ恨めしく思ってしまう。
十四は一度ギターを肩から下ろして、椅子を一脚、自分が立つ予定の場所の向かいに移動させた。
床の上に広げたままの譜面を拾い集めながら、赤ではなく青の文字だけを追う。
最初は赤い文字が多かった譜面に少しずつ増えた青色。練習してきた日々で一つ一つ書き加えた自分からのメッセージを目に焼き付け、そして鞄へとしまった。
コンコンと入口の扉をノックする軽快な音に顔をむけると、擦りガラスの向こうに人影が見える。特徴的な髪型のシルエットは間違いなく待ち構えたその人だ。
扉を開くと、よう、と片手を上げて獄がそこに立っていた。
「お疲れ様っす。今日はわざわざ来てくれてありがとうございます」
「別に構わねぇよ。あ、そうだ」
そう言うと獄はジャケットの懐から封筒を取り出した。
「ライブだろ、だったらまずこいつを見せねぇとな」
封筒の中に入っていた短冊状の紙を十四に差し出す。それは十四が手作りした今日のための、獄にだけ渡した世界でたった一枚のチケットだ。
自らわざわざ作ったものではあるのだが、こうやって渡されるとなんだか気恥ずかしく、十四は少し耳を赤く染めながら差し出されたチケットを一応、確認する。
「はい、確かに」
再び獄にそれを返し、どうぞと部屋の中へと招き入れた。
一本のマイクと向かい合わせになるように置かれたたった一つの客席に案内されて、獄は腰を掛ける。
十四は壁際に置いていたギターをすぐには肩にかけず、じっと見つめた。
世界で一番美しいと称される白く綺麗なギターはいつ見ても自信たっぷりだ。
それをこれから弾く自分はどうだろうと、まだギターに触れて日の浅い自分の手に視線を移す。練習している時は調子良く動いていたはずの指はいつのまにか固まって少し冷えてしまっていた。
チラリと振り返ると獄はゆったりと座りながら脚を組み、十四が準備を終えるのを待っている。
獄に預けられた大切なギターと共に初めてちゃんとした弾き語りを披露する。
預けてもらった想いに恥じないような演奏ができるだろうかと不安になる。だがたくさんの人に貴重な時間を割いて手伝ってもらった。
ここまで来たら退くことは出来ない。
細長い指を何度か握って血を送る。よし、と意を決して相棒を肩にかけると十四はマイク前に歩み出た。
「こよ……」
いつものように作った声色で口上を述べかけてやめた。
今日見せたいのは素直なありのままの自分で、観客はたった一人。十四の辛いことも、昏いところも、夢も、何もかも知っている人だ。取り繕う必要は何もない。
「今日は、来てくれて本当にありがとうございますっす」
ギターを片手に一つ深々とお辞儀をする。
「たった一曲だけなんっすけど、一生懸命歌います。本当は自分で作った曲と歌が演奏できたら良かったんっすけど、まだそれはできないから有名な曲をカバーでやらせてもらうっす。きっとひとやさんも知ってる曲っす。……少しでも何か伝わったら嬉しいっす」
緊張から声も、そしてギターに添えた手も震えていた。
少しずつ下がる視線をおずおずと上げる。すると何も言わずに、ただ優しい眼差しで十四を見つめる獄と目があった。
その目に、やれると確信する。
「それでは、聞いてください」
深く息を吸って、十四は六つの弦をピックで弾いた。
冬が終わり春が顔をのぞかせる三月の風景と、新しい世界への門出を歌った曲。
景色は変わってもそばには大切な人がいて、その人に相応しい自分になりたいという願いが込められた歌詞に自分自身が重なった。
人生を諦めかけたところを追いかけて差し伸べてくれた手は今度は外の世界へと連れ出してくれて、そしてこのギターを手渡してくれた。憧れを追いかけても良いのだと背中を押してくれた。
そんな恩人が、もう一人の憧れにならないはずがなくて。
今日十四は、卒業という人生の一つの区切りを迎えた。裁判が終わっても続いてきた獄との関係はもしかしたらこれを機に終わってしまうかもしれない。
叶うのならばまだそばにいたい。
新しく巡る季節をこれからも一緒に見たい。
まだその背中を近くで見ていたい。
でもそれは、いつまでも許されることなのだろうか。
不安がふと過り、弦を弾く指が再び固くなる。少しずつテンポがズレ始めるとそのことに焦って、声も上手く出せなくなる。
だが、止めてはいけない。
こうやって向き合えるのも今日が最後になるかもしれないのだ。
十四がこの曲で、伝えたかったこの想いだけはとギターを弾き、歌う。
――あなたが導いてくれた音楽の道で、あなたのように誰かを救える存在になりたい。
最後の二小節を残して、十四はギターを弾いていた手を止めた。
指を添えたギターの弦の震えが徐々に鎮まり、部屋から音が消えていく。
十四は獄の目をまっすぐに、離さないように見据える。
深く大きく息を吸う音が静かな部屋に響いた。
――あなたからもらったたくさんのものをいつか返せるようになりたい。
その誓いを込めて最後の歌詞を声のみで歌い上げた。
しばらく見つめ合い、ハッと我に帰った十四はその顔を隠すように上半身ごと深く頭を下げた。
一生懸命演奏したという達成感は漠然とだがある。だが出来が良かったかといえば怪しいところばかりだった。
あれだけ練習したのにテンポもズレたし、声も上手く出せなかったなと思い返していくと、演奏を終えた今になって譜面に書いていた赤い字がポツポツと浮かび上がり、あそこも、ここもと反省点ばかりが出てくる。
緊張からは解放されたが、今度は重い響きに変わった心臓の音が十四の胃をキリキリと締め付けてくる。
このあとどんな顔をしたら良いのか分からない困惑と、上手く弾けなかったという反省と後悔は込み上げてくる涙に変わる。
上げられない頭をどうしようかと悩んでいると、パチパチと拍手する音が聞こえた。十四がゆっくりと顔をあげると、獄が大きく手を叩いている。
十四が頭を上げながら少しずつ身体を持ち上げるのに合わせて獄も手を叩きながら立ち上がった。
たった一人のスタンディング・オベーションだが、手を叩く力強い音は大きく部屋の中に響き、それに合わせるかのようにそれまで重かった心臓の音が徐々に軽く跳ね始める。
「良かったよ」
叩く手を止めて獄は十四に言った。
「ほ、ほんとっすか……? でもテンポもぐちゃぐちゃになっちゃって、声も上手く出せなくて……」
「まぁ、それは確かにあったけどな」
あまりにも正直な言葉に十四の胸はチクリと痛む。
やっぱりと感情を隠せないまま表情を曇らせる十四に獄はそのまま言葉を続けた。
「だがお前の心の声はしっかりと響いてきたぜ」
再び俯きかけた十四が顔をあげると、獄が一歩前に出てトンと拳で十四の左胸を叩いた。
「この曲、昔から知ってるはずなんだが全然知らない曲に聞こえたんだ。まるでお前みたいだって思いながら聞いてた」
胸に刺さった小さな棘がぽろりと抜けて、代わりにじわりと温かいものが獄の拳から伝わる。忙しない心臓はその温かさを涙として瞳から押し出した。
「おい、泣くなよ」
呆れる獄に十四はゆっくり流れた涙を袖口で拭う。
「だって、なんか、嬉しくって……」
歌で何かを届ける憧れは昔からあったが、その喜びを知ったのは十四にとって今が初めてだった。
反省として浮かんでいた譜面の赤い文字が少しずつ消えて、青い文字が浮かび上がる。
『大切に、優しく』
『感謝を込めて』
『できるなら、まっすぐ目を見て伝えて』
歌に込めたそのひとつひとつが獄に届いたことが、嬉しくてたまらない。
「次はお前が作った曲、聞かせてくれよな」
「え、次って……これからも自分の歌、聞いてくれるんっすか?」
「当たり前だろ? それ、預けてんだ。もっと聞かせてくれよ」
それ、と言って獄は十四が提げたギターを指す。十四はその白いギターに落とした視線を再び獄へと向ける。
な? と獄が微かに笑うその顔に、十四はギターを抱きしめながら、何度も何度も大きく頷く。
「それから、遅くなったが」
泣きじゃくる十四の頭を何度か軽く撫でながら獄が呟いた言葉に、十四は涙を拭いながら顔を上げる。
グズっと鼻を啜る十四に微笑みかける獄の眼差しは演奏を見守っていたときと同じ温かな色をしていた。
「十四、卒業おめでとう」
それは獄からの新しい世界への歓迎の言葉だった。
一つの区切り、そして新たな幕開け。
まだまだこれからもあなたの隣で――
十四はそれに応えるように今日一番の笑みを浮かべたのだった。